俺とサラ、俺とリラ
「お兄ちゃん、お兄ちゃんてば!」
自宅へと向かって王都に続く道を歩いていると、後ろから兄を呼ぶ声が聞こえてきた。
「何だサラか。気付かなかったよ」
早く反応してやれよと思っていたら、肩を掴まれたので歩みを止めて振り向いた。呼ばれていたのは俺だったらしい。道理で聞き覚えのある声の筈だ。
「明らかに無視してたよ!」
サラは頬を膨らませて怒ってきたが、走ってきたのか、少し肩で息をしている。
「……最近は愚兄としか呼ばれてなかったから、反応できなかったんだよ」
サラが落ち着いたのを確認したら、俺は淡々と抑揚のない話し方で理由を伝えた。
「あ、あの、その。ごめんなさい……」
思い当たる節でもあったかのように、サラは表情を暗くして謝ってくる。
「何を謝る必要がある? サラは正しかったさ。昨日までの俺は情けなさの目立つ臆病者だった。サラが怒るのも無理ない」
「そんなことない! わたしはお兄ちゃんがどれだけ心を痛めていたのか知ろうとしなかった。たった二人の家族なのにお兄ちゃんを傷付けてた。今日お兄ちゃんだけ森から出てこなくて、心にぽっかりと穴があいた気分になったの。一人になっちゃうと思ったらわたし、わたし……」
サラは涙目で悲しそうに語るが、俺には疑問が湧いた。果たして本当に俺が必要なのかと。俺は確かに両親の代わりとなって『サラを守らなくてはならない』という使命感を持っていた。
弱かった俺は、自分の存在意義とするために、気付かない振りをしていたが、サラはリラと同じくらい強いし優秀なのだ。家族を亡くした直後のサラなら兎も角、今の立ち直ったサラなら俺と離ればなれになっても強く生きていける筈だ。
それに後二年もしたら一人立ちの時期だ。自然に個人の道を歩むことになるのだから、俺が生きてると確認できた今、そこまで寂しがってても仕方がないだろう。
「何を言ってる? サラはもう俺なしでも生きていけるさ。成績は常に上位で友達もいる。容姿だって贔屓目なしでも可愛い。誰だって助けてくれるさ」
俺は突き放す言い方で、正直な気持ちをサラに伝えた。無意識的に、厳しい言い方をしたのは、恐らくここ一年のサラとの記憶が表面化したものだろう。
たった二人だけの家族であるサラにも、冷たくできるようになった俺は確かに変わったな。
「な、何言ってるの? わたしにはお兄ちゃんが必要だよ! どこにも行ったりしないよね……?」
俺の右手を掴んで、すがるように訊いてくるサラに俺は「さあな……」と短く答えるしかできない。今すぐ無責任に言えることでもないしな。変に希望を持たせても意味がないことを俺は知っている。希望というのは光と闇の狭間のようなものだ。望み通りになる場合もあるが、打ち崩される場合もある。
「帰るぞ」
俺はサラに掴まれていた手を軽くほどいて、また前を向いて歩みを進めた。
「お兄ちゃん……」
サラの悲しそうに小さく俺を呼ぶ声を最後に、会話は終わった。俺達は、一定の微妙な距離を維持して、無言のまま歩いている。近いようで遠いようなこの距離間が、今の俺達の関係を如実に表してるような気がしていた。それは恐らく、サラも同様に思ってることだろう。
結局、重い沈黙は続き、俺達の口が開かれることはなかった。
次の日。昨日あんな劇的なことが起ころうとも、当たり前に朝は訪れる。
昨日は、帰ってシャワーを浴びた後、部屋のベッドで、泥のように眠った。相当疲れが溜まっていたらしく、普段よりだいぶ早く就寝した筈なのに、一度も目覚めることなく、起床時間はいつもと同じだった。
起き上がる前に、折れていた腕とあばら骨の確認をしてみたが、見事に完治していた。自動回復も役目を終えて解除されている。感覚では魔力も回復しており、筋肉痛もないから意外と悪くない調子だ。
もし、自動回復を使用していなければ、急激な運動の反動で、起き上がることすら困難だっただろうな。
まあ、俺の体調は一先ず置いといて、今日は確実に呼び出しがあるな。昨日は疲れてたから、適当に煙に巻いて真相をあやふやにしたけど、キリングタイガーの生死確認を俺から直接聞かなければ、ギルドと学園の両方が納得しないだろう。誤魔化しネタだけは考えておくか。
俺は予備の制服を着ると、朝食の準備に向かうことにした。
朝食と夕食は一日交代で作っている。今日は俺が朝食の用意をした。朝食を机に並べ終わった時、丁度制服に着替えたサラが食卓に到着した。
「お兄ちゃんおはよう……」
サラの挨拶は若干ぎこちなかったが、俺は「おはよう」と何でもないように返した。
無言の空気の中で食事が始まり、黒鳥という家畜の卵を使用したスープを掬って飲んでいると、サラから声を掛けられた。
「……お兄ちゃん。今日一緒に学校行かない?」
俺の様子を恐る恐る窺いながらも、サラが約一年振りに登校の誘いをしてきた。サラと登校していたのは、入学後二ヶ月くらいまでだ。ある日突然「今日からお兄ちゃんとは、別々に登校するからね」とサラに言われて以降は、一度ですら一緒に登校したことはない。
家での会話が俺に対する愚痴に変わって、それ以外の口数が減ってきたのも、この時からだ。日に日に俺は、サラとの温度差を肌で感じていた。
今思えば、兄妹なんて俺達の年齢になると、それが普通なのかもしれない。いつまでも行動を共にする兄妹なんて、稀有な存在なのだから、俺達はもうこのままの関係で良いのだろう。
