ダンジョンにもぐり、浮気を問いただす
人は闇をもとめている。
恐れ、偽り、嫉妬……怒り、後悔、絶望……闇はすべてを包みこみ、醜い姿を隠してくれる。人が闇をもとめるのは、己の本性を欺くためではない。人は素顔を隠しながら、群れのなかで生きている。仮面をつけて耐え忍び、夜の訪れを待ちのぞんでいる。
闇はすべてを包みこむ。
闇のなかでこそ、被った仮面は剥がれ落ちる。
光のなかでは知ることのできない、真実があらわれる。
人が闇をもとめるのは、己の恥ずべき本性をさらけ出すためだろうか? いや、それだけではないはずだ。闇はすべてを包みこんでいる。愛も、誠も、希望の光も、闇の奥に秘められている。
闇のなかで輝く美しいものを、人は、心の底で求めているのだ。
○
岩壁に囲まれた薄暗い場所で、二人の冒険者が座りこんでいた。聖剣士のアレンと魔術師のベーゼ。男女ふたりでパーティーを組み、ダンジョンに挑んでいる若手冒険者である。ベテラン並の実力と慎重さをあわせもつアレンと、彼の幼なじみであり、恋人でもあるベーゼの絶妙な連携により、たったふたりでダンジョンを攻略してきた。
「アレン、だいじょうぶ?」
「ああ、たいした傷じゃない。そんなことより、ベーゼは?」
「アレンの後ろにいて、攻撃を受けるはずがないでしょう?」
どれだけ自分が傷だらけになっても、まっさきに幼なじみの女の子を心配する。そういうところは、子どもの頃から変わらない。ベーゼは苦笑を浮かべて、回復ポーションを取り出した。
若手筆頭の実力者であるアレンたちだが、いま、危機に陥っていた。
闇が支配する、常夜の世界。
地下に広がるダンジョンには、人を襲い殺すモンスターがはびこっている。モンスターを倒すと得られる魔石には、それなりの価値しかない。それでも冒険者たちがダンジョンを探索をするのは、命を懸けるに値する、数々の財宝のため。
奥に進むほど、価値のある財宝が手に入る。
しかし、地下に潜るほど闇は濃くなり、モンスターの強さも跳ね上がる。
「さすがに、この階層は早すぎた」
「とりあえず休もうよ。この結界石、つかっていいよね? モンスター除けの香も焚いて……今回は、大損だね」
「死ぬよりはマシだと考えるしかない」
いつもは慎重なアレンが、新たに階層を更新したうえに、奥へ奥へと突き進んでいった。はじめて遭遇したモンスターを相手に、見極めもなく戦いを挑み、退くこともなく戦いつづけた。強敵と知ってなお、出会う敵には挑みつづけた。
消耗が激しい。
無事にこの階層を抜け出して、ダンジョンの外に出られるかもわからない。
いつものアレンならば、この場で体調を整えて、なんとしてでも二人で脱出を果たすだろう。しかし、今日のアレンは、無謀ともいえる行動を取りつづけている。
ベーゼは、携帯食であるビスケットを取り出しながら、恋人でもある男の様子をうかがった。
アレンはうつむいて、考えに沈んでいる。
めずらしい姿ではない。
明るく社交的なベーゼとちがい、アレンは、どちらかといえば陰気であった。
ちょうどいい、とベーゼはおもっている。アレンが頼れる存在であることは知っている。無駄に騒がしい連中から死んでいった。アレンの慎重さがなければ、自分も同じように死んでいたと、ベーゼは理解している。冒険者としても、男と女としても、互いに補い合える、理想的なパートナーだと感じている。
しかし、アレンはどうだろう?
アレンはいま、どう感じているのだろう?
