第二話「赤髪の少年」
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先生の声が遠くの方で聞こえているような感覚の中、飛龍は窓側の席で、頬杖をつきながら、ぼうっと外の景色を眺めていた。校庭ではいくつかのクラスが体育の授業をしている。
彼はこの陽光中学校に通う中学二年生だ。影法師としての妖魔の退治を除けば、ごく普通の十四歳の少年として過ごしている。
教室は静まり返り、皆それぞれに教科書を見つめている。だが飛龍だけは教科書に目もくれず、昨晩、菊代の言った《闇斬り》という言葉を思い出していた。護衛役、と聞いていまいちぴんと来なかったが、妖魔と戦う仲間が増えるという事だけは理解していた。
どんな人物なのか。同性なのか異性なのか、はては同年代なのか、成人した者なのか……そうした事ばかりが頭に浮かぶ。
「(これで怖い思いをするのも、減るかな……)」
そんな事を思いながら、ふと、彼の視界に公園が映った。そこには、楽しそうに遊んでいる子供達の姿が見える。
「(そう言えば、俺……あの頃はあんな風に遊んだ事、なかったなあ……)」
飛龍は小さく溜め息をついた。
翡翠色の瞳を持って生まれた時点で早くもその才能を見出され、影法師としての将来が決まった飛龍。物心つく前から影法師になる為の修行が始まり、そこからは辛く過酷な日々が彼を待っていた。
修行を必死に続け、気がつけば七歳。普通の子供であれば小学校に入学し、楽しい学校生活が始まる。しかし、飛龍は学校に通いながら、修行を続けねばならなかった。
影法師の修行は昔から、十二歳までやらなければならない決まりがあったのだ。故に、彼に拒否する権利などなかった。
飛龍は学校が終わればすぐに帰り、修行をする日々を続けた。それだけではなく、元来彼が引っ込み思案な性格だった事もあり、友達が作れずに今までを過ごして来たのである。
飛龍には羨ましかった。楽しそうに遊ぶ同年代の子達が。友達と楽しげに登下校する彼らの姿が、何よりの憧れだった。どんなに願っても、彼にはどうしても叶わない願いだったから。
空は紅く染まり、校舎全体を綺麗に色付けていた。
午後六時半を過ぎた校内は人の気配がほとんどない。部活動の生徒は幾らか残っているようだが、それも体育会系のものばかりで、文化部は早めに撤収してしまうので、外と中とでは全く違った空気を感じる。
自分の足音ばかりが響き渡るような、そんな静寂に包まれた校内に、飛龍は一人まだ残っていた。ただでさえ臆病な彼がここにいるのは、授業の宿題のプリントを探していたからである。机の中をひたすら探り、ようやく見つけた。
教室を出ようとしたが、ふと廊下へと出るドアの目の前で立ち止まる。
「……どうか、今日は何も現れませんように……」
手を合わせて目を瞑り、いつものように祈った。
《影法師》は自身の影を使い、人々の生活を脅かす《妖魔》と呼ばれる異形の化け物を退治するのが仕事である。その祖は、平安時代にまで遡ると言われていた。
彼は結城家の正統な第二十代目継承者でありながら、戦いや争いを極端に嫌っている。それが、例え対峙すべき妖魔であってもだった。だから、極力妖魔との戦闘を避けようとしているのである。妖魔を退治する為の戦闘は、いつ命を取られてもおかしくはなく、自分が喰われてしまう恐れもあった。
いくら修行を積んでいたとしても、いつも危険と隣り合わせなのに変わりはない。だから、飛龍は戦う事に抵抗があった。
飛龍は扉を開ける。外は夜の闇の色へと変わりつつあった。窓を通して、夕日の最後の光が眩しいほどに差し込んでいる。
まずい、と彼は感じた。昼と夜の入れ替わるこの時間帯こそ妖魔が最も活発化する時間であり、影法師の能力も限界の時間である。
飛龍は一刻も早く学校を出るべく、走り出そうとした。
が、その時である。
「っ……!?」
ぐらりと世界が歪んだ。途端、両目に激しい痛みが走る。次の瞬間、背後から襲いかかってくる気配を感じた。飛龍は間一髪で横に転がり逃げる。
彼を襲おうとしたのは、狼に似た姿をした生物だ。ただの狼ではない。全身が黒で染められており、その目は赤く充血している。彼は、すぐに正体を理解した。
――妖魔。飛龍を含めた、影法師が退治すべき対象である。妖魔は闇の中から現れ、人間を喰らう。その多くが行動原理の不明なものだが、人間の負の感情に引き寄せられていると言われている。
本来ならばこの場で退治するべきだが、先程避けた際の衝撃で足首を捻ったのか、動く事が出来ない。いや、それだけではない。飛龍は体が震え上がってしまい、その場を動けなくなっていた。
先日は妖魔の不意を突いたからこそ退治出来たと言っても良い。飛龍の妖魔退治は、そのほとんどが不意打ちである。
だからこそ、相手が先手を打ってきた場合の対処方法を用意していなかった。
飛龍は無我夢中で印を結んだ。方陣と成った影が現れ、妖魔を捕らえるべく伸びる。しかし、それはいとも簡単に妖魔に避けられてしまった。
恐怖のあまり混乱する飛龍の頭には何とかしなければという思いだけでいっぱいになっており、ただただ印を結び、何度も影を伸ばし捕らえようとするばかり。だが、何度やっても妖魔を捕らえる事は出来ない。
殺されてしまう、と飛龍は直感した。昨日の獅子魔の時も恐怖は抱いていたが、あの時とは違い、がくがくと足の震えが止まらない。
そうしている間にも、妖魔が詰め寄る。逃げるか、戦うかのどちらかしか彼には選択肢がなかった。だが、どちらも今の状況では出来る筈がなく、ただ怯えながら見つめるしかなかった。手も震え、体全体が震えている。もはや、どうする事も出来なかった。
「(もう……駄目だ……!)」
諦めてぎゅっと目を瞑る。歯を食いしばった――次の瞬間、妖魔が苦しげな声を上げた。同時に、人の気配を感じる。飛龍は恐る恐る目を開けた。
眼前に、同じ年頃の少年が立っていた。少年、と言うよりは少女の様に小柄で、華奢な体つきをしている。男子にしては少し長めの赤髪を揺らしている。現代ではあまり見かけないような黒の小袖と白の半袴に身を包んでおり、その右手には日本刀が握り締められていた。
少年が、振り返る。どこか虚ろに見える灰色の双眸が、飛龍を捉えた。
「――お前か? 結城家の継承者は」