冬の章 第1話
隣の渉くんは、双子の兄たちと全然違うタイプの人だったと、18歳のよつ子は言った。背が高く、白い肌をした渉は、よつ子の初恋の人だった。むつ兄とさんちゃんの同級生であった彼は、双子とも仲がよく、時たま尾崎家に入り込んでたという。それが、私のパパだ。パパが自分で言ったわけでもないが、私は幼いときからそう考えていた。でも私はパパの名前を知らないので、それは空想かもしれないってことは、胆に命じていた。だってむつ兄もさんちゃんも、パパのことを「兄貴」と呼んでいたし、パパの知り合いはパパを「尾崎」と呼ぶから。とにかく、パパが「隣の渉くん」でないと、駄目な理由が私にはある。それは渉くんが、よつ子が人生で最も愛した人だから、娘としては、それがパパであった欲しいと思う。けれども、パパが話す「月の沈む国の物語」の登場人物である隣の渉くんは、パパとは全然違うような人物だった。
「おばさーん!!!」
さんは今日も隣の渉の声で目が覚めた。14年間、毎日である。彼がさんより遅く起きたことなんて1度もない事だ。そして、目の前にいるさんと同じ顔をした、さんより3分前に生まれたという兄も、渉より早くは起きれない。目が覚めてても、起きれないのである。
「なんでだろうな」
「おー、なんでだろうな」
さんは、いつだったか、朝起きて、渉が自分の家で当たり前のように卵焼きなどを食べているのを横目で見つつ兄と呟いたことがある。のちに、自分が低血圧だと気づく。もちろん兄も。
ぎしぎしなる階段を下りたら、玄関で白い息をはきながら、少し取り乱している様子の渉がいた。
「おばさんってば!!!」
「お袋、もーい」
続くはずの言葉は、彼の腕の中ですやすや眠る赤ん坊を見て消えた。
「おま、…え? それ…え?」
確かにそれは、夜までは母親の隣で静かに寝息をたてていた、自分の妹。
「おはよー!! おばさんは?」
「いや、だからいないって。じゃなくて…それ!」
赤ん坊は目を開けて、こちらをじっと見る。
「あー。…あ? これ? お前の妹だろ、顔忘れるなよー」
ぽーいっと、一瞬、投げるかと思ったぐらい、渉の態度は軽い。
「妹だろ、って。なんでよつ子がお前に」
「朝起きたらいたんだよ。布団の中に!! 俺、もー驚いて。なんじゃこりゃー! って」
「泡子さんは?」
「起きたらいなかった」
「じゃ、お袋と一緒に集会かな」
「だからって、よつ子を渉の布団に置いてくか、あのババァ」
俺が抱いてたはずのよつ子を取り上げて、兄が会話に入ってきた。
「よー。このクソガキ、今日もかわいいなぁ」
兄は年の離れた妹に、頬ずりして、頭にちゅっとキスを落とす。
「むつ、猫可愛がりだなぁ」
「そりゃ、よつは可愛いもん」
よつ子も嬉しそうに笑って「あー」と言った。
「集会か。……、朝食食べるか?」
「おー、食べる」
卵焼きを食べながら、むつは新聞を読んでいた。むつは新聞が似合う。眼鏡を外せば、顔つきは二卵性の弟であるさんに似ているが、眼鏡をするだけで印象ががらりと変わる。
「陽の昇る国…か」
彼の言葉にどきっとする。今、どの新聞を読んでも、ラジオをつけても、なんでもかんでも「陽が昇る国」のことばかりだ。
「スパイが来たみたいだな」
渉の言葉に心臓にちくりと、痛みを感じた。そんな彼の気を知ってか知らずか、いや理解さえできないだろうが、よつ子が「ぶー」などと言いながら顔を胸に擦りつけてきた。
「…やっぱり始まると思うか?」
「戦争がか?」
「ないだろーよ」
むつが卵焼きに醤油をかけながら言う。
「だったらいいけどな」
渉が苦笑いして、ラジオをつける。流れていたのはだいぶ昔に流行したという音楽だった。
「あ、誰だっけ、これ」
「古いなぁ…、あれだろ」
「僕は君のために生き」
僕は君のために死ぬ。パパはそこまで言って、灯火を消した。物語が少し深くなってきた。今までは戦争が起こっていたという場景は知っていたが、詳しくは物語で語ってもらえなかったからだ。陽の昇る国と、月の沈む国…。
『ただ ひとつ 僕は願う
今日も君が微笑んでいるように
僕は君のために生き
僕は君のために死ぬ
この空の星を見ながら
君に一生の愛を誓おう
さよなら 僕の 愛しき人
また出会う日まで』
私はママを知りたかった。