クラーケン現る
少しずつ日が暮れてきた。空が朱色に変わるに連れて海も朝や昼とは違った味わいある美しさを醸し出す。
出港から十時間。時刻は十七時を回った。何事もなく船は順調に進み続けている。途中、小魚の群れやそれを狙った大魚の行動を見て、どこの世界も弱肉強食なんだなと感想を抱いた。
天候の荒れはここまで無かったわけだが、ゆっくりと曇ってはきてる。この調子だと確実に一雨はくる。ちょっとやそっとの波程度ではびくともしない船だから天候に関する不測の事態が起こるにしてもあまり心配はしてないが、安心も仕切れない。
実際に海が激しく荒れた場面を目にしたことはない。だけど何となく分かる。この大きな海が猛威を振るうがごとく暴れ出したら危険だってことは。
「船内に入るぞ。濡れるのは嫌だろ?」
「ん、嫌。行く」
この国の領土に入った初日を思い出したのか、眉根を下げながら了承し、アネーシャは海を見入るのを止め、先程買ったジュースを片手に俺の後をついてくるのだった。
船内に入った俺達はまず、まだ一度も行ってない今日寝泊まりする部屋へと向かう。食事にはまだ少し早いからそれまでは部屋で休憩することにした。
無駄に広い宿泊階で無数の部屋の中から少し苦戦しつつも泊まる部屋を探す。何とか部屋の前まで到着し、最初に貰った鍵を使って中へと入る。
部屋には二つのベッドがあったが、何か知らんけどピッタリ横並びにくっついていた。眠ってる途中でアネーシャが転がり込んでこないように動かして離そうと思ったが、労力をそんなことに使うのは嫌だからアネーシャの寝相を信じて思い直す。
船窓近くにテーブルと二つの椅子があり、俺達はそこに座ることにした。
俺は今の天候を改めて確認しようと船窓から外を眺める。雲の影響が先程よりも大きくなったことで明るかった朱色の空は完全に隠され、夜の暗さには及ばないものの直に早めの闇が訪れそうだ。
同様に海からも明るさが薄れ、美しさが半減しているように感じた。
よく目を凝らして見ると、水面にポツポツと無数の波紋が広がっている。どうやら小雨が降り始めたらしい。
それから少ししてゴロゴロと音が聞こえ始め、雲に一瞬、青紫色の閃光がピカリと迸る。数秒後、ズドォォォォォン!! と響き渡る今だかつて聞いたこともない物凄い雷鳴が轟いた。
ほぼ同時にガタンッ! と正面から椅子が激しく動く音が。アネーシャが今の音に飛び上がったみたいだ。
今のは俺も少し驚いたな。どんくらい近くに落ちたんだ? 間違ってもこの船に落ちるなんて冗談だけは止してくれよ。
更には本降りとかマジかよ……。雷後から急に雨の激しさが増したな。波の揺れ加減と外から聞こえるビュービュー音で判断するに、風もだいぶ強まってるらしい。これじゃまるで異常気象だな。
早めに中へと移動しておいて正解だった。もう少ししたら海も本格的に荒れてくるだろうし。
「大丈夫かな……」
机を挟んだ正面の席に座るアネーシャが、これまでにないくらい弱々しくぽつりと呟いた。
「不安なのか?」
「うん。追ってきてるから」
「嵐がか?」
「魔族が」
「そっちか。確かにな。一日出発が遅れたのはデカいかもしれない。途中分かれ道が三方向あるとはいえ、派手に注目を集めた所為で最初にウォータシティに来られたら行き先がほぼ確実にバレる」
顔バレしたのが一番まずいのだ。即座に監視を排除したことで正確な位置までは特定されてないと思われるが、不安要素として大きいのは間違いない。
ただ、幾ら魔族であろうと他国で暴れるのは容易じゃない。追いかけてくるにしても多数での行動は目立つ。よって多人数での捜索は除外。
