私たちは文章を読めていないことに気がつくべきである。
はじめに、私個人の私見を多分に含んでいること、特定の作者様または作品を貶める意図はないことをお伝えしたい。参考意見の一つ程度の認識で構わない。
また、自分に絶対の自信がある、もしくはお前の戯言を聞く意味はない、と言う方はブラウザバックをするべきだ。私は見る専という奴であり、作品を作ることはほぼない無名の人間であり、至らない点も多分にあるだろう。
その上で私が感じている問題を記したい。
私たちは文章を読めていない、書けていないことに気がつくべきである。
これは書籍化されている、いないにかかわらず多くの作者、読者に言えることである。
私も例外ではない。
なろう作品の書籍化も増え、作家のハードルが下がっていると言うべきか、より身近になったというべきかはさておくとする。
私自身、多くの作品が世に解き放たれることは歓迎すべきことであると思っている。
前々からあった大きな問題をひとつあげるなら、「論点のすり替えに作者/読者が気づいていない」という点である。
これは文章が成り立っていないかどうか、校正チェックには引っかからない問題であり、作者自身が気づいていないことも多々ある。
お前の作品はこれがあるからつまらない、という人がいて
そんなこと言うならお前が俺より売れる作家になってから言え、と作者が返したとしよう。
売り言葉に買い言葉、安易な否定と擁護をするなら簡単だが待ってほしい。
この会話が成立していない点を、我々はおかしいと思わなければならない。
作品を否定する人間(仮にAとしよう)は「これ」と具体的な例を示している。
一方、作者(仮にBとする)はAに指摘する資格がないと断じた、もしくは人間性を否定しただけである。
まず前提として、評価を述べる人間がBのように作者である必要はないのである。
世の評論家達が優れた作者であるとは限らず、逆もまたしかりである。
Bがたとえどんなに優れた作者であったとしても、Aがそうである必要はない。
Aがもし優れた評論家だとしても、優れた作者とは限らないだろう。
もし仮にAが「作品なんて簡単に作れるだろう?」とBの苦労を知らずに述べたなら、「お前が作ってみろ」と返すだけである。
論点がすり替わっていることに気がつかないと、こいつ何言っているんだというサイコパス判定を下されるだけである。
異世界の人間に現代の常識を説いても、考えを押し付けただけでなにも進展していないことがおかしいと思わなければならないのだ。
すり替えた問題は解決せず、異世界の常識なんてなかったことになるだけである。
説得力の何もない言葉では誰も納得させられず、論破した気になっても問題がすり替えられただけとなるだろう。
この問題に面白い面白くない、人気があるなしといった点は全く関係ないことである。
きちんと文章を作る、読み取ることは経験・知識・本人の資質によって左右されることだろう。
私もまだまだ未熟である為、うまく伝わるとは思えないが、異論は大歓迎である。
論点がすり替わっていないか?文章が成立していないのではないか?
我々は文章をきちんと読めているのか?
私は改めて貴方に問おう。
賛否に関わらず指摘でも異論でも私は受け入れる