「何だ突然。珍しいこともあるな」
俺は食事を一時中断して会話することにした。
「良いじゃん、久しぶりに、ね」
「サラは俺と学校行くのが嫌だと思ってたんだが」
「そんなことないよ! ただ……」
小さく俯いて言葉を詰まらせるサラだが、一体どういう心境の変化だ。明らかに昨日までのサラとは違う。
「ただ何だよ? 昨日俺が死にかけたからって無理しなくても良いんだぞ」
俺は真意を探るように、サラを真っ直ぐ見た。
「ち、違うよ。そんなんじゃないよ……」
顔を上げたサラの桃色の瞳には、動揺の色が浮かび、表情にも伝染している。
「同学年同クラスにも関わらず、学園での会話ゼロなのにか?」
「……」
事実を言われて黙りこむサラ。サラが俺のことを少なからず嫌悪していたことは知っている。魔物を討伐できない俺に面と向かって愚痴を言っていたのだ。それだけ俺の情けなさは見るに耐えなかったのだろう。
「無理に歩み寄る必要はない。サラが俺を家族として心配してくれたのは伝わってるから。それだけで十分だ」
俺が危機的状況に遭遇して死にかけたからなのか、それとも俺の性格の変化がサラ好みだからなのか、ただ戸惑っていて距離感が掴めないことに不安感があるからなのか、何れにしても、その考えを知らされるまでは、俺からも対応はしない。
俺らの家族としての関係は学園に入ってから一変した。お互いの関係は拗れ、気持ちも考えもわからない。両親と共に暮らしていた時とは何もかもが違う。俺の薄っぺらな使命感なんてなくても、サラは傷付けられなかった頃の俺より、よっぽど強く成長した。
もう俺達は家族として修復不可能な地点にいる、もしくはすれ違いの果てにギリギリを辿ってるのかもしれない。どちらにしても、違うにしても、今の俺にはサラと仲の良かった頃に戻るという未来が想像できない。そして俺自身も、特別望んでいないことを感じていた。
「どうしてこうなっちやったの……」
サラが最後にボソボソと何かを小さく呟いたが、内容は聞き取れなかった。会話終了後、空気が沈んでいる中、食器の音だけが鳴り響いていた。
食後、そろそろ登校しようと思っていたら、家に訪問者が現れたらしく、ノックの音が聞こえきた。
俺が玄関まで行き、ガチャッとドアを開けると、今日もお馴染みなツインテールの髪型をしたリラに、顔を合わせたと同時に「学園に行くわよリオル」と誘われた。
「リラか……。突然どうしたんだ?」
俺は来る筈のない訪問者に、怪訝な顔を向けた。
「一緒に登校するのを中断してたけど、また再開するから迎えにきたのよ」
俺とリラは一年生の半年頃まで、一緒に登校していた。嫉妬が原因の苛めが次第に増えてきたことで、ある日の登校中に頼んだのだ。
「今日から一緒に登下校するのやめにしない?」
「どうしてよ!」
「リラと一緒に登校するのが、気恥ずかしくなっちゃって」
「そ、それってあたしを意識してるってこと……?」
「えっ? あっ、うん……」
「な、ならしょうがないわね。リオルの整理が終わるまでだからね!」
あの時は、流れで結果オーライにはなったけど、微妙に話がすれ違っていた気がする。
「そりゃまた一体どうして」
「リオルが嘘ついてたからよ」
「嘘?」
「そうよ。登下校をやめた時、もうあたしたちが原因で苛められてたんでしょ? 昨日の話を聞いて合点がいったわ」
「覚えてたのか……」
俺が先程思い出した内容を、リラが会話に持ち出してきた。もしかしたら、昨日の出来事の後、色々と考えてたのかもしれないな。
「あの時、あたしが気づいていれば、リオルを変わらざるをえない状況にまで、追い込ませずに済んだかもしれない。日に日にリオルの笑う顔には違和感が増しているのに、あたしは幼馴染なのに、ずっと側で見てきた筈なのに、何もできなかったのよ……」
作り笑いには気付いていたのか……。後先考えないで、ただ助けてるだけだと思ってたら、色々と俺のことで悩んでたんだな。
リラの表情には後悔の念が渦巻いている。確かに昨日までの俺は、リラやミシェルさんの存在が近くにあると、安心感よりも危機的な気持ちの方が強かった。
「そんなに気にやむなよ。俺は自分のどうしようもない弱さを捨てただ――」
「それは違うわ。リオルは誰よりも優しかっただけ。決して弱かったんじゃないわ」
リラは食い気味に弱かった俺を弱くないと言う。俺とは考え方や見方が違うようだ。
「そんな立派でもないし、もう後の祭りだけどな」
「あーもう! 煩わしい話はもう嫌! あたしがリオルと一緒に登校したいのよ!」
リラは髪を手で掻き回して、明るい茶色の瞳で俺ををじっと見詰めると、吹っ切るかのように大きめの声で思いを伝えてきた。
複雑に考えるより単純な気持ちか……。
「だが、俺の豹変振りにショックを受けてた件はどうなんだ?」
「昨日眠るまで考えたら一つの結論が出たの」
「……」
へー。なら黙って聞かせてもらおうか。
「どれだけ変わったってリオルはリオルだし。大切な幼馴染なのは変わらないってね」
リラの曇りのない瞳からは、嘘偽りない気持ちが察せられた。
「フッ、そうか」
俺はリラらしいなと、思わず笑ってしまう。
「今鼻で笑ったでしょ!」
俺の笑い方がリラには馬鹿にされた風に映ったらしく、しばらく肩をポカポカと叩かれ続けるのだった。