だからといって居場所不特定のまま幹部数名を使うとは思えない。追いかけてくるとしたら幹部は最高でも一人だろう。
一人だろうと幹部級の実力者が追跡者なら例外なく最悪なことに変わりない。下手したらこちらが排除される相手。可能ならば俺達が成長するまで会いたくない。
「復讐したい気持ちは変わらない。でも、序列九位にも勝てないくらい私は弱い。目の前に幹部が現れても戦えない」
うつむき不甲斐なさに今にも押し潰されそうといった表情で話すアネーシャは、膝に乗せた拳を強く握りしめている。
そりゃそうだ。あの筋肉最強女のミントローズでさえ俺が倒した序列九位に勝てるかどうか微妙なところだ。それなのにちょっと鍛えただけのアネーシャがまともに戦えるはずもない。
あの短期間の修行程度で幹部級と戦えたら戦えたでそれこそ正真正銘未来永劫並び立つ者が現れないくらい才能の塊ってことになる。
俺の目から見てもアネーシャは天才の部類だと思うが、残念ながら今はまだまだ弱い。
「当然だ。俺の旅に最低限ついてこれるレベルまでしか鍛えてないからな。イチイチ修行するつもりもない。強くなれるチャンスは道中巡ってくる。だからお前は道中慌てず焦らず確実に力をつけろ」
「うん……」
頷くも納得はいかない……って感じか。もろ顔に出まくってる。もどかしいのだろう。今すぐ戦える力がほしいのにそれは難しいことだから。
気持ちは分からないでもない。俺も同じで少しは焦ってる。焦っても強くなれないことが分かってるから冷静でいるだけで。
本当はもっとのびのびと気楽な旅を予定していたのだが、そうも言ってられない状況――というか時代だ。
魔王が一番邪魔。ほぼ確実に目をつけられたわけだし。俺に魔王以上の力があれば簡単な話で、もっと肩の力を抜けてた。
向かってきたら潰せば良いだけだからな。だけど現実はそう甘くはない。推測するに魔王は圧倒的な格上――幹部の上位ですらも。
まあでも……どんなに困難な旅路でも楽しむ心だけは忘れてはならない。ビクビク怯えて旅をしてもつまらない。それなら旅をする意味がないからな。
「不満か? 俺も今はまだ上位幹部には歯が立たないだろう。だが安心しろ。目の前に立ちはだかってきて俺が倒した暁にはトドメを譲ってやる。その代わり、何れは一人で相手取れるくらい強くなれ。俺も強くなる。お前の懸念通り勝てないまま居場所を突き止められても手はあるから心配もするな」
「……譲られるのは嫌。強くなって私の手で倒したい。安心させてくれてありがと」
食いつかれるエサをぶら下げたつもりだったからてっきり乗ってくると思ったが、これはこれで嬉しい誤算だ。強い向上心がある証だからな。
「そうか、なら今を楽しめ。辛気くさい顔をするんじゃない。せっかくの旅が盛り下がるだろ」
「そうだね。どんな時でも、楽しんだ者勝ちだってお婆ちゃんも言っ――むぎゅっ」
ドオオオォォォォォォンンン!
「……何が起こった?」
「額ぶつけた、痛い……」
巨大な岩か何かに船が衝突したんじゃないかと思わせるくらい鈍く大きな音が鳴り、強い衝撃が伝わる。船窓から外を覗くと、どうしたことか船の動きが完全に停止していた。
俺は普通に衝撃を耐えたが、アネーシャは額から机に突っ込んだ。今は額を両手で押さえながら涙目になっている。
それにしても……不自然じゃないか? この巨大な魔導船は常に一定速度を維持している。それでも結構な速度で進んでた。なのに何にぶつかったかは知らないが、その動きを止めるなんてことできるのか?
