手記
先日父が自殺しました。
練炭自殺でした。
死んでいたのは今は誰も住んでいない父の実家でした。
やけに風の強い冬の朝。『ごめんなさい』と遺された手紙に母は嫌な予感を感じ、寝ていた私を起こしたのでした。
自殺を図ったのは2回目。
1回目も同様に『ごめんなさい』と手紙を遺していました。
きっと、見つけられずに遺体が腐敗していくのは嫌だったのでしょう。
自殺をする人は思い立ったように死ぬと言いますが、案外計画的に行うものだなぁと妙に関心を抱いたものです。
父は車の中で練炭を焚いたようで、近付けば煙たい臭いがしました。
母は足を止め、「ああ、やってるわ」と呟きました。
それは事実を受け止めきれない躊躇したような震え声で、確認するのを怖がっているのが強く伝わりました。
普段気の強い母ですが、人の生き死にの話になると途端に少女のように泣き出します。
私はそれを知っていたので、いつもの母を真似るように気丈に振る舞いました。
そうでもしないと、母が壊れてしまうような気がしたのです。
私は背筋を正したまま車に近寄り、中を携帯のライトで照らしました。
まず見えたのは寝ているような父の姿。
運転席に座り、シートをやや倒している状態です。
上着を膝にかけ暖をとるような格好をしており、首はシートから外れて首が反っていました。
顔は見えません。まるで、本当に、ただ寝ているようでした。
私は臆することなく、父の肩を叩きました。
「お父さん。お父さん。」
返事はありません。
次に手を触り、体温があるか確認しました。
まだ温かい。
しかし、指先は硬直して動きません。
それから首に手を当てて、脈を確認しました。
いくら触る場所を変えても何も感じませんでした。
「まだ温かいよ。」
「まだ温かいの?」
「うん。でも脈はわからない。」
「そう。でも、温かいのね。」
私の言葉に母はホッとしたようでした。
後に警察の人に言われましたが、車の中が密閉していたため熱がこもっていただけということでした。
私が空気の入れ替えのために車の扉を開けている間、お母さんは119番通報をしました。
「救急車を呼ばなくちゃ。まずは救急車を呼ばなくちゃ。」と自分に言い聞かせるように繰り返します。
コール音が人の声に変わると一瞬体を強張らせましたが、すぐに気持ちを立て直して相手に伝わりやすいよう、何度も言葉を言い直して現状を口にしていました。
私は携帯で一酸化酸素中毒の対処法を調べ、空気の入れ替えと共に父の体を温めるために父が膝にかけていた上着を体に寄せました。
それから息がしやすいよう、体を引っ張ってシートに座り直させようとしましたが、何度引っ張っても元の状態に戻ってしまうので早々に諦めました。
今思えば、父の顔を見るのが怖かったのかもしれません。
練炭自殺をすると眼球の水分が飛んでしまう為、目が落ち窪んでしまうという知識を持っていたので。
他に方法はないか色々なサイトを巡っている内に救急車が到着し、男の人たちが慌ただしく出てきました。
「車庫の中のあの車です。運転席にいます」
母は通話中であった為、私が代わりに伝えました。
担架が運ばれ、AEDのような物も運ばれたのでしょうか。
どこか聞いたことのあるような機械音が一定のリズムを刻んでいます。
救急隊の1人が状況確認の為に私たちの元へ来ました。
名前と、住所と、生年月日と。
発見した時の状況など。
事細かに説明していると、今度は警察が来ました。
警察にも同様の説明をします。
私の分からないところは母が答え、母が混乱して答えられない時は私が答えました。
そんなことをしていると救急隊の人が来て、私たちに事情を聞いていた男の人に声をかけました。
「脈拍の確認ができない状態です。」
「心肺も難しいです。」
「顎と指先から硬直が始まっています。」
硬直。死後硬直。
また泣き出す母に体を寄せ、私は手を擦り合わせました。
「寒いね。風が強いね。」
たとえ脈拍が確認できなくても医者の診断がなければ断言できないのでしょう。
難しい難しい、と繰り返す救急隊に、私は『まだ生きているかもしれない』と淡い期待を抱いていました。
それでも、「これ以上手を施せないので私たちは引き上げます」という言葉を聞いた瞬間、諦めることしか許されないと察するしかないのでした。
重たい鉛のような何かが、腹の底に収まったような心地でした。
父が亡くなっていたのは車庫に納められた車の中です。
救急隊の人が「(父を車から)出せません。」と表情険しく言います。
出せない、のはどれくらいの時間だろうか。