ベーゼの胸の内に渦まいている不安は、今回のダンジョン探索がはじまる前から存在していた。アレンの自暴自棄のような行動によって増大した不安は、これから何かが起こるという予感を、確信にまで高めつつあった。
「……なあ、ベーゼ」
うつむいたまま、アレンがいった。
「俺たちは、今日ここで死ぬかもしれない」
「なにをいうの」
「そのまえにどうしても、確認しておきたいことがある」
ベーゼは返事をしなかった。
アレンはうつむいたまま、恋人である女に語りかける。
「ベーゼは、俺とちがって社交的だ。ほかの女たちといっしょに、買い物に出かけたり、酒を飲んでくるのを止める気はなかった。情報収集になってありがたいと思っていたぐらいだ。ベーゼが彼女たちと遊びにいくといえば、俺は素直に、その言葉を信じていた……」
ベーゼは沈黙を守った。
きっと、いまの彼には声が届かない。
「なあ、ベーゼ……いつから、ジェロのやつと関係をもっていたんだ?」
アレンの沈痛な訴えに、ベーゼは頭を振った。
ジェロは、アレンたちより十歳ほど上の、そこそこ腕のたつ冒険者だ。ギャンブル狂いで名を知られ、金に汚い男でもある。詐欺まがいのギャンブルを挑まれて、金を騙し取られた冒険者も多い。
「あんな男と、関係なんてあるわけないじゃない」
「俺は見たよ。ベーゼがジェロといっしょに、逢引宿に入っていくのを」
「うそよ」
「一週間前、俺がダンジョン資料室に引きこもると告げた日……俺はベーゼのあとをつけた。ジェロといっしょに宿に入るのを確認して──」
「アレン」
「俺もその宿にいたんだよ。ふたりが利用した部屋の、となりの部屋に……なにもなかったとはいわせない」
アレンは、ずっと下を向いている。地面ばかりみて、恋人の顔を見ようとしない。見ることができない、見たくもない? ベーゼは歎いた。不必要な言葉はいらない。いまはただ、自分の愚かさを伝えるとき。
「関係があったのは、認める。けれど、一回だけ。あれが最初で最後」
「ほんとうに?」
「それは嘘じゃない。信じて」
「……どうして、ジェロのやつと?」
「……お金」
「……遊興費なら、それなりに奮発していたつもりだ」
「酒場に新しく入荷された高級酒が、値段以上に美味しくて、つい……」
「全部つかったのか?」
「全部じゃない。全部じゃないけれど……ジェロがあらわれて、ギャンブルを持ちかけられた。ちょっと焦っていたし、酔いも回っていたから、つい……」
いっしょにいた女たちは止めてくれたのに、勝負に賭けた。しょせんは詐欺師と侮っていた。イカサマを見抜けない面々ではなかったから、勝てるとうぬぼれていた。純粋なカードゲームなのに、あまりにもツキに見放されて、負け続け、有り金をすべて巻きあげられた。退けなくなって、借金を負った。
ベーゼがささやくように語り、アレンは歎いた。
「それで、体を売ったのか?」
「そうすれば借金を帳消しにしてやるっていわれて」
「相談してくれたら──」
「できるわけないじゃない……アレンがこつこつ貯金してるの、ずっとみてるのに」
アレンが節制して貯蓄に励んでいるさなか、お酒を飲んで楽しく騒ぎ、資金を使い果たし、ギャンブルに手を出して借金を背負ったのでお金をまわしてください? 言えなかった。それならまだ、ジェロに抱かれる屈辱を味わうほうがマシだとおもった。
「馬鹿だよ、ベーゼは」
「わたしも、愚かだったとおもってる」
アレンは下を向いたままだが、それでも、少しだけ軽くなった気がする。
ベーゼの身体から力が抜ける。
しかし、まだ終わってはいない。
懸念がある。
ベーゼの胸中にある不安は、ふたたび身体に緊張を強いる。
「ねえ、アレン。わたしも確認しておきたいことがある」
「なにを?」
「逢引宿に入ったとき、ひとりだった?」
アレンに近づく女の影に気づいたのは、もう二週間も前になる。とくにめずらしいことではない。アレンほど期待される若手実力者ならば、女が寄ってくるのは当然だ。ベーゼから恋人の地位を奪おうとして、積極的に攻めてくる。しかし、今度の女はちがった。存在を匂わせるだけで、ベーゼに尻尾をつかませない。