「緊急報告、緊急報告。お客様方、ただいまより乗組員と整備士が船の停止原因の解明を急ぎますので船内でお待ち下さい。危ないですので許可なく外に出ないようお願いします。もう一度繰り返します。ただいまより……」
俺が疑問に思っていると、船内に落ち着いた声で放送が流れ出した。
迅速な対応だな。下手に時間をかけると乗客が混乱して騒ぎ出すのは目に見えてる。今でも部屋の外が少し騒がしいくらいだ。
こんな大嵐の中でご苦労なこって。大した原因じゃないと良いんだがな。
◇◆◇◆◇◆◇◆
大荒れの中、魔導船の乗組員と整備士が忙しなく動き回っていた。乗組員は雨風を避けるコートを来て外へと出る。整備士は故障してないか調べる為、船内で動きに携わる機関へと赴いた。
「おい、そっちはどうだ!」
「こっちは異常なしであります!」
「そっちはどうだ!」
「こちらも異常なしです!」
指示出しの整備長は頭を抱えたくなる衝動を必死に抑えていた。整備長である自分が取り乱してしまうと部下に不安を与えてしまうからだ。
「どういうことだ……? 故障はない。なら止まった原因は一体何だというのだ……」
整備長は自問自答をするも意味なし。まともな答えは出てこない。部下は黙って次の指示を待っていた。
整備長は大きく首を横に振って雑念を振り払い、今やるべきことを伝えようと声を張り上げるべく大きく一度息を吸う。
「お前達はどこにも見落としはないかもう一度確認作業を行え! 私はこのことを魔導船最高責任者の船長と騎士様並びに冒険者の方々へとお伝えしてくる。何か重要な発見があれば発見次第伝えにくるのだ!」
「了解です!」
整備長の指示に整備士の面々は声を揃えて返事をする。整備長は急いで報告に向かうのだった。
場面は切り替わる。外の調査を任された乗組員十名は各々が雨風に打たれながらも様々な方面から海を確認していた。
「何もないじゃん。やっぱり突発性の故障か? 雨風の中調査して原因は船内にありましたってことなら冗談じゃないぜ……」
一人の乗組員がぶつくさとぼやく。何もないに限ったことじゃないのは本人も重々分かってると思うが、言わずにはいられなかったのだろう。
水人は基本水属性魔法が得意で泳ぐのも他種族に比べたら格段に上手い。それでも雨風で濡れるのが好きなわけではないのだ。そこらの感性は他種族と何ら変わらない。
雨風避けのコートを着ていても、やはりこの大嵐と言っても過言じゃない悪天候だとどうしたって濡れてしまう。多少機嫌が悪くなるのも仕方のないことだった。
「さっきまでちょっとビビってた自分が馬鹿みたいだ。やっぱり一連の魔導船行方不明事件がクラーケンの仕業ってのはガセで決まりだな」
「おーい。そっちはどうだった?」
クラーケンにビビってたらしい乗組員に別の場所を任されてた乗組員の男がやって来て話し掛ける。
「何も無かったぜ。まったく骨折り損だよな」
「そう言うなって。これも仕事だろ?」
こっちの男は真面目な性格らしい。
「そうなんだけどさ。てかお前何しにこっちへ来たんだ?」
「そろそろ集まって全体の確認だから呼びに来たんだよ」
「もうそんな時間か。ありがとよ」
「このくらい別に良いって。君とぼ――」
「急に固まってどうしたんだ? 一気に顔色悪くなったみたいだけど大丈夫か?」
「う、うし、後ろ……に、逃げ……」
誰が見ても顔色の悪い乗組員が心配顔で訊いてくる乗組員の後方に安定しない人差し指を向ける。
「からかってんのか? 後ろってな…………ん?」
状況を理解した瞬間、もしくは理解する前に乗組員は白く巨大な触手に首から下の体全部を巻きつかれる。
「う、うわわわあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
荒れて不気味さを醸し出す海の中へと抵抗する暇もなく引きずり込まれていった。
ドボンッ! 今まで面と向かって親しげに話していた仕事仲間が叫び声と共に目の前から消失。激しいショックを受けるのは当然だった。
「どうしたあ! 何があった?」
悲鳴の叫びの直後、駆けつけた八名の内、一人がより一層激しさを増す雨音に掻き消されないように大声で顔面蒼白のまま腰を抜かしている男に問いかけた。
「ク、クラーケンが……クラーケンが出た! こ、殺される……皆、皆殺されるんだ……」
爪を立てて肩を抱きしめて唇を紫に変色させ、ガタガタと震え続ける男の様子を見て、駆けつけた八名は呆然と立ち尽くす。
しかし、一箇所に集まってのその行動はこの場面に置いてはとんでもない悪手だった。
数十秒後、決して抗うことのできない悲劇は再び起こる。この場にいた乗組員九名の姿は永遠に見られなくなるのだった。
伝説級でランク不明の魔物――クラーケンによって。