雑学百夜 「くしゃみ」の語源は早口言葉
「くしゃみ」の語源は「休息万病」の早口版
くしゃみは昔「くさめ」と呼ばれていた。これはくしゃみをした際、おまじないの意味を込め「休息万病」と早口で唱えていたことから来ている。
「本当にここにくさめ先生とかいう医者はいるんでしょうか?」
部下の林が聞いてきた。
「古い文献に残っているのだ。いるかどうかは調べてみないと分からんだろう」
私が諭すも林は不服そうな顔を浮かべる。
「そうは言いますがね。そもそもこんな時代の医者に何が出来るというのですか? カメラに魂抜かれるなんて本気で信じているような奴らですよ?」
そう話す林の横を両天秤担いだ南瓜売りがすれ違っていった。
「偏見甚だしいな。そんな事を信じていたのは一部の庶民だけだ。どんな時代にもそんな奴らは一定数いる訳だし、ましてや今回のこれは政府からの命令なのだ。いかなる事情があろうと我々が勝手にミッションを放棄するわけにはいかないことくらいお前にも分かっているだろう?」
上司としての威厳を醸し出しつつ部下を叱る私を、後ろから飛脚が追い抜いて行った。
「分かってますよ。まぁだから使えない部下の独り言だと思って聞いてくださいよ。僕はこんな時代の医者に、僕らの時代で大流行している感染症の治療なんて絶対に無理だと思いますよ。こんな訳の分からないタイムトラベルさせる位ならマスクの一枚でも配る方がまだマシでしょ」
林は憮然とした態度でそう言い放つと、髪結い所でちょんまげを結っている町民を一瞥し早足で長屋通りを歩いて行った。
思わず溜息を漏らした私に、近くにいた屋台蕎麦の店主が「そこの兄さん! どうしたんだい? 腹が減ったなら一杯どうだい? 15文に負けるよ?」と声を掛けてきた。
私は頭を振り応えた。
林の言葉が頭に残る。
訳の分からないタイムトラベル。まぁ、正直私も同じ気持ちだ。
我々の時代の命運を江戸時代の医者に託すなんて、ほんの数か月前は思いもしていなかった。
江戸時代の彼らから見て遥か未来にあたる我々の時代では今、未曾有の感染症災害が世界を襲っている。人類史に残るパンデミックは皮肉にもこれまでいがみ合っていた各国を一つにさせた。結果、国境や宗教や人種、あらゆる壁を越え、人類の英知が結集しこの感染症問題に取り組むこととなった。。
万能薬・不老不死……夢だったはずの技術が次々と現実味を帯びる中一番最初に完成したのが何故かタイムトラベル技術だった。
現代から未来には飛べないが、現代と過去を行き来するのは自由。
未来の医学を先取りすることは出来ないし、過去に飛び感染源を絶とうとすると、そもそもこの感染症をきっかけに生まれたタイムトラベル技術がなかった事になるという何とも残念な仕様。
結局、このタイムトラベル技術はこの感染症問題については『歴史上の名医からアドバイスを貰う』という訳の分からない用途に使われることとなった。
我々はそのプロジェクトの一員としてこうして江戸時代に飛んできたわけだ。
何でもこの時代、江戸には『くさめ医者』という名医がいたらしい。文献によるとどんな病も『くさめ医者』に掛かるとたちどころに治ったという。只の作り話の可能性は十二分に考慮しつつ、それでも万が一に賭けてこうしてやって来たわけだが……先の林の言葉を聞きやはり自信が無くなってきた。というよりこんな藁にも縋るような事をしなければならない所まで追い詰められているという事実に気持ちが落ち込む。本当にこんな事をしていて大丈夫なのだろうか?
