ウィトゲンシュタインについて考えた事
ウィトゲンシュタインの著作で私が一番愛読しているのが、全集一巻に載せられている草稿だ。この草稿は『論理哲学論考』の準備として書かれている。
この頃、ウィトゲンシュタインは戦争に参加していた。彼は最前線に出ていたから、死の危険を考えずにはいられなかったはずだ。それが、この草稿に緊迫感を与えている。
これから書く文章上、以下に引用する部分は重要になるので、全て引用させていただきたい。1916年8月13日の草稿だ。
「人間は自分の意志を働かすことはできないのに、他方この世界のあらゆる苦難をこうむらねばならない、と想定した場合、何が彼を幸福にしうるのであろうか。
この世界の苦難を避けることができないというのに、そもそもいかにして人間は幸福でありうるのか。
まさに認識に生きることによって。
良心とは認識の生が保証する幸福のことである。
認識の生とは、世界の苦難をものともせぬ幸福な生である。
世界の楽しみを断念しうる生のみが、幸福である。
この生にとっては、世界の楽しみはたかだか運命の恩寵にすぎない。」
この部分だけ読んでも意味不明だろうから、一つずつ言葉を解きほぐしていく必要がある。
まず、ウィトゲンシュタインの言う「幸福」は普通の幸福とはぜんぜん違うものだという事が注意されなければならない。ウィトゲンシュタインは死ぬ前に「みんなに、僕は素晴らしい人生を送ったと、伝えて下さい」と言ったという。
この「素晴らしい人生」という言葉も、普通人が思う「素晴らしい人生」とは全く違うもののはずだ。というのは、ウィトゲンシュタインは鬱的な人間であり、兄弟は三人自殺していて、本人にも自殺願望があり、彼の生活は通俗的な意味では不幸でしかなかったからだ。
草稿には「世界の楽しみを断念しうる生のみが、幸福である」とある。だから、この幸福も普通の幸福とは違う。多くの人々は、不幸な出来事と幸福な出来事があり、幸福な出来事が多いほど幸福なのだとぼんやり考えている。だがそのような幸福はウィトゲンシュタインの考える幸福とは全く違う。
それではウィトゲンシュタインの言う幸福はどのようなものだろうか? それは以下の文章にあらわれている。
「認識の生とは、世界の苦難をものともせぬ幸福な生である。」
ウィトゲンシュタインの言わんとする事を現代にもわかりやすいようにするなら、ここに末期癌患者がいて、もう助かる見込みはなく、後は苦しんで死ぬだけだとしても、彼は「幸福でなければならない」。ウィトゲンシュタインの言わんとしている事を考えると、どうしてもそういう事になる。
人は「そんなものはあるわけない!」と言うのかもしれない。ただ、思い起こす必要があるのは、ウィトゲンシュタインは戦争の最前線に出ていたという事であり、彼は砲弾の音を聞きつつ、これらの草稿を書いていたという事だ。死の寸前においても、苦しみの中においても、幸福である、いや、幸福でなければならぬとはどういう事かというのはウィトゲンシュタインは必死で思考していた。
そしてそのキーとなるのは「認識の生」というワードだ。だが、これを説明する為には、草稿の結論としての『論理哲学論考』を説明しなければならない。
※
『論理哲学論考』は難解な著作として知られている。具体例が一切ないので難解と言われるのもやむを得ない。
『論理哲学論考』で、ウィトゲンシュタインはどういう事をやろうとしたか。彼は、言語によって語り得るものと、語り得ないものとを分けて、語り得ない部分については、現に生きる事によって示す他ない、と考えた。
これだけではよくわからないだろう。ここでは、語り得るものと語り得ないものとをどう分けるかというのが重要になる。語り得るものとは、大雑把に言えば「現実」に類するものであり、現実を指示するようなタイプの言語は語り得るものであって、語り得ないものとは「生きる意味とは何か」のような形而上学的なものだ。
『論理哲学論考』は、ウィトゲンシュタイン自身が後に自分の間違いを悟った事もあるし、また極めてわかりにくい為に、私もはっきり理解しているわけではない。ただ、ウィトゲンシュタインの根源の着想自体はある程度わかる。
ウィトゲンシュタインは、カントが理性の限界を定めたように、言語の限界を定めようとした。そして言語の限界の外側は、生きる(行動する)事によって示されなければならない。そう考えた。
カントが理性の限界を定めたのは、限界の外側としての神に居場所を残すためだった。神=語り得ないものだった。ところが、神無き後の世界における哲学者ウィトゲンシュタインは、語り得るものは、生きる事そのものによって示されなければならない、と考えた。だから彼は、生きる事、行動する事にあまりに過大な意味を課したとも言える。ニーチェは「超人」という概念を打ち立てたが、言語を破壊し、あらゆる概念から見放されたウィトゲンシュタインは、沈黙して生きる他、真実を示す術はなかった。
沈黙して生きる事そのものに意味があり、それ自体が幸福である。あるいは幸福でなければならない。ウィトゲンシュタインはそう考えた。
人生の幸福に対して人は、無限に議論ができるだろう。今も、ネット上で散々にそんな議論が行われている。嫉妬や自慢の入り乱れた議論が行われている。だが、そうした議論全てをウィトゲンシュタインは蹴飛ばす。
人生に何の意味があるか?というような議論は無意味であり、生きる事そのものが幸福だとウィトゲンシュタインは考えたわけだが、それでは、そのような思想は、「認識の生」とはどのような関係にあるのだろうか? ウィトゲンシュタインは一種の行動主義を唱えているのだから、「認識の生」とはまるで逆なのではないか?
