豹変への道
薄暗く不気味な森の奥深く、僕は十中八九「どうせ誰も助けに来ない」と心中で理解しつつも、死にたくないその一心で僅かな望みに期待する。
「誰か……誰か助けて!」
僕を仕留めようと追ってくる魔物の攻撃を何とか紙一重で避けながら、今出せる精一杯の声を張り上げて助けを求めた。
そこまでしても都合よく本の物語のような英雄は現れない。勇気ある仲間も当然。あ、僕に仲間はいなかった……。
みっともなく転んだり、死に物狂いで足掻きながらも、回避行動を繰り返していると、僕の全身はいつの間にか地面の土でまみれていた。
白を基調とした制服は上下共に汚れが目立ちボロボロ。避け方を形振り構わない所為で、浅い生傷も徐々に数を増やしていく。
「ガルルルゥゥゥ」
目の前で涎を垂らしながら、とんでもない威圧感を放ち、唸り声を発してくる魔物。
この血に飢えている恐怖の塊、その名はキリングタイガー。別名――森の紅き殺し屋と呼ばれ、Aランク冒険者でさえも畏怖する特A級魔物だ。
全長は背の高い人間を三人足しても、敵うかどうか分からない圧倒される大きさ。毛衣は深みのある紅色で、真っ赤な血を連想させられる。顔から尻尾にかけては濃い黒色の縞模様が見られた。
キリングタイガーは金色の双眼で、僕を鋭く射ながら、じりじりと力強く進み迫ってくる。
それに合わせて僕は、一歩一歩後ろに後退するのだが、それは突然の終わりを迎えた。
後ろの大木が絶望的な壁と化して、これ以上後ろへ下がるのを阻む。
「こんなこと、こんなことって……一体僕が何をしたっていうんだ。こんな理不尽なこと……」
極限まで追い詰められた僕の体中から冷や汗が洪水のように流れて止まらない。
ゴクンと唾を飲み込む僕は、緊張が限界に達したのか、体を懸命に動かそうと試みるも、硬直して固まったまま少しの自由もきかない。
振り上げられた前足はスローモーションように遅く、キリングタイガーの一挙一動がハッキリと目で追える。
無慈悲な破壊の一撃が、佇んで動けぬ僕の横腹を着実に抉ろうと迫り来ていた。
「ゴフッ……ゲホッゲホッ」
息が……息が息が息が!? 酸素をどうにか、取り入れないと……。落ち着け、落ち着くんだ。
幸いなことに一時的なことだったようで、呼吸はすぐに可能となった。
困難は一つ去ったけど、うつ伏せから立ち上がる気力がどうしても湧かない。削がれてしまう。
十数メートルは優に吹っ飛ばされかな? 背中から強く大木に叩きつけられた。手加減って言葉を学んでほしい。
飛ばされた瞬間、派手に鮮血が撒き散ったのが見えたな……。
体中の隅々が痛くて痛くて力が入らない……痛覚が麻痺してくれたらどれだけ楽か……。
骨は確実に折れてるし、脇腹からは出血までしてるのか……。
頭から垂れてきた血で、視界は赤く濃く染まっている。加えて咳と一緒に吐血までする始末……。
もう死ぬのかもしれない……。意識を朦朧とさせながら、最悪な考えが頭を過った時、僕の惨めで辛く苦しい記憶が走馬灯のように蘇ってきた。
僕ことリオル・サーファは【ウルファス王国】の王都【アラドス】に住む一学生だ。家族は同い年の義妹と二人だけ。
両親共にギルド所属の高ランク冒険者をしていたけど、僕達が学園に入学する二年前、想定外の魔物に運悪く遭遇し、激戦の末に亡くなったと辛い報告を受けた。
当時は二人で悲しみに暮れたよ。どのくらいの期間気持ちが落ち込んでいたかも分からない。
両親なしで生きていく不安に押し潰されそうになったり、寂しさが込み上げてきたりと、悲観的になることが何度もあった。
それでも僕は時が経つごとに立ち直り、同時期に『兄である自分が妹を守る』という使命感が芽生えたのを今でもハッキリと覚えている。
幸いだったのは、両親が残した遺産のお蔭で学園を卒業するまでは普通に生活を送れることだ。両親は亡くなる少し前、多大な寄付を孤児院にしたらしいけど、僕達は食うに困ることなく生活を続けられている。
そして早いことに、僕達が【対魔物学園】に通い始めて、既に一年の月日が経過していた。
王都の学舎【対魔物学園】――魔物を討伐する技術と心構えを学ぶ教育機関。昨今では、魔王が千年の時を経て、新しく降臨したと公表された。それに伴い、対魔族を想定した訓練も追加され、模擬戦が取り入れられるようになる。