「隊長、ここみたいです」
林が向かいの長屋を指差す。
中からは確かに「くさめ先生! 娘は助かるのでしょうか?」「ふむ、まぁ安心なさい」といった会話が聞こえてきた。突然どこかの長屋から声が聞こえた。林も私も足を止めた。辺りを見回す。
「間違いない。取り敢えず実在はしてるんだな。良かった」
私は胸を撫で下ろす。一方林は「まぁ、使える奴かどうかは分かりませんが」と言い肩をすくめた。
「それを調べるのが我々の仕事だ。行くぞ」
私はそう言い偽装スプレーを全身に纏った。このスプレーを身に纏うと自身の存在に対して周りの人間が違和感を感じなくなるという都合よすぎるほどの優れもの。元々、某国の諜報機関で使われていた軍用品らしい。ウイルスが人類の陰を明らかにしていくたびに、ウイルス関係なく人類は近い将来滅亡していたのではないかと感じるのは私だけだろうか。
長屋の中には色白な娘とその両親らしき男女、そして質素な着物に身を包む老人が一人いた。
「くさめ医はいるか?」
私が聞くと老人が振り返った。
「はて? なんでしょう?」
「話があるのだが」
「はいはい。病のご相談でしょうかね? こちらのお嬢さんの治療終わってからでいいかな? すぐ終わるのでね」
そう言いながら老人……いやくさめ先生は患者である娘の瞳孔や喉の奥を覗き見る。
「もちろんだ」
元より、この医者がどのように患者を治すのか調査しようと思っていたところだ。手間が省けた。私は林に目配せをしカメラの準備をさせた。
「これは今町で流行っている病で間違いないよ。高熱に、咳に……さぞ辛かったろうに。この様子じゃ碌にご飯も食えてないだろう?」
「へっ、へい。そうなんです。日に日にやつれるこの子が不憫で、不憫で……」
そう言うと父親は涙をこぼした。
「うんうん、親のあんたも辛かったろう。よしよし今、治してやるからな」
くさめ医はそう言いながら娘に近付いた。
いよいよだ。私もカメラを構える林も固唾を飲んで見守った、次の瞬間、くさめ医は「くさめ!! くさめ!! くさめ!!」と三回思い切りくしゃみをした。
その後、くさめ医はおもむろに立ち上がり「それじゃ」と言い、両親は深く頭を下げ「ありがとうございました」とくさめ医を送り出した。
「「え?」」
私と林の声が重なる。
「今のが治療ですか?」
私はくさめ医に尋ねる。
「くしゃみしただけじゃないっすか?」
林は少し怒った様子でくさめ医に詰め寄った。
くさめ医は不思議そうな顔で「くしゃみではなく『くさめ』じゃよ? 正しくは休息万病じゃがね」と言った。
「えっ? どういうことっすか?」
林は首を傾げる。
――ちょっと待て。確か。
「そう言えば、聞いたことがある。その昔、病を治すために休息万病と早口で唱える風習があったと……くさめ医っていうのはつまり……」
私がゆっくりと目をやると、くさめ医は大きく頷いた。
「左様。皆はわしを医者というが、言ってしまえばただのまじない師じゃよ」
くさめ医の言葉に林も私もがっくりと肩を落とした。
「隊長、やっぱり外れですよ。こんなヤブ医者崩れに何が出来るんですか」
林が言う。失礼な物言いだが同感だ。こんな奴に未来の感染症を治せるはずがない。
任務は失敗だ。
我々は大人しく未来に帰ろうとしたその時突然後ろで声がした。
「先生はほんに名医よ!」
振り返るとついさっきまで寝込んでいた娘が立ち上がり叫んでいた。
「おつる! 大丈夫かい!?」
両親が駆け寄ると娘は「大丈夫よ。お父ちゃんお母ちゃん心配かけてごめんね」と笑顔で応えていた。
「ほお、もう良くなったかい。若いのはいい事だね」
くさめ医はそう言い心の底から嬉しそうに笑っていた。
「先生。ありがとうございました。それよりそこのあんた達! 先生を馬鹿にするのは私が許さないよ」
娘が林に詰め寄る。
「いやいや、医学もくそもない、たかがまじないじゃないか」
林がそう言い返した次の瞬間、林は思い切り娘に頬を叩かれた。
「先生の治療も受けたことも無い癖に勝手なこと言わんの!」
娘はそう言うとくさめ医の方を見返り続けて言った。
「この先生は本気で私の体を心配してくれている、言葉かけ一つ取ったってその気持ちが溢れるほど伝わってくるの。そんな医者の優しさが患者にとって一番の薬になるの。私はこの先生の為に元気になりたいって思っていたらいつの間にか治ったわ。どんな病気もそうやって人柄で治すくさめ先生は間違いなく名医よ! 馬鹿にしないで!!」
娘の言葉は私の耳ではなく心に響いた。
確かに未来の世界では今医者は皆疲弊し患者の心に寄り添うことが出来なくなっている。
ひょっとすると今我々が必要としているのは、くさめ医のような医者なのかもしれない。
頬を叩かれた林も文句ひとつ言わず何かを考え込むような顔をしている。
私は林に三人分のタイムトラベルの準備をするように指示した。
私はくさめ医にすべて話した。未来では世界中の人々が病で苦しんでいる事。その世界にはひょっとするとあなたのような医者が必要なのかもしれないと。
くさめ医は多少驚いた様子だったが、直ぐに状況を飲み込み「私でよければ力になりましょう。患者さんの所まで案内してください」と言ってくれた。
タイムマシンにこんな概念があるのかは分からないが、とにかく早く、超特急で我々の時代に帰った。
一人でも多くの命が救えるかもしれない。奇跡よ、おこれ。
政府への報告もそぞろにくさめ医を連れて私達は急いで感染症指定病院に向かった。
くしゃみばかりのくさめ医は病院の入り口のスクリーニング検査に引っ掛かり出禁になってしまった。
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なおこのシリーズで扱う雑学の信憑性は一切保証しておりません。ごめんなさい。