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文芸評論の限局性と限界。作家と作品の解離性について

作者: 舜風人

文芸評論とは、、


大きく分けて、、



作家論と作品論に2大別されるのではないでしょうか?


作家論では、、文字通り作家の生涯とか


家族、性格分析、影響を与えた社会環境とか、、


かかわった交友関係とか、その作家をめぐる


諸々が,、歴史的、、、心理的、、社会学的、、に、分析解明?されるわけですね。


ところでこうした作家論というのは


作品が生まれたきた背景研究であって


作家がその作家たりうる根本意義たる作品そのものについては、、


西暦何年に小説「〇〇」が執筆された、、くらいの記述で


終わりがちですよね?


確かにその作家が


どういう経歴でどういう人物だったのか?


知っていても損はない?でしょうが


では?


我々は


作家の人生とか伝記的な事実が


はたしていかほど


その作品に影を落としているのか?


と、、言われれば


案外無関係?だったりして


驚くことも多いはず?


たとえば、、


すごい激動の革命時期に


まったく社会性のないような


幻想的な異世界暗黒小説を


革命時代と隔絶して書いていた作家もいますからね。


まあそれはそれで、、


革命へのアンチテーゼをこの作家は突き付けたのだ、、なんて


言えばいえるでしょうけどね?


ところで、、、


私はしばしば思うのですが


ある作家について



その人が


生まれる時代と国を間違っていたのではないか?、、



と、、思うことがあるのですよ。


たとえば、、



エドガーアランポオですね。


彼って1841年に死んでるんですよね?


その時代って日本でいえば江戸時代、


アメリカでは、、もろ、、


西部劇時代?ですよね?


カラミティジェーンとか


ワイアットアープとか


バンバンけん銃ぶっ放していたという


そういう時代でしょ?


その時代に


ポオって、、


まったく似つかわしくないような?


イギリスとかフランスの中世を彷彿とさせるような


こんなゴシックロマンスを書いてたんですよね。


時代錯誤もいいとこでしょ?


まったくミスマッチ?の極致でしょうね?


こうした全く時代に無関係な


ポオの時代背景なんて論じたら?


評論家はどう書かばいいんでしょうかね?


ポオには


西部開拓史なんておそらく野蛮で泥臭くて


まったく関心の範囲外?だったんでしょうからね?


彼の美学にとっては


イギリスゴシックロマンスとか


ドイツ浪漫派の幻想のほうが


よっぽどお気に入り?だったのでしょうから。


作家論というものはしょせん限界があり、


作家の生きた伝記的事実と


その作家が生み出した作品(小説)とは


おのずと、、乖離が歴然として存在する、、


私はいつもそう思っています。


もっと端的にうならば


作家は、、「時代に縛られたりはしないよ」、、。ということでしょう。


まして、、交友関係で作品がどうこうなったなんている論議は


まったく無意味でしょうね。(と、私は思います)


まったく時代と隔絶した作家というものがいるのです。


そしてその人が


おそらく天啓(啓示)を受けて


つまり神とコンタクトして?ひらめき?で


書き上げたような作品というのは


はっきり言って


時代を超えていますね。


その時代に納まりきらないような作品です。


時代を超越した作品というものは


つまりこれこそが古典クラシックだといえるのでしょうが、


そういう作品は


作家自身さえ超えて、


つまり作家は神の操り人形として



何らかの運命で選ばれたその作品を書かされた、、、、?


に、、すぎない?



ということでしょう。


神の手になって、、ただ


自動書記のごとくに


天啓のままに書かされた、、に過ぎない。


そういう作品が、、いわゆる時代を燃えた悠久の古典文学なのでしょうね。


たとえば私にとってそういう作品とは、、


「ガリバー旅行記」であり


「ジムプリチウスの冒険」であり


「神曲」であり


「悪魔の霊液」であり


「モビーディック」であり、、


などなどでしょうか。


特に「ガリバー旅行記」は、、児童向けの無難な?リライトされた


当たり障りのないような、、ダイジェスト版ではなくて


原典そのものを読むことをお勧めします。


(筑摩文学大系にあります)


その毒?に仰天すること請け合いですよ。



まあこういうのこそ


時代をはみ出した?時代を飛び越えた作品というのでしょうね。


さて

本題に戻ります。


以上の推論からして、、


作品論こそが


文芸評論の王道でしょうね。


作品論といっても


その作品の成立過程の研究とかじゃなく、、、


ましてその作品に及ぼした「フリーデリケ体験」?の研究とかでもなくて


そんなどうでもいいことじゃなくて、


その作品が読み手である私に


あなたにどんな精神的火花を散らしたか。


その作品が


あなたの心にどう響いたか。


それしかないでしょうね。


読書とは、、本来そういうものでしょ。


まあ


もっと簡単にいえば


ごく普通の読者にとっては


読書とは、、


面白かったか、、どうか、、



それだけですよね?