これに関しては次のような言葉が説明になっているだろう。
「世界と生とは一つである。」
「死は生の出来事ではない。人は死を体験しない。」
生きる事の意味を我々は問う事はできない。死は、世界の外側にある事であり、我々はそれを体験できない。だから世界と生は一つである。この事を認識する事こそが、「幸福である」と言われる事なのだ。
幸福であるとは、自らが生きる事が世界と一致していると知る事だ。我々は生きているだけで幸福である。何故か。我々はそれに比すべき不幸を知らないからだ。不幸は世界の外側にあるからだ。
我々は、世界を二項対立で捉えようとする。有と無といった極限的対立で世界を捉えようとする。だが、世界のどこにも「無」は存在しない。これこそがウィトゲンシュタインが言いたかった事ではないか。真空は無ではない。人の死は喪失ではない。世界は、世界として存在しうる事象の全てに満ちており、その反対の無は、それがあるとしても、我々の認識できる世界の外側にあるもので、それが何であるのかはわからない。
「世界はなぜ、有であり、無ではないのか?」と人が問う事はできるだろう。だがそれはあくまでも世界の内部の出来事でしかない。そのように問う事ができるのは、世界が有であり、その人間が生きているからだ。
『論理哲学論考』のウィトゲンシュタインは、そのような議論を「語り得ないもの」に組み入れただろうが、『哲学研究』の頃のウィトゲンシュタインならば、それもまた言語ゲームの一つとして捉えただろう。
「言語ゲーム」は後期ウィトゲンシュタイン哲学のキーワードだが、ウィトゲンシュタインの基本姿勢は変わっていない。言語ゲームは人間の営みの一つであり、それは何か絶対的な答えにたどり着くべく行われるものではない。また、「言語ゲーム」という概念も世界の本質を暴露したものではない。
そうではなく、世界は今在るそのままの姿がそのままの本質であり、主体はそれと一致していると知る事が幸福なのだ。言語ゲームは人間の行う営みであり、その中で人は生きていく。「認識の生」とは自らがしているゲームを知る事に他ならない。世界にあるのは「有」でしかなく、よって全ては神の恩寵に満たされており、無は我々の感知しないものでしかない。それを知る事が「認識の生」なのだ。
※
私は上記のような事を仕事中に、つらつらと考えていた。どちらかと言えば言語ゲームに焦点を絞って考えていた。そしてふと、「自分も生きていていいのではないか」と思った。
どうして私が「生きていていい」と思ったのか。言語ゲームという思想は、あらゆる事を世界の内部に引き戻す。そして、世界のあらゆる事象が「特別」ではないと証明する。「言語ゲーム」の「ゲーム」の部分は原語では「戯れ・遊び」という意味もあるそうだ。だから、言語ゲームというのは勝ち負けがなくてもいいわけだ。
現実の世界に目を向けると、人はなんとか差異をつけようと苦心している。「論破」という言葉が流行る。勝つか負けるかというゲームが延々繰り返される。先日、行われたワールドカップは盛り上がった。四年に一度の大会で、「特別」な大会だ。
努力して夢を叶えるのは「特別」であり、タレントは普通の人とは違う「特別」な存在だ。クリスマスは「特別」だから、いつもと違う事をしなければならない。私やあなたは「特別」だから、人とは違う何かを持っている。等々。世界は様々な「特別」で満ちている。
だが、それは特別なものを、特別でないものと差異づけるゲームでしかない。私は、言語ゲームについて考えていて、「世界には特別なものはないのだ」と納得した。そして私も、「生きてもいいのではないか」と思った。
なぜ、私がそう思ったか。というのは、私にはもはや生きる意味はないからである。「生きる意味とは何か?」のような問いは、世界の外側にあるわけではない。世界の在り方や、自らの生を意味づけるゲームなのではない。そうではなく、我々が行う生の諸行為のゲームの一つにすぎない。
