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「チェルシー!!!」
愛しい娘の名前を叫んで手を伸ばした。しかしそこはさっきまでいたはずの町中ではなく、どうやら貴族であった頃に過ごしていた自室のベッドの上のようだった。
自分に何が起こったのだろう。それよりもチェルシーは……馬車に轢かれる寸前だったチェルシーはどうなったのか。とにかくベッドから降りようと足を伸ばして気が付く。
「子供の、足……?」
そこにあったのは自分の足とは程遠い、短くて細い足。触れてみようと動かした手も小さい。
「なにが、どうなっているの」
声も幼く聞こえる。自分の置かれた状況は全く分からないけれど、とにかく鏡を見てみようと移動する先にはやはり記憶のまま鏡があって、ここがかつての自室であったことを確信させる。そして、鏡に映る自分の姿を見て言葉を失った。
子供の頃の自分がそこにいた。
意味が分からない。というより、頭が働かない。どうして? 娘は? 夫は? さっきまで私は、34歳で2歳の子供がいる母親だったはずなのに。
なぜ、私が子供の姿になっているの……!?
「おはようございます。アドリアーナお嬢様」
呆けている内に入室してきたのであろう女性が声を掛けてきた。
アドリアーナと、そう呼ばれるのはとても久し振りだ。
「あなたは……ジェーンよね」
「はい、お嬢様。あなたの侍女のジェーンです。今朝は早く起きられたのですね?」
「えぇ、そうね。……今日は何年の何月何日だったかしら?」
「632年の3月12日でございます」
ということは、まだ6歳になったばかりの頃に戻ったとでも言うの? もしくはさっきまでの人生はただの長い夢だった? そんなまさか……。
「お嬢様? ご気分でも?」
「いえ、大丈夫よ。少し夢見が悪かったみたい」
「それならいいのですが」
平気よと声を掛けたが、どう考えても先程からの侍女への対応は6歳の私ではない。ジェーンも不審に思っているわね。朝になったら急に落ち着き払ったように見えれば体調などを気にされても仕方がない。突然精神年齢が34歳になっただなんてこと誰にも言えないし。
どうしたらいいのか全く分からず、ジェーンにされるがままに朝の支度を終え、ジェーンに促されて朝食を食べに食堂へ向かった。
すでに食堂には姉のモルティアナと兄のオスカーがいた。私が6歳ということはモルティアナお姉様が14歳でオスカーお兄様が12歳のはず。確かにそれくらいの子供に見える。
内心の動揺を悟られないように静かに朝の挨拶をして椅子に腰を下ろす。にこやかに挨拶を返してくれるお姉様と無愛想ながらもちゃんと返してくれるお兄様。そういえばこの頃はまだそこまで関係は悪くなかったように思う。
「おはようございます、お母様」
少しして食堂へやってきたお母様に3人がほぼ同時に挨拶する。
「おはよう。モルティアナ、オスカー」
私は当然のように無視をされる。もはや懐かしいと感じるほどに久しぶりのこの空気だが、本当に子供だった頃の私には耐えられなかった。
「いつもうるさいのが今日は静かでいいわね」
侮蔑の目を向けられる。なぜ私だけがこんな扱いなのかは明白だ。スタングロム侯爵夫人であるジュディスお母様はお姉様とお兄様の母であり、私の母ではないからだ。
私の母はカーラ。スタングロム侯爵の愛妾で、男爵令嬢だった。ジュディスお母様は公爵家から嫁いだため、たかが男爵令嬢ごときに夫の愛を奪われたことが許せず、私の存在そのものが憎らしいと、そういうことなのだろう。
今の私はこの理不尽な扱いも一歩引いた態度でいられるが、子供の私には無理だった。いつも理不尽だと憤慨していた。
私には何の責任も無いことで憎しみをぶつけてくるジュディスお母様も、八方美人で誰にでも良い顔をするお姉様も、家族に無関心なお兄様も、自分達が良ければそれでいいカーラお母様とお父様も、みんな大嫌いだった。誰からも存在を認められない私はいつも喚いて、使用人からも嫌われて、この家にいるのが心底嫌だった。
「それにそのドレスに髪型……似合っていないにも程があるわ。センスの欠片もないわね」
意地の悪い顔をしてこんな子供相手にそっちこそ品性の欠片もないのね。と、つい口をついて出そうになるが、噤んだ。
そもそも今の姿については自室を出る前に確認したが、6歳の子供であれば可愛らしいと表現してもいい程度のチグハグさだ。現にモルティアナお姉様は私を見た際に微笑ましいというように少し笑っていた。子供を見る目などそれくらいおおらかでいいはずだ。
「すべてジェーンが支度したものです。センスが無いと感じられるのであれば女主人であるジュディスお母様が侍女を教育してくださいませ」
私を馬鹿にして笑ったり、外で恥ずかしい思いをさせるために、おかしな格好をさせるよう侍女に命令していることくらい今の私は知っているのよ。
子供の頃にジュディスお母様に感じていた怒りや恐れといった感情はもう今の私には全く無かった。今や中身はほぼ同じ年齢なのだ。いい歳をした大人が、馬鹿らしい真似をと呆れるばかりだ。