Ⅲ
ふと彼女のキーボードの音が止んで、私は我に返った。
随分長いこと回想に耽っていたような気がしたが、時計に目をやると案外そうでもなかったらしい。少し安心して、進めていた課題に戻る。
スピーカーの向こうからは、何の音もしなかった。
どうせ長考しているか寝たかのどちらかだろう、とさして気にせずにいると、意外にも彼女は躊躇いがちに声を発した。
『……あんたの色恋は、どうなった?』
「へ?」
予想外の言葉に、思わず素っ頓狂な声が出る。
そんな私に構わず、彼女は続けた。
『あんた、書けなくなったって言ったろ。それで、イルミネーションと海の話した時のこと思い出したんだよ。そういやあのとき色恋沙汰が原因で書けなくなったって言ってたなぁって』
「なるほどね。何を藪から棒に言い出すのかと思った。……奇遇だね、私もその時のことを思い出してたんだ」
『別に藪から棒でもないだろ。……そうじゃないかと思った』
彼女はたまに、こちらを見透かしたようなことを言う。
「あの時も言ったけど、色恋は直接の原因じゃないよ。私がおかしかっただけ。……君みたいな人間だったら、上手くできたんだろうなぁ。地上の恋」
『なんだそりゃ』
人魚姫みたいだな、と彼女が大真面目な声で言うので、私は吹き出してしまった。
だって、あまりにも言いえて妙だ。
地上の人間に恋をして、手に入らないものを求めて、自分の住むべき場所から飛び出した。そして結局適合できず、元は持っていたものまで失ってしまった。
ひとつあの童話と違うのは、色恋の相手にまで不幸を及ぼしてしまったことだろうか。
「結局さぁ、私はどうしようもなく海中の人間だったんだよ。息継ぎ忘れて窒息しても海の中にいるべきだった」
『慰めないぞ? だって実際そうなんだから』
「そりゃどうも。……でももう潜れないよ、私。あんなふうに物を書くなんてもう出来ない。あの時地上に上がってから、海に戻れなくなっちゃった。人魚姫かよ」
『一人で完結すんなって』
彼女が呆れたように笑う。
——と同時に、携帯が鳴って、一通のメールが届いた。
『お、メール届いた?』
「君が送ったの?」
『そ。それ、私の小説。五分くらい前に書きあがったばっかの出来たてほやほや最新作』
「なんだって? 先生の新作がこんなに早く読めるなんて幸せだなぁ……『愛しき海中の青に捧ぐ』って、これがタイトル?」
『そそ。……まぁ、その、何だ』
少し照れたような口調と、柔らかいものを投げる音。ばふっ、と布団に寝転ぶ音が続いて、うつ伏せで喋っているような、篭った声が聞こえた。
『私が、あんたを海に沈めてやるよ……っていう、そういう小説』
少しの沈黙。
スピーカーのノイズだけが響く。
「……ありが、と」
『そっちまで照れんなよ』
「やっぱ照れてたんだ、可愛いなぁまったく君って奴は」
『茶化すなよ!』
「どうすりゃいいのさ」
私たちは電話越しに笑い合った。
思えばそれは、割に久しぶりなことだった。作業の合間を縫って切れ切れに喋ることが多いし、最近はまとまった会話も少なかったからかもしれない。
──ひとしきり笑い終えると、彼女が、思い出したように続けた。
『そういやあの時、イルミネーション、海、ブルーライト、ときて『青色縛りかよ』って話になったけど、西洋の結婚式に『サムシングブルー』って文化があるらしいな』
「へぇ、何それ?」
『詳しいことは忘れたけど、なんか、永遠の幸せを祈るおまじない』
「うわぁ、すごい皮肉だ」
『いいじゃん、創作と永遠の幸せを誓えば』
「……そうすべき、なんだろうなぁ」
『そうしてやるって。電話切ったら送ったやつ読めよ』
「うん、そうする」
彼女が微笑んでいる気配が、スピーカーの向こうから伝わってきた。
顔も知らない彼女に、私は微笑み返した。
『じゃ、今晩はこの辺でお開きにしよっかね』
「ん。そうしよ」
『うん。おやすみ』
「おやすみ」
通話が切れるプツリという音が、水に飛び込んだときに耳元で鳴るあの音によく似ていた。
──海底は、まだ見えない。
青い電飾は、海の中からまるで宝石のように見えた。
地上からは、海面に反射した光がそう見えていたらしい。