こんな寒い中に放置するのだろうか。
ただでさえこんな所で1人寂しく死んだというのに。
「午後は暖かくなるといいね。」
父を想っての言葉でしたが、涙一つ流さない私の呟きはただ皆に不信感を与えただけのようでした。
私は薄情な奴でしょうか。
けれど私は、『お父さんは悪人である』と教えられてきたのです。
父は婿入りしました。
結婚する時、借金を抱えていたことを黙っていたそうです。
私の祖母は父が金が必要という度にお金を渡していましたが、明細を明かさない父に不信感を抱き始めました。
父は祖母から貰ったお金で実家の父親にトラクターを買ってあげました。
祖母は父を詐欺師と呼ぶようになりました。
父は母から盗んだカードでお金をおろして使いました。
母は父を泥棒と呼ぶようになりました。
それでも父は癖のように、借金を作ったりお金を取ったりしました。
子どもの学費にあてるためのお金も勝手に使いました。
やがて祖母が父の顔を見たくないと言い出しました。
父は食事の席に座らなくなりました。
借金を返すため、朝から晩までバイトを掛け持ちしてまで働くようになりました。
体を壊しても働き続けました。
しかし誰にも労りの言葉を貰えませんでした。
祖母と仲直りをする為に無理矢理笑顔をはって食事の席に出たこともありました。
祖母は父に嫌味を交えた皮肉を言い、父を狼少年だと揶揄しました。
父は祖母はおろか、私や弟妹たちとも接触することを避けるようになりました。
朝早くに出かけ、夜遅くに帰ってくる。
休日も変わらず外に出る。
キッチンは使えないから外で安いご飯を食べる。
仕事以外で外出することもないため私服もない。
まるでモグラのような生活でした。
祖母はよく、“自業自得“という言葉を使いました。
午睡前の読み聞かせのように、何度も何度も私たちに言い聞かせるので、私たちも父と距離を置いていました。
別居をした時期もありました。
家出をして帰ってこない時期もありました。
そもそも私たちが幼い頃から家にいる時間が少なかったので、まともに話したことなど数えられる程度しかありません。
お父さんが死んだその日、祖母が永遠と父の悪口を言うため、私は狸寝入りをしました。
ふつふつと腹の底は煮えていましたが、私たち子どもは家族内において平等であることを求められていたので黙っていました。
祖母は父を悪く言います。
そんな亭主を連れてきたと母を貶します。
母は祖母の気持ちを汲み取りつつ、悪く言われる父を庇います。
祖母が私たち子どものことを馬鹿にするとカッとなって祖母を怒鳴ります。
口下手な弟は仲裁に入りません。
妹はまだ幼いです。
20年間この口論が絶えたことはありませんでした。
私がこの口論に身を投じるようになったのは中学3年から。
巻き込まれそうになる弟妹を守るためです。
あくまでも平等に接することに徹しました。
というのも、大人たちは3人とも対立し、3人ともとても弱かったのです。
皆が味方を求め、味方がいないと酷く傷つきます。
ですから、案外私たち子どもの立場が大きかったのです。
誰かを肯定することも否定することもなく、かといって傍観は許されないためお互いの正しいところと悪いところを指摘します。
ただし均衡を崩してはいけないため、最後には私が悪いと言って謝ります。
私はこの大人たちを憎んだことはありませんでしたが、何故まともに生きることができないのかと疑問に思うことはよくありました。
祖母は貯金である祖父の遺産を使い果たされ、着古された衣類を使い回します。
母は偏頭痛に悩まされながら朝から晩まで働きます。
私は鬱気味になりながらも学校とバイトを両立させました。
弟は家では一言も話さなくなりました。
妹は毎月のお小遣いが安定してもらえず、気軽に友達と遊びに行くことなどできませんでした。
お洒落に気を使うお金も時間もありません。
友人からの遊びの誘いを『お金がないから』と断るのが恥ずかしかったです。
折角貯めたお金は学費に消えます。
どんなに頑張っても普通の食事すらできません。
借金を返すためにお金を使うだけであって収入はあったため、補助や免除は受けられませんでした。
みんなは普通の生活を当たり前のようにしているのに。
それでも父が仕事を頑張っていることは知っていたので、怒りの矛先は無力な自分に向けていました。
早く母や父を助けたい。
早く大人になってお金を稼いで借金をなくしてあげたい。
そう思うと共に、心のどこかで常に『誰か私を殺してくれないかな』と考えていました。
ですから父が自殺を図ったと聞いて、心のどこかで安心していました。