今だからこそ思うんだ。この学園に入学したことこそが、僕にとって絶望への落とし穴だったんだって……。
二年生に進級して数週間後のある日の教室。今日も今日とて僕は心ない言葉に傷付けられていた。
「弱虫くーん。何もできないのにまた来たんでちゅか~」
「魔物討伐と対人戦にビビってる臆病者が来る意味なくね?」
「そんなこと言うなって。俺たちのストレス解消に重宝してるじゃねえか」
僕の学園での扱いは、大体こんなものだ。何が楽しいのか、クラスの男子生徒三人を中心に「ギャハハハッ」と僕を嘲笑っている。
まだこれはましな方。酷い時はストレス発散と称して、僕を人気のない場所に複数人で連行して思う存分暴行を行い、気が済んだら中途半端な魔法で目立たない程度に回復させられる。
僕がこんな扱いになったのは確か……入学して二ヶ月程経ってからだっけ。
ギルド実習――F~D級魔物を討伐する授業が一ヶ月に三回行われる。僕は実習の際に魔物を攻撃しなかった……いや違う。できなかった。
最初は失敗する生徒も毎年出てくるらしく、何も言われはしない。それでも二回目三回目からは、誰でも弱い魔物ならば簡単に倒せるようになる……けど、僕だけがいつまで経っても倒せなかった。
模擬戦も徐々に始まっていったが、そこでも満足に戦えなかった。魔物と人に恐怖を感じたからとかではない。
僕は何かを傷つける行為自体が極端に苦手だったんだ。
「あんたたち耳障りよ!」
こんな僕にも庇ってくれる生徒が二人いる。嘲笑ってる生徒に対して、目を吊り上げながら怒鳴った彼女――リラ・ミラーだ。
幼馴染でもある。明るい茶髪のツインテール、綺麗な茶色の瞳、少しきつい雰囲気の漂う小柄な女の子だ。
「私もそう思います。下品ですよ」
リラに続いてそう言った彼女――ミシェル・ホワイトは、口調からは気品が伝わってくる。
ミシェルさんは、この国で王族の次に大きな権力を有している二大貴族、ホワイト家のご息女だ。
白銀ロングの綺麗な髪、背は僕と大差なく、男目を惹く抜群なスタイルをしている。大人っぽい美人系の顔立ちで、瞳の色は薄い碧眼だ。
この二人のことは、トップレベルの美少女だと学園の誰もが認めている。
嫌われるのを回避したいのか、この二人に直接言われると、苛めグループはすぐに退散する。去り際に、睨み付けるというおまけ込みで。
最初の部分だけ聞いたら、二人との関わりが苛めを抑制するメリットになりそうだが、実状はデメリットの方が大きいと言わざるをえない。
人気があると言うことは、それだけ多くの者に嫉妬されるのだが、僕は間違っても共感できない。
何故そんなに敵意をぶつけられるのか。自分の彼女なら兎も角、違うなら過剰に妬むのは少々度が過ぎている。
そしてこれまた皮肉なことに、裏で暴力を受ける理由の半分が二人なのだ。最近では放っておいてほしいという気持ちの方が強い。
二人が庇えば庇うほど、僕に対する陰湿な苛めが醜い嫉妬によって加速していくからだ。
「リオルもリオルよ。言わせっぱなしなんてダメじゃない」
リラは僕の暗めな銀髪頭をコツンと軽く叩いて、学園に入ってから恒例になった小言を言ってくる。
「ああいう生徒は、放置しておくと益々調子に乗りますよ」
リラの意見にうんうんと頷いたミシェルさんにも助言をされる。
「あはは……そうだよね」
僕は乾いた笑みを浮かべるしかなかった。
「優しすぎるのも良いけど、度を過ぎると情けないわよ。まあ、でも……困った時は頼りなさいよね」
リラの正論と優しさが、同時に僕の胸へと突き刺さる。僕は「うん、ありがとう」と作り笑いを浮かべて答えることしかできなかった。
いつからだろうか、作り笑いが様になってきたのは。付き合いが長いリラにも気づかれることがなくなった。
僕は僕という人間が嫌いで嫌いで仕方ない。
家に帰れば義妹のサラ・サーファが居た。桃色セミロングで、背は僕より少し低めだ。可愛い系の美少女として学園で人気がある。僕とは正反対の評判だ。
サラとの会話は最近、僕への不満を一方的に愚痴られるだけだ。学園内に限っては、二年生になってから会話したことがない。情けない僕と関わってる姿を見られたくないのだろう。
食卓の椅子に腰掛けていると、向かいに座ったサラから今日のことで話し掛けられた。
「愚兄、今日もリラとミシェルさんに助けてもらってたね。妹として情けないよ。魔物一匹まともに倒せないし、尚且つあんな人たちに馬鹿にされる。悔しくないの? 特に魔物にまで攻撃できないなんてお父さんとお母さんが泣いてるよ」
