(4)
ユーマは、しばらく考え込んでいた。
激しくも、静かな痛み。
物心付いた頃からユーマを苦しめて逃がさない病は、この瞬間も付き纏っている。
左手で、額を押さえた。それから、右手を胸元に当てる。痛みと同じく、ユーマ自身にはどうする事もできないもの。レーベンワールを間近で目にしてから、胸の内には無邪気な喜びが湧き上がっていた。
夢と希望。
叶う事のない夢は、悪夢。
持て余した希望は、絶望に変わって重くのし掛かる。
何もかも諦めてしまえば、きっと楽になれるのだ。夢を忘れて、希望を捨てれば、こんな風に苦しむ事はない。ユーマは諦めるために生きてきた。だが、忘れられない、捨てられない。
気が付けば、一筋の涙が頬を伝っている。
乱暴に、それを拭った。
だが、止まらない。
最初から気付いていた。ユーマは嬉しかった。アレティアが〈杖の儀式〉に合格した事が、本当に嬉しい。ユーマには彼女以外の友達がいない。アンチ・エーテルという体質がそうさせたと思っているが、同時に、ユーマの方から友達を作ろうと努力した事もなかった。孤独を気取って、誰とも積極的に交わろうとしない自分が、他人のために泣くなんて滑稽だろうと思う。
だが、それでも――。
ユーマの涙は止まらない。
アレティアは才能に溢れている。
そして、努力家でもあった。
両親のいない、戦災孤児。何もない所から自分の力だけを頼りにして、彼女は素晴らしいゴールに辿り着いてみせた。誰よりも身近な所でその歩みを見てきたから、ユーマは誰よりも理解できるつもりだった。だから、誰よりもたくさんの言葉で彼女を祝福してやりたかった。
だが、遠かった。
闘技場の観客席からユーマがどれだけ叫んでも、その声が届く事は絶対になかった。
「僕は……」
一緒に行こう、と――。
アレティアは手を差し伸べてくれた。
彼女の手を振り払い、ユーマは〈杖の儀式〉を拒んだ。
自分の中にある弱さを拒み、自分自身と向き合う事も拒んだ。
「僕は、ちゃんと……」
ひとつの終わりが、今、目の前に示されている。
もしも、エンノイアからここで杖を受け取り、〈杖の儀式〉の真似事を行ったとしても、アンチ・エーテルのユーマには魔法を使う事はできない。ゴーレムを起動させる事は絶対にできなかった。
結末は見えている。
失敗するとわかっているのに、一歩を踏み出す事に意味はあるのだろうか。
ユーマはずっと、そこに意味はないと思っていた。
だが、違うのかも知れない。
頭の痛みは、相変わらず激しく――。
意識が飛びそうで、表情を歪めながら――。
それでも、自分の心に決着を付ける事ができるのは自分の手だけである。
ユーマは、エンノイアから騎士の杖を受け取った。
「レーテ。今まで、ありがとう」
ゆっくりと、杖を頭上に掲げていく。
視線はレーベンワールに向けたまま、恐々と口を開いた。
魔法を発動させるための古い言葉。
エーテルに触れられない身でそれを口にするのは虚しく、知識として学ぶ事はあっても、これまで本気で試してみる事はなかった。小さな子供ならば、道端に落ちている木の枝を振り回しながら、騎士を真似して叫んでみる事も多いだろうけれど――。
遊びではない。
真剣に、本気で、命を賭けて。
ユーマは生まれて初めて、心の底からの雄叫びを上げる。
――はい、ユーマ。
永遠のような一瞬だった。
世界の果てまで、ユーマの心は旅をしていた。
「ユーマ!」
エンノイアの鋭い声に、ユーマはハッと我に返る。
「これは、まさか……いや、驚いたよ」
エンノイアが驚いていた。
ユーマは呆然とするも、徐々に理解していく。
「杖に、光が……エーテルが反応している?」
ユーマの握り締める杖に、エーテルの輝きが灯っていた。
それは本来、ありえない事である。アンチ・エーテルのユーマは、これまで魔法を一度でも使えた試しがない。魔法の源となるエーテルに、そもそも干渉する事ができないのだから。
何が起こっているのか、想像も付かない。
だが、目の前で起きている出来事は間違いなくリアルだった。
まさに奇跡と呼ぶに等しく、飛び上がって喜ぶべきような事態である。
「……ユーマ?」
エンノイアが徐々に、怪訝な顔に変わっていく。
「どうした、気分でも悪いのか?」
ユーマは何も答えられないままである。
エンノイアを無視して、ふらふらと前に歩き出した。
「……誰?」
呆然と、それだけを呟く。
「この声は、誰の……?」
夢から覚めたように、頭痛が消えている。
身体には、凪が訪れていた。
唯一痛いのは、心。
やがて、ユーマは大粒の涙を零した。忘れていた何かが溢れ出して、止まらなくて。今にも、心の奥底から爆発してしまいそうだった。何だろう、これは。ユーマはわからない。途方もなく大きなもの。大切なもの。忘れてはならないものを忘れている事に、この瞬間、ユーマはようやく気付いてしまった。
杖を両手で握り締めながら、必死に自分の心に問いかける。
「僕は、何を忘れて――」
わからない。
「誰を、忘れて――」
わからない、わからない、わからない。
わからない、わからない。
わからない。
世界の果てまでもう一度答えを探し求めるように、ユーマは空の彼方に視線を惑わせる。窓の向こう側には、夜の帳が降りていた。悩みや迷いに染まった心のように、ひたすら真っ暗な夜空。星は見えない。見えるものと云えば、光の網。そして、美しい月ぐらいである。
月である、銀色の――。
銀の――。
「フィオナ」
無意識の呟きと共に、ユーマは目を見開いた。
「……あ」
咄嗟には、自分が何を口走ったのか、理解できない。
「……あ、ああ」
静寂。
再びの永遠。
世界は、その一瞬の間に色鮮やかに生まれ変わる。
頭の中から長年の痛みが消えただけでなく、ユーマを縛り付けていた見えない鎖のようなものが、不意にするりと外れてしまったかのようだ。軽い。身体も、心も。空も飛べそうなぐらいで、かつてない昂揚感にぞくぞくと鳥肌まで浮いた。
ユーマはさらに目を見開く。
もう一度、今度は全力で叫んでみる。
「フィオナ!」
――はい、ユーマ。
聞こえた。
「思い出した」
だから、涙は止まる。
「ああ、そうだ。フィオナ……僕の、フィオナ――」
ユーマは何度でも、その名を口にする。
赤子が産声を上げるように、飽きる事無く繰り返した。
「フィオナ」
ユーマは左手で杖の柄を握り締めながら、右手で、輝燧石を包み込むように直接掴んだ。
騎士の常道ではない構え方。だが、これで良いと――これこそが正しいと、ユーマは無意識に感じ取っていた。迷わない。思い出したものは、彼女の名前だけ――しかし、身体に染み付いた何かが、強引なぐらいに力強く背中を押してくる。
ユーマは大きな一歩を踏み出した。
世界の果てまで届くような叫び声を上げる。
「起動開始。僕の声を聴け、レーベンワール!」