アネーシャ・フォルネスの過去と現在
アネーシャ・フォルネスは自分の膝の上で死んだように眠っている、リオルのサラサラしたダークシルバーの髪を撫でていた。
アネーシャは今しがた討伐された圧倒的恐怖の巨龍――アーテルインフェルノドラゴンを険しく見つめ、僅か数秒で視線を外し再びリオルの方へ移す。
そのまま数分間見つめ、満足したアネーシャは大きく深呼吸。目を閉じ過去を思い出すことにした。
――五年前。豪華絢爛で大きなパーティー会場。
パーティ机がいくつも並べてあり、その上には豪華な食事が高価な皿に盛りつけてある。
壁には様々な魔物の壁画、高さのある天井に吊り下げられた黄金に輝くシャンデリア。どこを見渡そうともみすぼらしい物は一切なく、立派で格が高いパーティーだと分かる。
大人しか見当たらない中で一人、ドレス姿の幼い黒髪少女――アネーシャは色んな机をとことこ巡りながら、気に入った料理を手に持った皿へと笑顔で運んでいた。
子供は自分一人だけなのにアネーシャは毛ほども気にする素振りを見せず、粗方目についた美味しそうな料理を皿に乗せ終わると、大好きな母の下へ戻ろうと歩き出す。
パリンッ!
突如皿が床に落ち、派手に割れる音がパーティー会場内に鳴り響く。落ちたのはアネーシャが小さな手に持っていた皿だ。ルンルン気分で皿に乗っけた料理は等しく床へとぶちまけられた。
手が滑って偶然落としたのではない。落とす状況に追いやられたのだ。先程まで微笑ましそうな顔をしていた男の一人にアネーシャは身動きを完全に封じられていた。
アネーシャが人質になったのをきっかけに、会場内の柔らかな雰囲気が一瞬で霧散し、張り詰めた空気へと急変。
楽しかったはずの明るいパーティーは突如終わりを迎え、記憶に一生残り続けるであろう耐え難い絶望をアネーシャに植えつけた日となる。
「これはどういうことだゴーゼル!」
黒髪の男は目を鋭くし、悠然とそびえ立ちニタニタと憎々しい笑みを浮かべた五メートルにも及ぶ巨体の男――ゴーゼルに向かって声を張り上げた。
「馬鹿な奴だ。我が穏健派と和解して多種族と友好的に交流すると本当に思うていたのか? 腹がよじれそうだ」
ゴーゼルの言葉で会場内に大爆笑が発生――この場合、嘲笑ってるの方が正しいかもしれない。
どちらにせよ、騒がしく下品な笑い声なのは目に見えて確かなのことだ。
「じゃあ……今までのはすべて……。今日、和解しようと呼び出したのも……」
黒髪の男は弱々しい声を発しながら項垂れた。
「そう、演技だ。そもそも我は魔族以外の種族など好かん。人間は弱く寿命も短い劣等種族のくせに傲慢、他の種族はまだマシだが劣等であることに何ら違いはない……だというのに生意気にも国土を持ちおってからに。この世界は誰よりも優れた我が支配するに相応しい。いや、支配されるべきなのだ」
ゴーゼルは相当忌々しく感じいるらしく、苦虫を噛み潰したように顔をする。誰が見ようと不機嫌なのは瞬時に察することだろう。
「それは偏見だ。私の妻のようにまともな人間も多い!」
「人間なんぞに魅了された愚か者の話など聞く耳もたんわ! グレイス……お前がこれ以上我に楯突くようならその娘を……」
ゴーゼルは目で指示を出し、アネーシャを殺させる振りをする。
「娘だけには手を出さないで!」
「なっ!? ゴーゼル! 部下を止めろ!」
「お母さん! お父さん!」
少し離れた別の場所で囲まれている金髪の女性が叫び、黒髪の男――グレイスも同じく叫べば、アネーシャも泣きながら叫ぶ。
この二人こそ、アネーシャの今は亡き最愛の両親である。
「我はな……我は憎いのだよ。千年もの長い間、我を封じ込めた今は亡き千年前の勇者が! のうのうと生きて繁栄し続けてる人間が!」
ゴーゼルの発言から分かる通り、魔王は新しく降臨したのではない。千年前の愚王が勇者パーティーの生き残りに詳細を聞いたのにも関わらず、封印じゃ面目が立たないと改変し、今世に間違った内容のまま伝えられた。