アレンはうつむいたまま、口をつぐんでいた。
彼は嘘がつけない。
ひとりではなかったと確信を得て、ベーゼは問いかける。
「そのときいっしょにいた女って、エリス?」
アレンは沈黙を守っている。
その雄弁な態度に、ベーゼの身体は熱くなる。
怒り。
嫉妬。
熱い炎がベーゼを焦がす。
「アレンは、答えてくれないの?」
「……いや、ベーゼのいうとおりだ。あのとき、俺はエリスといっしょにいた。彼女に教えてもらったんだよ。あの日、ベーゼが逢引宿にいくことを」
エリスに疑惑を抱いたのは、三日前。
それまでの隠れ方が嘘のように、あからさまに存在を見せつけはじめた。ふいにあらわれてアレンの腕をとったり、胸の谷間をみせつけたり、下着をちらつかせたりする。
そして、エリスの積極的なボディタッチを、アレンは受けいれていた。
女の露骨なアプローチに無抵抗なアレンをみたのは初めてのことで、ベーゼは、何もできなかった。
「エリスは、わたしがギャンブルに負けたとき、いっしょにいた。ジェロのことを知っていてもおかしくはない」
ジェロとのことを黙ってもらっていると信じていたから、エリスになにも言えなかったわけではない。黙ってみていることしかできなかったのは、アレンの態度に衝撃を受けたから。たとえ他の女が寄ってきても、アレンが流されるとはおもってもいなかった。
ベーゼはアレンを信じていた。
密告があっても信じるはずがないと。
彼がほかの女に手を出すはずがないと、信じきっていた。
エリスの行為を受けいれているアレンをみても、否定していた。
いま、はじめて揺れている。
熱い炎に焦がされながら、いくらでも疑念が湧いてくる。
「わたしが誘っても抱いてくれなくなったのは、ジェロのことがあったから?」
「……ああ」
あの日は慰めてほしかったのに、惨めな気持ちが、さらにひどくなった。アレンに女として扱われていない、いまもまだ、その気持ちを引きずっている。湿っぽい心情さえも、炎の燃料になっている。
あの日、アレンもエリスと宿にいた。
男と女が同じ部屋にいて、なにもないわけがない。
アレンは、エリスを抱いていた。
「でも、ほんとうにそれだけ? わたしが何も気づいていないとおもった? エリスとは、もっと前から関係があったんでしょう? エリスといっしょに逢引宿に入ったのは何回目? アレンは何度、エリスを抱いたの?」
エリスがアレンに近づいたのは二週間以上前。
ギャンブルに負けて借金を負った、五日以上も前のこと。
恋人の不祥事につけこんで近づいたわけではない。
「エリスと逢引宿に入ったのは、あれがはじめてだ」
「嘘よ」
「ほんとうだ。俺は、エリスのことが嫌いだった」
「えっ?」
「いや、嫌いになっていったというべきだろうな。冒険者仲間として敬意を払っていたのに、いつからかエリスは、ベーゼがほかの男と浮気をくり返しているといいはじめた……俺はもちろん信じなかった。それでもエリスは、俺のことが心配だからといって、何度も同じことを告げにきた。邪険に扱うようになったのに、エリスは、これで最後だからといって、あの日、ベーゼを追跡するようにいった。これでもう、二度とエリスに付きまとわれることはない、そうおもっていただけなのに……」
そのときの情景と心情を思い返しているのか、アレンは言葉を区切った。
「宿に入っていくベーゼとジェロを目撃して、立ち尽している俺に、エリスはいった。いっしょに宿に入ろう。最後まで確かめよう。幻術にでもかけられたみたいに、俺はエリスのいうとおりにした。ベーゼの声が聞きとれる部屋で、俺はなにをしていたんだろうな。正直いって、あまり覚えていない……だが、エリスを抱いていないのは確かだ。流されるままに抱こうとしたのかもしれないが、なにしろ、男として、すっかり役立たずになっていたからな」
乾いた声で、アレンは自嘲する。
