弥左知世は自身をとる
弥左知世。彼女の名を聞いて知らないものは、この高校にはいない。どこぞの王妃はその美貌から傾国の美女とまで言われたらしいが、それを彷彿とさせるほどの美貌だ。ああ、彼女を写真の中に収めたらどれほど美しいか。しかし、彼女の美しさは写真の中に入ることはない。収まりきらないという意味かって?それもあるがちょっと違う。彼女は、弥左知世は大の写真家だった。
通勤通学ラッシュの満員電車に揺られながら、なんでこんな羽目になっているのか、俺は高校に勉強してきたのであって、決してこのような、世も末とでもいうべきコンジェスチョンを経験しに来たのではないはずではないか、考えながら車窓を眺めていると、パシャリとシャッター音がした。盗撮のような犯罪の予感がしてそちらを仰ぎ見ると、そこには高そうな一眼レフを俺の方へ構えた少女がいた。いや、彼女は少女というには背丈が大きかったし、一眼レフのレンズを除けた顔は美しかった。彼女の名前は、ああ、確か弥左知世だったはずだ。俺はおぼろげな記憶を何とか引っ張り出すと、彼女に、確か俺より一学年上の彼女にこう呼びかけた。
盗撮は犯罪ですよ。
「なに、君も気づいたではないか。つまりこれは同意あってのことだ」
いや、俺は同意したつもりが全くないのですが。
「ほら、よく言うだろう?目を合わせたらバトル開始だとか、諦めたらそこで試合終了だとか。それと同じさ」
どこにも共通点が見出せませんが。
「まあ、とりあえず君は同意した」
……はぁ、まあ、じゃあそういうことでいいんで、なんで撮ったかを教えてくれませんかね。
「それはあれだ。君のアンニュイな顔と、車窓から差し込む陽光とのコントラストに心震わされたからだ」
なんと芸術的な。確かに退屈ではありましたが、それを、まるで他人の家にずけずけと土足で入るように撮影するとは。芸術家の才能が有りますね。
「ふっ、照れるな」
いえ、褒めていませんが。バリバリの皮肉なんですが。
「……まあそうだな。君の同意なしに取ったのは悪いと思っている――」
この迷惑野郎、ついに同意なしってことを認めやがったな。
「そこでだ。君には特別に私の撮影所へと案内しよう」
……何が狙いだ。
「いいや、打算ではないさ。本心から申し訳ないと思っているんだよ。……もう少し撮影したいってのもあるけれど」
こいつ本心言いやがったぞ。打算ありきじゃないか。そんなことなら絶対行ってたまるか。
「お!お願いだ!君しかいないんだ!」
弥左知世は潤んだ瞳で俺をまっすぐに射貫く。
くっ、こいつ、本当に噂通りに顔だけはいい。本当に、性格は残念だが顔だけはいい。
悲しいかな。男の運命としてかわいい女の子に言い寄られたら受けざるを得ないのだ。
俺は首肯していた。
「ふーん」
彼女の反応に俺の胃はキリキリ舞いを舞った。
まさかあの電車での一部始終を見られているとは。いや、最初から最後まで見られているとは。古屋美紀に。
「それで?今日は私と一緒に帰れないと」
あ、ああ、そういうことになる。
「ふーん」
……だからその反応はやめてくれ!俺の胃が!俺の腸が!
「自分のことが好きな子をほっぽり出して、ほかの女に行くなんてねぇ」
いや、それは申し訳ないと思っている。
「……まあいいよ。これが惚れた弱みってやつかな」
本当か!助か――
「ただし!私も弥左知世さんの撮影所に行くから」
ま、まあいいが。
放課後。
俺と古屋美紀は旧校舎に来ていた。なぜか。弥左知世の撮影所がそこにあるためだ。やれやれ、普通だったら一人で教室を借りることなんてしちゃいけないんじゃないんですかね。これだから優等生ってのは云々。俺たちは立て付けの悪い戸に手をかけると、それ相応の力を込めて引いた。
「やあ松本君、……と、ああ、古屋さんか」
なんだ、知り合いか?