ゴーゼルは殺されていない。ゴーゼルに勝つのが厳しいと判断した勇者が命と引き換えに封印――それこそが知られざる真実。
しかし、封印には必ず解除方法があるもの。案の定、九つの魔力を流す場所が見つかった。千年という長い年月の間に解かれなかったのは封印を解こうとした者の魔力不足からだ。
九人で一斉に魔力を流し込み、上限を超えれば解除される仕組みだが、どうしても足りなかった。
だけど十年程前、群を抜いた魔力の持ち主達がやっと揃い封印は解除され、封印を解いた者達こそが現魔王軍の幹部なのだ。復活した魔王ゴーゼルは万全を期す為に水面下で戦力増強を始めていく。
「今ならばまだ遅くない。穏健派を解散し我の下へ来い。そしてお前の妻をお前が殺すのだ。そうするのなら……半分とはいえお前の娘は魔族。見逃してやっても良かろう」
ゴーゼルは許せないのだろう。自分を封印した勇者と同じ種族の人間が。だからこんなにもむごい提案をしたのだ。
「ミレーネにそんなことできるわけ――」
「ならばやむ得まい」
「――待って!」
取り囲まれている金髪の女性――ミレーネに注目が集まった。
「でしゃばるな人間」
ゴーゼルはミレーネに虫けらを見るような目を向ける。
「自害します」
耳を疑う発言。ミレーネは確かにそう言った。その目に迷いの色は存在していない。
「……何? もう一度申してみよ」
ゴーゼルは眉をひそめ訝しげにミレーネを見た。
「自害しますからお願いです。どうか夫と娘をお助けください」
悟ったのだろう。抵抗したら娘は絶対に助からないと。例え戦うことを決め、抵抗したとしても勝つことは不可能。
ならば、可能性は低くとも人間の自分が自害すれば二人は助かるかもしれないと。その僅かな望みにかける気なのだ。
「何を言ってるんだ!」
「だめ!」
グレイスとアネーシャが反対の声を張り上げる。
それでもミレーネの決意は固く、揺るがない。首を横に振って意見を曲げるのを拒否した。
二人は喜ばない。助かっても後悔する。それが分かっていても家族を守りたい。ミレーネからはそんな強い思いが伝わってくる。
「良かろう。ならばさっさと死ね」
「ゴーゼル貴様!」
「魔王ゴーゼル、あなたの王の器を信じます。グレイス、アネーシャ。お願い、生きて……」
王自らが約束を反故にはしませんよね? 強い覚悟の瞳でゴーゼルを見終えたら、次に最愛の家族二人に目を向ける。ミレーネは涙を流しながらも最期は優しく微笑んだ。
「だめぇぇぇぇぇ!!!」
アネーシャの止める声空しく、ミレーネは机に置いてあったナイフを自分の左胸に突き刺し、苦痛と笑顔の入り混じる表情でゆっくり背中から倒れた。
「何て……こと、を」
「娘を離してやれ」
「お母さん! お母さん! お母さん!」
「アネーシャ……」
アネーシャは全速力で駆け寄り、グレイスは覚束ない足取りでふらふらしながら近寄る。
「お父さん! お母さんが!」
涙で顔をぐちゃぐちゃにしたアネーシャは、グレイスにすがる気持ちで助けを求める。
グレイスには分かっていた。ミレーネに助かる望みなど少しもないことに。
グレイスは悔いる。ゴーゼルを信じてのこのこ敵地に赴き、ミレーネを死へ導かせた不甲斐なさ、アネーシャに母親の死ぬ瞬間を見せてしまったこと。
後悔の連続に押し潰されそうになるも、先程生まれた一つのどす黒い激情がそれを防ぐ。
「どうか……どうか……アネーシャだけは生きてくれ」
「お父さん……?」
グレイスはアネーシャを愛情を込めて強く優しく抱きしめ、一方のアネーシャは困惑する。
「私はアイツを許せない。こんな……こんな父さんを許しておくれ……」
身を焦がすような復讐心。確実にそれが芽生えていた。もう誰の言葉でもグレイスは止まらないし止まれない。
「お父さ――」
こうしてアネーシャはグレイスの空間魔法で強制的に転移。魔族領を遠く離れた人間領の山に飛ばされ気を失い、付近の村に住む優しい雰囲気の老婆に拾われた。