「エリスには、謝っていいのかすらわからなかったよ。ベーゼに誘われても断っていたのは、ベーゼが相手でも、元に戻らないと感じたからだ……あの日、ほんとうは確かめたかった。俺たちの関係は壊れていたのか……どうして俺を裏切ったのか、俺のなにが不満だったのかを」
顔をあげたアレンの表情に、怒りはなかった。
ただ深い悲しみがあるだけで、ベーゼは、熱に焦がされていた体が、冷えてゆくのを感じた。腕を回して自分を抱きしめ、震える身体をおさえつける。凍えた声に想いをこめて、アレンに、伝えなければならない。
ベーゼという女にとって、アレンが、かけがえのない男であることを。
「アレン──」
アレンが素早く手を動かして、べーぜの口をふさいだ。もう片方の手は、剣の柄にかかっており、視線は鋭く、周囲の様子を探っている。
「なにか、いる」
どれだけ悲惨な精神状態でも、冒険者としての資質がアレンを動かしていた。ベーゼもまた、アレンに意識を引きあげられて、警戒の度合いを引きあげる。
「──さすがだな、アレン」
ふいに岩壁が揺らぎ、風景がぼやけて男があらわれた。
背中に大刀を担いだ、戦士の装い。
女もいる。
こちらは軽装であり、腰に二本の大型ナイフをさしている。
「お前は、ニック?」
「エリス、あなたまで、どうして?」
道具屋を営む壮年の男、ニック。
盗賊職につく、女冒険者のエリス。
「なんであんたたちがここにいる」
「なにって、俺はこれでも元冒険者だ。お前らより実力のある、熟練のな。この階層なら、女連れでも問題ねえさ」
ニックが笑う。強欲に歪んだ表情で。
「言い方をかえる。わざわざ魔道具を使用して気配を断ち、俺たちに近づいてきた理由はなんだ?」
「それはお前、ベーゼを救出するためだろうが」
「……なにをいっている?」
「俺はベーゼに忠告したんだぜ? アレンのやつが、貴重な帰還石を一個だけ買っていったが、それを持たせてもらったかってな」
アレンがベーゼに、驚きの表情を向ける。
ベーゼが目を伏せたことで、アレンは悟っただろう。
ベーゼは知っていた。ニックに教えられて、アレンが帰還石をひとつだけ手に入れたこと。ダンジョンから地上に脱出できる貴重なアイテムを、ベーゼに渡すことなく、存在を秘密にしたまま、ダンジョン探索に乗りだしたという事実を。
「ベーゼも、アレンの様子がおかしいことは気づいていたからなあ。もしかしたら、ダンジョンの新たな階層に赴いて、帰還石で脱出するつもりかもしれない。ベーゼを残したまま、自分ひとりだけで……せっかく忠告してやったのに、予定どおり二人でダンジョン探索をはじめやがるじゃねえか。仕方ねえから、置いていかれたベーゼを助けようと思ったんだが、いや、ついつい、話を聞きたくなってな。近づきすぎた」
「……救出するために近づいたわけではなく、俺がベーゼを見捨てるのを、近くで待っていたわけか」
「まあそういうわけだが、さっき、おもしろいことを話してただろう。俺のなにが不満なんだ、だったか?」
こらえることなく、ニックは笑いをこぼす。
「それはお前、アレンじゃ物足りないのさ。そこにいるベーゼっていう女は、毎晩でも満足させてやれるような男が必要なんだよ。たとえば、俺のような男がな」
「なにを──」
「やっぱり気づいてなかったんだな。ベーゼは、もう何度も、俺といっしょに遊んでいるんだよ」
違う! ベーゼは叫んだが、ニックは笑い声をあげた。
となりに立つエリスも、馬鹿にした表情でベーゼをみている。
アレンでさえも、ベーゼを見る眼差しには、戸惑いと不安しか感じられない。
「たしかに契約ではあったぜ? 俺とベッドで遊ぶかわりに、店で売ってるアイテムを値引きしてやる約束だ。アレンも覚えているだろう? 俺がお前たちに、将来有望な新人冒険者だってことで、ずいぶんサービスしてやったことを」
「嘘だ」
「でもなあ、さっきも言ったが、その女は違うんだ。アレンの役に立つっていう言い訳だ。アレンだけじゃ物足りないから、男に抱かれる理由をもとめる。だから、俺の提案だって受けいれた。俺がこうして助けに来ることも、期待していたんだよなあ?」