その作品の成立過程だの


その作品に影響を与えた、作家の「〇〇体験」とか


そんなのどうでもいいことですよね。


作品そのものを読む。


その作品の作家の背景も知らず、「○○体験」も知らずに、、読む。


いいえ、なんだったら作者名も知らずに読んだって構いませんよね。


重要なのは


「作品それ自体」だけですから。



作品自体をあなたが読み、、そこから何を感じるか。


読書とは本来そういうことだけでしょ?


その結果、、あなたの精神変容が加速されたのか



それとも精神的火花が全く起こらなかったのか、



それだけのことですよね。


ですから


作品論を書くとしたら


今のことを


ごく、、、ごく、、


私的に


超個人的に


精神表白として


書き綴る、、、しか出来ないでしょうね。



結局、


作品論って、そういう、ごく


自分的な、、個人的な


一読者の


表白、、でしか、ありえないと思うのですよ。





客観的な?分析ですって?


公平に?中立系に作品論を書くのスジですって?


でも考えてみてくださいよ。



小説って、、そもそも、、とっても個人的な、、作家自身の魂の表白ですよね?


そんな独特なものを


超個性的なものを



どう客観視できるんですか。


だって公平中立な?小説なんてありますか?



ないでしょ?


小説なんて、、どいつもこいつも、、みんな、、超かたより?の


変わり者?作家が書いたものばかりでしょ?


作品自体が、、もう、、ぐでんぐでんな、、


かたよったものなんですよ。


一たす一が二の数学的正確さもないし、、


H+O=H2Oの化学的正確さもありえないし、


言ってみれば


小説なんて作家のごく個人的な、、

自分勝手な?

モノローグでしょ?



それを


冷静に?


公平に?


分析って?


そんな作品論なんて


嘘っぱちでしょ?



結局、、


小説なんて万人向けの、、モノなんてありえないんですよ。


その作者と、、波長が合った読者だけが


感動すればいい事だけですよ。


たとえは悪いですが


鉄道模型に熱狂する人はすればいいし、


私なんか、、ただでもそんな模型要りませんが


それぞれ個人の性向?性癖?という、、


そんな程度なんですよ。


文豪なんて言われる作家もいますが


だからじゃあその作家が


万人に感動を与えられるか?といえば



ムリです。



たとえば日本では、


夏目漱石が、、文豪ということになっていますが


私は読みたいとも思わないし


以前、偶然、読んでみたこともありますが



まったくつまらなかったです。


なんの精神的火花も起こらなかったし、、


精神変容も皆無でしたね。


まあ私には向いていなかった?のでしょう。



と言うのは、夏目漱石を読んで大感動する人も


この世にはいるわけですからね。


このように


夏目漱石を読んでも無感動だからその読者はバカかというと、


そういう客観的事実はないし



まあ、言ってみれば?



趣味の問題?なんでしょうね?



え?


読書って趣味ですか?



そうです。



鉄オタ、、とか


フィギアオタ、、


みたいに趣味の世界と、同一なんですよ。


私のように


ドイツ浪漫派が神?と思っている人もいれば



太宰治が大好きという人もいれば



まあ世の中いろいろですよ。



それでいいんです


それだからいいんですよ。


たとえばですよ。


日本人みんな全員が夏目漱石が大好きで


それ以外の作家の小説なんか


クズで、、誰も読まないとしたら?


これは精神的世界のファシズム?であり、


こんな均一化?は、ごめんでしょ?


太宰治が好きな人もいれば


芥川龍之介が好きな人もいるし


宮沢賢治、、神?の人もいれば


坂口安吾、、フォーエバーの人もいる、



それでいいんですよね。


まあ簡単にえば


その人その人の


趣味と性向?の問題ですよね?



読書なんてものは。



ですから


作品論を



客観的に?


公平に?


冷静に?


科学的に?


書こうなんて



そもそもからして不可能なんですよ。


ムリなんですよ。



作品論は


所詮



読者の精神内の自己体験として


作品と読者の精神交換?


核融合?


としての


超個人的な体験談として


書かくよりほかにはないという


厳然たる真相でしょうね。



一見?公平に?真面目に?客観的に?書かれたそうなような?


「作品論」が世にはびこっていますが?


そういう手合いは真っ赤な嘘ばかりだということは



私は断言できますね。


なぜなら


さっきからいってるように


作品論を


公平に、、客観的に書くなんて


不可能だからですよ。


もっと簡単に言えば


作品論とは


ほめるか


けなすか


そのどちらかしか書けないからですよ。


これが本音?でしょうね?


で、、


けなすだけの作品論なんてそんなもん


書くような閑人はいませんから



結局


作品論は



熱狂的な賛美の


物しか書けない?



という



これも本音?でしょうかね?



なんかとっても相対的な次元にまで


作品論を引きずり下ろしたみたいで恐縮ですが?



でも?



それが真実なんだからしかたないですよね。



文学とは、、、、


数学や化学のように


誰がやっても


一たす一は二にはならないものですから


そうなるのも致し方ない事実なんですよ。

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