サラに軽蔑の視線を向けられる。魔物の討伐を生業にしていた両親の子供なのに、こんな体たらくだからきつく言われてるのかもしれない。
「はは……。ごめん」
「ヘラヘラするくらいなら、一刻でも早く順応してよね」
サラは僕に言い終えると満足したのか、さっさと自分の部屋に戻っていった。
僕は家でも休まることができないのか……。でも僕はサラの兄なんだ。この程度……我慢しないと。
頭を抱えて沈んだ気持ちになる僕だったが、目を瞑って両親が亡くなった直後の出来事を鮮明に思い出す。
あの日に芽生えた使命感を無理矢理蘇らせることで、僕はこの日も辛さを押し殺し、何とか乗り越えて踏ん張ることに成功した。
まだまだ頑張れるはず。そうだろ? 僕……。
この日から一週間後、最悪の日が訪れる。生か死かの運命が着実に後ろまで迫っていた。
「今日はギルド実習です。羽目を外さないよう真剣に取り組みましょう」
教卓に立つ、白のシャツと膝丈のタイトスカートできっちりとした服装で、眼鏡を掛けた秀才風の担当教員ミレイ・キレレイが僕の苦手な実習の始まりを告げた。
「先生一人だけ足手まといがいまーす」
実習になると毎回のように僕をネタにする生徒が現れる。女子も男子も関係なく、クスクスと笑う声が教室全体に響いている。
「そんなこと言ってはいけません。同じクラスの仲間なのですから、助け合いの心が大切ですよ」
「おんぶにだっこの間違いでは?」
「お見事!」
「金貨一枚を進呈しよう」
先生の諭すような模範的な答えは、僕へのからかいを更に増長させる結果となった。クスクス笑いは爆笑へと進化を遂げている。
「黙りなさい! クラスメイトにそんなこと言う人は、成績下げますからね」
先生が教卓を両手でバンッ! と叩き、切り札とも言える魔法の言葉を言うと、やっと教室内が静かになった。僕は無駄に被害が増したことに辟易していた。
「それでは、依頼書は既に貰っていますので、ノースレイの森へと移動しますよ」
先生の言葉で皆が席を立ち、先生の後を歩いていく。今向かっている【ノースレイの森】は、王都の北に位置する森だ。基本的にはF~C級の魔物しか生息していない。初心者向けの場所だけど僕は魔物を討伐できた試しがない。
「妙ですね……。魔物と遭遇しません。大丈夫だとは思いますが、皆さん警戒していてください」
僕ら一行は【ノースレイの森】に到着して奥へと進んでいた。先生が真剣な表情と声音で僕らに注意を呼び掛けた。
先生が言った通り、何らかの異変が森に起きていることは明らかだ。本来なら魔物と戦闘に入ってる頃合いなのに、それを疾うに過ぎている。
にも関わらず、今日は周辺が静かすぎる。まさに嵐の前の静けさが体現されていた。
不気味な程の静けさは、唐突に終わりを迎えるもの。僕は言い知れぬ不安にかられていた。
異変を感じ取った先生が、待機指示を全員に出して少しの時間が経過した――その時、忽然と現れた大きな影を僕達は認識する。
「問題ないって先生。この森の魔物に勝てないのは弱虫くらいです……よ……?」
「嘘……だろ」
「キリングタイガーが出たぞ! 皆逃げろー!」
「うわー!?」
「キャー!?」
その影の正体が判明すると、数秒前までの余裕はどこへやら、圧倒的驚異に軽々と吹き飛ばされ、集団パニックが起こった。
先生が、逃走の時間稼ぎとして『光よ、視界を奪いたまえ、フラッシュ』を行使した。キリングタイガーの目の前で、直視したら失明しそうな程の眩しい光が発生する。
先生の冷静な対応により、キリングタイガーはまともに強烈な光を直視して、視力を一時的に失うことになった。数十秒は逃走する時間が作られただろうが、正直まだ心許ない。
先生は更に『光よ、目標を拘束したまえ、リストレイント』という拘束系の魔法を行使して、キリングタイガーの巨体を光の半円で、地面に頭と胴体をガッチリと固定させた。
今は伏せた状態でもがいているが、脱出されるのが時間の問題なのは共通見解だろう。
「今の内です! 全力で駆け抜けることを最優先に考えて走りなさい!」
先生は大声で叫ぶように指示を出すと、声の橋渡しがしやすいと判断したのか、生徒の中間地点まで移動した。パニックを起こしていたクラスメイト達は、先生の行動と声で何とか正気を取り戻し逃走をスタート。