「違う!」
「違わないでしょう、ベーゼ」
黙っていたエリスが、ベーゼを否定して、にらみつける。
「あんたはなんだってする女じゃない。私が付き合ってたラックスとだって」
「気づいて、いたの?」
「当然でしょう?」
「ラックスとは──」
「あんたが酔いつぶれて私の部屋に泊ったときよね。ラックスを誘惑したのって」
「違う、誘ってなんかない」
「寝ぼけていたとでも? あたしが隣りで寝てるのに、狂ったように盛っていたじゃない」
「あのときはアレンと勘違いして、それに、気づいたときはラックスを本気で殴ったし、あれ以来、ラックスとは会ってもいない!」
「そんなの当たり前じゃない。あのあとダンジョンにつれ出して、ちゃんと息の根を止めたもの」
ベーゼとニックが言葉を失い、ニックはエリスから一歩離れた。
「あんたにはきっちり復讐してやろうとおもった。だからアレンとの関係を壊そうとしたのに、男って馬鹿だよね。アレンったら、あんたみたいな尻軽女のことをぜんぜん疑ってないの。苦労したわ。酒場に高級酒を仕入れさせたり、ジェロのやつに声をかけたり、イカサマを手伝ったりしてさ」
「全部、あなたが……」
「アレンが壊れるのは早かったよね。しっかり寝取って奪いとって、見せつけてやる計画だったのに……まあ、もっとおもしろいことになったから、嬉しい誤算ってやつ? あんたが捨てられるとこを見たかったから、ニックに事情を説明して協力を要請したの。あたしの実力じゃ、ここらの階層は危険だからね」
「おいおい、全部話したら、ベーゼが俺に惚れてくれないだろうが」
「ニック、それ本気でいってるの?」
「まあ、計画はすでに変更だけどな……たっぷりと男を味わえば、結果は同じさ」
「ベーゼはそういう女かもね。アレンは……ここで終わりかな」
ニックは大刀を手にした。
重たい武器を振りかざし、アレンに刃を向ける。
「あ~あ、すっかり腑抜けになっちまってよお」
アレンは、うなだれてへたりこんでいた。恋人の知らない一面を、受けとめきれないでいる。剣の柄を握ることもないアレンの手を、ベーゼは自らの手で包みこんだ。
浅はかな女。
アレンに愛される資格のない、愚かな女。
ニックのいうように、女をもてあましている自覚はあった。アレンにもっと求められたい。そんな不満はたしかにあった。
伝えるべきだったのだろう。
なんであっても、アレンに相談するべきだった。
でも、もう遅い。
アレンの負担になる。アレンの力になりたい。それらがすべて言い訳だったのかも、もうわからない。
わかっているのは、ひとつだけ。
アレンがここで終わりだというなら、自らもまた、ここで果てる。
それだけは、わかっている。
「殺したくはないんだ。あんまり暴れないでくれよ?」
ベーゼは、近づいてくる男をにらみつけた。
実力差は理解している。
決意をこめて魔力を高め、そして──。
○
『フム、深く浸みわたる絶望、切なく蕩けゆく覚悟……ベリーデリシャス』
ベーゼの正面、ニックの手前に、黒い甲冑を着こんだ人物がいた。
いや、人間ではない。
なんの前触れもなく虚無より出現したのは、彷徨える暗黒騎士。
死を振りまく暗黒剣の化身であり、ダンジョンの伝説として語りつがれる、秘宝にして悪夢。
最下層にじっとしていない、暗黒系最強の剣。
想念を喰われたアレンとベーゼは、空っぽになった心に身体がついていけず、意識を寸断された。
『のど越しのよいジェラシー、これもまたよし』
エリスもまた、意識が途切れる。
ニックは、すでに朽ちていた。
『暗黒剣である我が、命を奪わんとおもったか……おっさんの性欲はくどすぎる』
アレンたちが意識を取り戻す寸前、彷徨える暗黒騎士は虚無に消えた。
『精進せよ、若人たちよ。剣の高みにて我は待つ。このダンジョンの最下層で……剣の高み、最下層なのに、高み……フハハハハハ──』
○