やっと解放されて良かったね。と。
何故なら、私は、父が不憫でならなかったのです。
祖母に責められ、子どもたちと話すこともなく、日々借金に追われ、体はボロボロ。
皆が、なんで死んだの。と自殺という選択肢自体を疑問に思っている中で私は父の心境をなんとなく汲み取れていたと思います。
鬱気味であったあの時期に何かしらのきっかけがあれば、私もきっと選んでいたでしょうから。
弟も自殺願望を口にしたことがあったので、私と同じ気持ちであったと思います。
けれど、これは私の傲慢だったのだと葬儀を終えた今、思う時があります。
お通夜と葬儀は家族葬で終えることにしました。
理由が理由ですし、父方の叔母さんに言われたのです。
『籍はこっちにないんだから、そっちの墓に入れて』
冷たい人だと思いました。
しかし、どこから聞きつけたのか、父の知り合いが沢山来ました。
母は父の知り合いと面識がないため、挨拶をする度に父の話を聞かされ泣いていました。
父は外に出るととても社交的だったようでした。
優しく、温和で、頼れる人。
そして、とても家族想いだったそうです。
父は生前、私たち子どものことを誇らしく話していたそうです。
10年も前の写真を大事に取っておき、親戚に見せて嬉しそうに話したそうでした。
何故そんな昔の写真をと思いましたが、そういえばそれ以降にまともな家族写真を撮っていなかったのです。
私が親の望む高校に入学すればその話を、部活でいい成績をとればその話を、就職すればその話を。
出来の良い娘だと話したようです。
弟は頭がよくなかったのですが、息子というだけで可愛かったらしく、自分と同じ高校に入ればその話を、進路が決まればその話を。
幼少期に父とした工作の影響か、大工を目指す弟を出来の良い息子だと話したようです。
妹はとにかく目立つ子で、部活で部長を務めた際に新聞の隅に映ることがあった時は大切に切り取って保存していました。合唱コンクールで指揮者賞を取った際はその話を口にします。
出来の良い娘だと話したようです。
あまり話が得意でない父は、仕事場では滅多に話しません。
けれど、時折、思い立ったように話すことがあったそうです。
そこで話すのが決まって私たち子どもの話、あるいは母の話。
『皆さんが思っている以上に家族仲はいいんですよ』と言ったそうです。
私が思っている以上にお父さんは私たちのことが好きで、悪人ではありませんでした。
父は遺書を遺していました。
そこに書かれていたのは、
『離婚しなくてごめんなさい。子どもたち、迷惑をかけてごめんなさい。骨は川に流してください。』
という端的な文でした。
最後まで謝り、自分の骨を墓に入れることすら叶わないだろうと思いながら死んでいった父は、きっと私が思っているよりもずっと孤独だったのだと思います。
そして、その弱さに私はひどく切なくなりました。
私は平等でなければいけません。
父の為に泣くと、祖母が怒ってしまいます。
祖母が怒ると、必ず母を責めます。
母は傷心しています。
だから、泣けません。
だから私は、『本当は父を救えたんじゃないか』『本当は父も死にたくなかったんじゃないか』と後悔すると共に部屋で独り声を押し殺して泣きました。
まだ幼い弟妹たちを思うならば、『泣いていいんだよ』と感情を優先させてあげた方が良かったのかもしれません。
あるいは、一緒に泣いてあげるべきだったのかもしれません。
母の気持ちに寄り添うならば、一層泣くべきだったのだと思います。
母は私が泣かないばかりに涙を抑える場面がありました。
『お姉ちゃんがしっかりしてるから頼りになるわ』と言っていたので、私は余計に泣いてはいけないと気持ちを固くしたのです。
そんな私と弟妹たちを見て、祖母は『最近の子は素っ気無いのね。』と言いました。
きっと私は祖母の葬儀でも泣かないでしょう。
それこそ、母を支える為に。
たとえ薄情な人間として言われても構いません。
それが平等な子どもでいることを決意した私の正義なのです。
最後に、どうしても口で伝えることができなかったのでここに記したいと思います。
お父さん、今まで言えなかったけど、ここまで育ててくれてありがとうございます。
お父さんが私のお父さんで良かったと思っています。
一周忌にはお父さんが欲しいような物を買って供えたいと思います。
お盆にはお腹いっぱいになるような温かいご飯を用意したいと思います。
忘れっぽい私だけど、誕生日と命日は決して忘れません。
だから、どうか、天国では笑顔でいてください。