「言語ゲーム」という思想は、我々が絶対的だと思っている問いを、生の内部に引き戻す。絶対的なものを相対的なものに連れ返す。形而上学を日常に還元する。
私が「言語ゲーム」と「特別」という概念を繋げたのは、「特別」という考え方も、生の中の一つのゲームに過ぎないからだ。だが、人々はこれを決して承認しないだろう。
人はいつも言っている。有名になるのは大したものだ、とか、金持ちになるのは大したものだ、とか。そう言わない場合でも、心の中ではそう思っている。東大卒は法政大卒と、全然違う。たしかに、違うかもしれない。だがその違いは段階的な、相対的な差でしかない。人は、そこに越えられない一線を見ようとする。
「特別」とは、ある線を引いて、こちら側とあちら側に絶対的な差異を設ける事だ。神事などは「特別」という概念なしには決して実行ではない。「特別な場所」「特別な存在」そういうものがなければ、宗教は成り立たない。人々は宗教を世界から追放したが、結果、資本主義によって作られた細かな「特別」がいたる所に現れた。
「特別」のもう一つの特徴は、それを見ている時だけ存在しているという事だ。特別な存在、謎めいた女、憧れのスター。そういうものと実際付き合い、肌が触れ合うようになると、なんてことのない存在だと気づいてしまう。特別なものは柵を設けて、奥の薄暗い場所に安置していなければならない。
人は色々な事を言うだろう。私も色々な事を考えてきた。だがもういいではないか。私は生きる為の特別な意味を持っていないし、死ななければならない絶対的な理由もない。おそらく、そうした全ては、生の内部で様々に作られる概念に過ぎない。自分が死ななければならぬ絶対の、必然の理由があったとして、彼が死のうとしてそれに失敗し、生き残ってしまったら、彼は何と言うだろう? 自分の失敗を、自分の必然が必然ではなかったと悟るだろう。彼はそこで彼の観念の限界と出会ったのだ。
生きる意味がないという事は、生きる理由になりうる。私はそう考えたのだった。…私の前に一線があって、それを越えたら、私は生まれ変わる。私も人々と同じく、そのようなイメージをしていた。一線を越えるとは有名になる事、プロになる事、金持ちになる事、モテる事、色々な想像ができるだろう。だがその線は存在しない。それは私が前方に投射していたイメージに過ぎなかった。だから、私は生きていける、というより、生きる他ない、と思った。その時に、私はなんとなく(ウィトゲンシュタインがわかった)と思った。
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生きる為の確たる理由は存在しない。生を一変させる諸現象も存在しない。私がノーベル賞をもらおうと、私は私を変えられない。私の脳が壊れてしまえば、私の世界も壊れてしまうから、私は私の世界の変化を知覚できない。それは私の外部の出来事にすぎない。
私は「この」世界を生きていく。そして「この」の部分は語り得ない。
「認識としての生のみが幸福である」とはそういう意味なのではないか。目の前に現れる苦難をものともしないのは、苦難に打ち勝つ精神力があるからではない。そうではなく、目の前の苦難と格闘している私も、世界において、あるいはこう言ってよければ、神が原初に発した「ヤー(然り)」の言葉の中に含まれている。それを知る事が、幸福な生だという事だ。
私はウィトゲンシュタインはそういう事を言おうとしたのではないかと思う。もちろん、これは私一人の孤独な言語ゲームにすぎない。このゲームが何であるかを理解し、解釈するのはこれを読んでいる読者の仕事である。そこでまた新たな言語ゲームが始まる。私はそれをどのような意味でも規定する事はできない。ただ、私はそんな風に考えたというに過ぎない。