意識を覚醒させたアレンは、頭を振り、状況を確認した。
ベーゼは無事。
エリスもまた、問題ない。
ニックは、どこにもいない。
自身の体調は変わらずひどい。
ダンジョンに異変はないが、なにかがあった。理解の及ばない何かが。
「なにか、とてつもなくひどいものを見たような気がする……」
アレンは呻き、考えるのをやめた。他に考えなければならないことがある。ニックたちとの会話について、ベーゼのことについて、これからの自分たちについて。
「アレン」
ベーゼがアレンを見ている。涙を流しながら、アレンが生きていることを喜んでいる。アレンには、それがわかる。
「エリス」
「……なによ」
腰が抜けているようだが、警戒している。それはそうだろう。さっきまで、アレンたちと敵対していたのだから。
アレンは、アイテムを取り出し、エリスに向かって投げ渡した。
「これって!?」
「帰還石だ。ニックが消えたいま、それがないと帰れないだろう?」
「アレンはどうするのさ?」
「俺はベーゼといっしょに来た道をもどる」
声をもらしたベーゼに、アレンは疲れた笑みをみせた。
「すぐには無理だけどな。ふたりなら、地上にもどれる……正直にいって、エリスは足手まといだ。いまの俺には、ベーゼとの連携しかうまくやれる自信がない……ベーゼには俺が、俺にはベーゼが必要なんだよ」
「アレン、あんな話を聞いておいて、どうして気が変わったんだい?」
「とくに変わっていないさ……俺は最初から、ひとりで戻るつもりはなかった。俺がここで死ぬつもりだったんだよ。話がうまくいかなくて、もう元には戻れないとわかったら、帰還石をベーゼに渡して、地上に戻ってもらうつもりだった……ベーゼは、気づいていたみたいだけどな」
ベーゼは、アレンが死を考えていることに気づいていた。そのうえでダンジョン探索におもむき、アレンの胸の内にある想いを聞き出して、アレンを説得しようと考えていた。それが無理ならば、アレンとともに果てる覚悟を決めて。
アレンとベーゼを眺めて、エリスは大きくため息をついた。
「これじゃあ、みんな馬鹿ってことじゃないか」
「まあそういうことだから、帰還石はエリスがつかってくれ」
「お金は後払いでいいからね」
「ベーゼ、あんたのことは許してないからね」
エリスはよろよろと立ちあがり、帰還石を掲げた。
「アレンはちゃんと戻ってきなよ。こいつの代金は、あたしの体で払うんだから」
光につつまれて、エリスは消えた。
「最後に、なにかすごいことを言ってたな」
「あの女、今度こそ本気でアレンを狙ってる」
岩壁に囲まれた薄暗い場所で、ふたりきりに戻ったアレンとベーゼ。
となりあって座りながら、かけるべき言葉を探した。
「……ニックのことはね」
「俺たちが新人のころの話だろう? たしかにサービスが過ぎるとは思っていたけど、助かっていたのは確かで……そこそこ稼げるようになってからは、渋いことばかりいってきた。関係はすでに切れている。ニックの話を、そのまま鵜呑みにするつもりはない」
「それでも……」
「俺だけじゃあ、満足できない?」
「そうじゃない、けど、まあもう少し、アレンには頑張ってもらいたい、かな」
「……ニックの道具屋に、精力剤とかあったよな。あれを──」
「買います」
「いやしかし、いまの経済状況でそんな余計な──」
「必要経費。よきパートナーであるための、必要経費」
ベーゼの気迫に、アレンは負けた。
負けていたことを悟った。
○
アレンとベーゼは、モンスター除けの香が漂う、期限付き安全結界のなかで語らいつづけた。幼なじみであり、恋人であり、愛し合っている二人である。このままダンジョン内でエンジョイしそうな妖しい空気を発散させながら、互いの初体験となった、故郷の思い出などにも話題は広がった。
「そういえば確認しておきたいことがあったんだが……俺たちが村をでる、一週間くらい前、ベーゼと俺の兄さんが──」
闇が支配する、常夜の世界。
ダンジョンのなかで輝く美しいものを、彼らはすでに手にしていた。