僕は、先生は一番後方じゃないのかと疑問に思ったが、移動した後だったので、小さな違和感に蓋をして足を動かした。
僕は前の方を歩いていたから、後方からのスタートだ。各自が身体強化を最大限利用して、迫り来る恐怖から少しでも遠ざかろうと全身全霊を注いでいる。
僕も当然、背を向けて必死に走っている。キリングタイガーが追い掛けて来るまで、距離を稼ぐだけ稼がなければ、少し先の未来に待ち受けるのは……自分自身の死。
あんなのに捕まったら……想像しただけで吐きそうだよ……。
強烈な重圧を後ろから感じるからか、皆息切れも早いし、汗も大量に流れている。
「ガルアアアァァァァァァ――――!!!」
先生の魔法効果が消失したのか、森全体に怒り狂ったような咆哮が響いた。硬直しそうな体を無理にでも動かして、前を目指せるだけ目指すことに全力を尽くす。
これはまずいぞ。――まずい! まずい! まずい! 森を出るまで最低三分は要する。このままだと全滅だよ。一体どうすればいいんだ……。
「――うわっ!?」
僕が思い悩みながら走ってる時だった。集中していて気付かなかった僕の足を、ある男子生徒がひっかけて転ばせたんだ。
僕は勢いよく地面を転がると数メートル先にうつ伏せの状態で倒れた。
「な、何をするんだ! こんな緊急時にふざけてる場合じゃないでしょ!」
擦れた痛みを無視して、僕は怒りながら立ち上がる。辺りを確認すると、苛めの中心グループの三人が、人を不快にさせるニヤニヤ顔で僕を見ていた。
転んだことによって、前方との距離がどんどん離れているのが視界に映り、僕に更なる不安を抱かせる。
「ふざけてないさ。このままなら皆殺される。だからお前が、な? 最期くらいは役に立ってくれるだろ?」
軽薄ないやらしい笑みのリーダー格が僕に遠回し、いや――ほぼ直接的にこの場で犠牲になって死ねと言ってきた。
「君らおかしいよ……。そんなに僕が目障りなのか……」
彼らは人を犠牲にするのに躊躇の欠片もない。僕には彼らが人間の皮を被った化け物にしか見えなかった。
「当たり前だ。お前が消えてくれたら、男子全員に美少女とお近づきになるチャンスが巡ってくるんだ。それによ、お前なんてこんな時しか使い道ねえだろ。根性見せてくれるよな弱虫くん?」
「俺らが涙ながらにお前の勇姿を語り継いでやるから心配も不要だ。リオル・サーファは自分を犠牲にして皆を助けた英雄だ、ってよ」
「安心して成仏してくれ」
リーダー、二番手、三番手と序列順に、勝手なことばかりを一方的に伝えてくる。
「ま、待ってよ! そんな理不尽なこ――」
『土よ、奴を閉じ込めたまえ、ケージ』
僕の言葉に被せるように、リーダー格の魔法が発動し、頑丈な檻の中へ閉じ込められた。
僕の姿を満足気に、ニヤッと笑って確認したら、前方グループを追い掛け出した。苛めグループの後ろ姿が見る見る遠ざかり、ついには僕の視界から完全に消える。
ハハハッ……本当に置いていかれたのか……。あんな人達を助ける犠牲となって僕は死ぬ? そんな馬鹿な……。
死にたくない……心の底からそう思った。僕は腕だけ部分的に集中強化すると、檻が壊れるまで何度も何度も殴り続けた。拳の皮が剥けても気にしないし諦めない。
檻が壊れる頃には、拳は真っ赤な血で染まっていた。
「やった……。これで逃げられ――」
僕は言葉を最後まで言えなかった。なぜなら、檻から脱出した瞬間、いつの間にか出現した大きな影が僕を覆い隠し、圧倒的な恐怖を再認識してしまったからだ。
走馬灯による記憶が、一気に流れ終わった。
痛い、痛いよ。心も体も限界だ。誰か、誰か助けてよ。何で助けてくれない。先生は僕が逃げ遅れてることに気付かないの?
何で僕はこんな目に遭ってるんだっけ……。
僕が気弱だから?
傷付けるのが苦手だから?
アイツらに生け贄とサレタカラ?
このままじゃ死ぬ? ……そんなの嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だぁぁぁぁぁ!!
僕が僕のまま死ぬくらいなら、僕は僕を捨て去るよ。生きる為ならこんな弱い僕はいらない。弱者のまま惨めに終わってなるものか!
俺として貪欲に生にしがみついてやる。それを邪魔する敵には二度と容赦しない。死神の迎えなんて糞食らえだ!