「ううん、話したこともないけど」
「そう、私が一方的に知っているだけだ。風の噂でよく美形な人は聞くもんでね」
だそうだ。
「美、美形だなんてそんな」
何を照れてる。
「そ、そりゃそうだよ。かわいいなんて言われたら」
……ふーん、そんなもんか。
「そうだよ!」
まあ、でも事実、かわいいからな。頭は馬鹿だけど。
「へ?」
ん?聞こえなかったか?かわいいって言ったんだ。頭は空っぽだけど。
「ななな!」
「ほう」
弥左知世の瞳の奥が怪しく光る。
「そ、そんなこと言われたって嬉しくなんかないんだからね!」
そういうと古屋美紀はそっぽを向いた。
(パシャリ)
何やらシャッター音がした。俺は弥左知世の方を見る。古屋美紀も驚いた様子で弥左知世の方を見た。
「いやはや、なかなかいい写真が撮れたよ」
「ちょ、ちょっと!何に使うつもりですか!」
「ん?使う?確かにそうだなぁ。これほどのいい写真、何かに使わないともったいないか」
「え!?いや!使わなくっていいです!」
「いいや、ぜひとも使わせてもらおう。提言ありがとう」
「え!?――松本くーん?」
古屋美紀は俺を睥睨した。おいおい、なんでその責が俺の方に回ってくる。
「ひゅーひゅー!」
「お熱いねー!」
俺と古屋美紀が教室へ向かう間、悪乗りをした男子どもに囃し立てられる。隣を見ると耳まで真っ赤にした古屋美紀がいた。やれやれ、だからあれほど一緒に来ない方がいいといったのに。なんで「そっちの方がもっと駄目だもん!」とかいう謎な理論を定立してしまうかね。
なんでこうなっているか。それは弥左知世の撮った写真に起因する。朝早く学校に来た生徒が下駄箱前の掲示板を見ると、そこには『恋するということ』という題の、俺と古屋美紀が写った写真がでかでかと張られていたらしい。これは田村がメールで知らせてくれた。それを古屋美紀にも、もちろん言ったわけなのだが、いろいろあって今のような状況になっている。しかし、さすがにこれはやりすぎでは。そこで俺は今日の放課後、弥左知世に抗議しに行くことを決意したのだった。
まったく、何をしてくれているんですか。
「ん?有効な活用方法だっただろう?」
どこがですか。
「だって、第一君は彼女の気持ちに答えようとはしていないじゃないか。だったら外堀から――」
答えましたよ。
「ん?なんだって?」
だから、古屋にはもう俺の気持ちを言いましたよ。
「ほう、どういう風に」
付き合うことはできないと。
「……それでも彼女はいまだに君が好きというわけか。君も気の毒だね」
いいや、そうでもありません。人から好かれるってのはうれしいことですからね。それに彼女がまだ俺に付きまとうのは、俺の方にも責任があります。
「ほう、と言うと?」
……先輩は愛と恋の違いは何だと思いますか?
「愛と恋。……すまんが全くわからないな」
恋っていうのは理想の押し付けで、愛っていうのはありのままの受容なんですよ。
「ほう」
そして俺は愛してほしい。恋慕してほしいのではなく。
「なるほど。それで彼女は恋慕に過ぎないといいたいのだね?」
ええ、大体そうです。
「だが、恋慕から始まる愛だってあるかもしれないじゃないか。それだったら――」
ええそうでしょう。ですがそれは未来のことですよ。
「……確かにな」
いったい、俺は何で未来に俺の人生をかけなきゃならないんですか。或いは彼女が幻滅した時、それはそのまま俺の絶望になるかもしれない。
「ああ、つまり君は偏屈なんだな」
どうとでも言ってください。
「はあ、今度は彼女がかわいそうになってきた」
乙女心ってのは移り変わりが激しいんですね。
「それとは関係ないと思うが」
「で、写真の出来はどうだったかね」
ええ、そりゃあもう、素晴らしかったですよ。
「それはよかった。あれは私の自信作なんだ」
そうですか。それはよかったです。
「ああ、しかし、……君は本当に魅力的な人間なんだな」
ありがとうございます。
「彼女が好きになったのもわかる」
……一体どこでそう思ったんですか。
「ん?ああ、……そうだ、君に一つこんな話をしてみよう。これは物語、あくまで虚構さ」
そう言って彼女が言ったのは摩訶不思議な話だった。
ある少女は写真と話せるという。特に、強く心ひかれたものと会話ができるという。それがなぜかはわからない。だが、彼女はこう考えている。彼女の家庭は貧乏で、何か心をひくものがあっても手に入れることができなかった。彼女が毎日持ち歩いている一眼レフも、実は盗難品だ。しかし、その盗難を契機に彼女の、ひいては彼女の家庭は変わった。彼女が美しいと思ったものを写真にとることによって、それを家に飾ることによって、まるで自分たちが清貧の中を生きているように思えたからだ。それ以降、彼女は写真が好きになった。清く美しい写真が、一瞬を永遠に残してくれる写真が好きになった。いつしか、彼女は写真と話せるようになったらしい。つまり、それに心惹かれているから話せるのではないかということだ。
「気持ち悪いか?」
彼女は俺に、微笑みながら問いかけた。その微笑みの裏には確かに拒絶されることへの恐怖があったように思う。
てことは、つまりその”彼女”とはあなたのことであると。
「……ああ、そうだね」
……まあ、その話が本当かどうかにかかわらず、盗難ってのは悪いでしょう。
「確かにそうだな」
ですが、別に僕は気持ち悪いなんて思ったりしませんよ。
「というと?」
いいえ、そこまで深い言葉ではありません。……まあ、弥左知世先輩が中二病にしろそうじゃないにしろ、僕には関係のないことじゃないですか。人間ってのはどこまでも他人なんです。人のあらを探すってのも、確かに楽しいでしょう。ですが、他人なんだったら、その人の好い所を見つけたほうが楽しそうじゃないですか。自分と比べるよりもその人にしかない絶対的な価値を見つけたほうが楽しそうじゃないですか。弥左先輩は写真に熱中している。そりゃあもう盗撮を正当化するぐらいに。それが弥左先輩のすごいところじゃないですか。
「……ほう、なるほどな。君は達観しているんだな」
そうですかね。
「と、松本君が言っているようだよ」
弥左先輩は写真に話しかける。多分中二病が発症したのだろう。すると――
「ああ、声が聞こえない。写真の声が聞こえない。とすると、たぶんそういうことなんだろう。いいさ、ああ、松本君。帰る前に一つだけ私のお願いを聞いてくれないかい?私が君と古屋さんを見ていて思ったこと、美しいと思ったもの、それがまた現れそうなんだ。どうか、下手でもいいから私を撮ってくれよ」
俺はシャッターを切った。
もっと丁寧に書けばよかった~!って後悔しそうな出来栄えです。