拾われた当初のアネーシャは泣いた。毎晩のように泣いた。老婆は嫌な顔一つすることなく、理由すらも聞かずただただ優しく慰め続けた。
優しい老婆にアネーシャは少しずつ心を開く。村人から余所者を勝手に迎い入れたことで責められても追い出すことはしなかったし、髪や余所者のことで蔑まれても味方をしてくれた。孤独な彼女に新たな家族ができたのだ。
そんな老婆も寿命でこの世を去り、アネーシャはまた一人になった。主に若い女の村人に陰口を叩かれたり、足を引っかけかられたり、水をかけられたりと、一ヶ月間ずっと味方なしの状態で過ごす。
大好きだった老婆と暮らした家から離れたくなくて居続けたが、このままでは駄目だと踏ん切りがつき、そろそろ村を離れようと思ってた矢先、とんでもない悲劇が起こる。
「龍だ! 龍が出たぞ!」
「逃げろー!」
「うわあぁぁぁぁぁ!」
こんな辺境の村に突如現れた漆黒の巨龍。村人達は散り散りになって逃げようとするも、巨腕で弾いて飛ばされ、尻尾で建物ごと破壊、火球で焼き尽くす。これ以外にも様々な方法を用いて遊んでいた。
『逃がさないよっ! あー気持ちいい。いつ見ても虫の逃げ惑う姿は最高だね。あ、そうだ。僕人探ししてるんだけど……って無視するなよ。虫だから無視するのは分かるけどさ』
龍は思うがままに暴れ続け、アネーシャは巻き込まれ建物に埋められた。結果的にそれだけで済んだのはある意味幸運とも言えるだろう。
アネーシャは何とか意識を保っており、村人の泣き叫ぶ声や命乞い、龍の残虐で甲高い笑い声を耳にしていた。
そのまま気を失ったり取り戻したりを繰り返していると、アネーシャは温かな希望の光に包まれ、ハーフ魔族の生命力の高さも相まって奇跡の生還を果たす。
この後、恐怖の龍が再び現れ、リオルと村の外へと出ていったが、しばらくは震えを抑えることもできずその場から動けなかった。
ふとアネーシャは思い出す。自分とお父さんを守る為に犠牲となったお母さんを。自分だけを転移させ、その後戻って来なかったことから殺されたであろうお父さんを。
「このままじゃ、駄目。私の問題なのに。命の恩人のリオルが死んじゃう。また私一人だけ無様に生き残るなんて耐えられない!」
勇気と気力を振り絞って立ち上がったアネーシャは急いで走り出した。今度こそ死なせない為に。
「あれ……立ち上がれない。このままじゃ私、足手まとい……逃げなきゃ……」
結果的に付与魔法は成功し、リオルの助けにもなったが、村人からの精神苦痛攻撃や老婆が亡くなってから食べる量が減ったこと、完治しても体力は戻らないことなどが重なり、龍を目の前にして足に力が入らなくなったのだ。
そのことが災いし、リオルは大火傷を負う。庇われたアネーシャは震える声で泣きながら謝った。
また自分の所為で死ぬの? そう思ったアネーシャだったが、リオルは違った。
アネーシャを安全な場所に避難させ、その上で圧倒的な恐怖を与える漆黒の巨龍を打倒したのだ。
そんなリオルは激闘に疲れ気絶。アネーシャは重い足を動かして必死に駆け寄った。疲労した体に地面は辛いだろうと思いアネーシャは膝枕している。
感謝と驚き。その他にもアネーシャは色んな感情をリオルに対して抱くも、一番は。
「リオルは私の光。決して消えない輝く光。同行を許してもらえるように精一杯説得する。真実を話して強くなる覚悟も見せる。私は……リオルと離れたくないから」
これは依存なのだろうが、アネーシャにその自覚はない。孤独になりたくないという思いが人一倍強いのだ。
だけど、お荷物になりたいとは思っていない。強くなりたいという気持ちは本気だ。むしろリオルよりも渇望している。大切な者を失った喪失感を知ってるからだ。
それでも受け入れるかどうかはリオル次第。アネーシャは少しドキドキしつつも期待感を持たずにはいられなかった。