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いらぬ考察と根本的問題

俺は自己中だ

作者: 末吉

ふと思った。

 最初に言っておく。俺には深く関わり合いになるような人間も、動物も、機械も、妖怪も、神様も、いない。あるとすればそれは自分と空気と『他人』。これはそんな話だ。

 いや、これはもはや話ですらないな。純粋な自己完結で、純粋な信念の思考だ。

 分かるか?この二つの意味が。

 純粋という言葉は何の穢れもない、そうであると信じ切ってることを言う。それにただ自分ではまとまっているもの、これだけは絶対に曲げたくないという考えがある。つまりは、そういうことだ。

 これをまとめると自己中心的になるのだが……俺はそれを肯定する。むしろそれが真実だと、考えている。

 人は一人じゃ生きられない。それは多くの人間が肯定する。そして、世間一般の不変な真理となっている。

 だがそれは、『社会』という枠組みの中で生きている場合だ。人と人がつながりあって生きていることが当たり前だからこそ、そうなる。

 しかしながらそれは『その人と交友、あるいはそれ以上の関係を持ちたい』という自己の欲望が混ざっているからだと、俺は申し出たい。

 大多数の奴はこれに対し激怒するが、そいつらに対し次に告げる一言は『ならお前はどういう理由でその人とそんな関係を持っている?』だ。ほとんどの奴らがそれで黙る。

 中には『なんとなく!』とためらいなく言い切る猛者もいそうだが、そいつに対しての言葉は『ならその関係を打ち切っても別に構わないだろ?なぜ続けている?』だ。それこそぐぅの音も出ない。

 では続けよう。

 自己の欲望というのも、自己中心的である。そこに否定はない。なぜなら、自分が渇望している物をその欲に任せているのだ。十分自己中心だろう。

 ここまで来ると先に結論を述べた方が早いので先に述べると、

『人間は全員自己中心であるため、自分優先で生きている』だ。

 さて。この結論を元に考えて行こう。

 まず人間は全員自己中心。これこそまさに普遍的事実だろう。異論は認めない。

 なぜなら、そうでもしないと人間という種はとうの昔に他種族に絶滅させられたり、環境の変化に適応できないまま死んだりしているからだ。

 例を挙げるなら狩りでの協力だろう。一般大衆からすれば『当たり前』で済ます文面だが、俺からしたら『あ、こいつら死にたくないから一時的に手を組んでいるんだな』と嘲笑う。

 これでお分かりいただけただろうか。『死にたくない』という自己中心的な目的が一致したために、『協力』していることが。

 無論それは悪いことではない。自分という個体に宿る命だ。大事にしたいと思うのは当然だ。

 だがそれゆえに気付かない。その『大事にしたい』という理由こそが、自分の願いであり自己中心的な考えなのだと。

 他に例を挙げるとするなら思いやりのある子。優しい人。

 これらは単純明快にバッサリといける。『周囲にそう思ってもらいたい』だけだ。そしてそれに優越感を覚えてるだけだ。

 中には『そんなこと関係ない』という人もいるだろう。だが結局のところ自己中心であることには変わりない。

 関係ないということはつまり、周囲にどう思われようとかまわないという事。どう思われようとかまわないということはつまり、自分はそんなもののためにやっていないという事。

 なら何のためにやっているのか?その問いは実に簡単だ。

 自分がやりたいからやっている。それだけのこと。

 自分のそのステータスであるものを見せつけたい、あるいは誇示したい、あるいは維持したいという最も自分に忠実な理由である。

 ちなみに俺は人と話したいという欲求がないから学校に通っていても空気で、一足先に帰りたいからという事で平然とした顔のまま一人でエレベーターを使い、生きたいからコンビニやスーパーで食料を買ってくる。そんな人間だ。無視されようが、後ろ指さされようが、目の前で悪口を言われようが、それがそいつの何らかの理由に起因しているのだからスルーする。

 …話を戻そう。

 これで諸君らも分かっただろう。いかに自分たち人間が自己中心的であるかを。

 次は自分優先で生きているだが……そんなもの当たり前だ。自分という個体に宿る命を生かすために優先して何が悪い。というより、お前らもすでにやっている。こちらも否定は認めない。

 もし否定するのであれば……今この時からずっと口を開かず目を閉じて宙を浮いてただ岩のように生活しろ。もしくはすぐに往ね。

 ……失礼。言葉が過ぎた。が、それ位の事をしない限り最終的に優先するのは自分に関することだ。

 恋人を、友人を守るために死ぬなんて大層なことをほざく奴もいるが、正確に言うなら『恋人や友人などを守って死ねば自分は名誉ある死になる』という、死んだ後に語り継がれるであろうとまで計算して言っていることに自分自身気付いていないのだろうか?

 死にたくないから自分優先で生きている。が、時として人は死そのものを『何らかの感動的原因で死んだ』ことにし、後世の子々孫々まで語り継がせて『先祖カッコイイー』という感情を抱かせるために行うこともある。

 俺だったら死にたくないから他人を見殺しにしても平然とできる自信があるし、殺さなければ生きていけないのなら喜んで殺す。

 人間なんてそんなものだ。いくら感情や思考や偽善や嘘で自分を塗り固めたところで、『死にたくないから。自分がこうしたいから』という根柢の気持ちはなくならない。絶対に。

 仮になくなったとすると、当たり前のように人類は絶滅する。そりゃ当然だ。死にたくないという気持ちがないのだから勝手にバタバタと死んでいくし、自分でしたいことがないからボーっとしてこれまたばたばたと死んでいく。

 それを防ぐための自己中心なのだと今気づいたため、最終結論を少し変えさせていただこう。

 これまでの論拠による最終結論は、

『自分を生かすために自分の感情を優先している』である。





















 という考えを俺は、授業中でありながら普通にして満足していた。

「おい楠木。この問いに答えろ」

「y=5」

「……正解だ」

 俺は教師の急な指名にも動揺せず答えを言う。だが、内心イラついていた。

 一息ついたところで邪魔をするなと。

 だが、先程自分で考えていたのを照らし合わせれば、『この教師は自分の職務を全うしたい』と「授業に集中してない奴に恥を掻かせる」という理由だろう。

 そう考えると自然に心が落ち着く。やはり自分の考えがあっていたと思わず顔がほころぶ。

 現実でも検証終了したので俺は、ノートに書いていた『今日の議題:自己中心について』の一番上の項目『人間は自己中心でないのか』に線を引いた。

 さすがにこれ一つ考えるのに授業を三つ使うと思わなかったが、別にいいだろう。自己の中で答えが出たのだから。

 さて残りは……っと。確認する前にチャイムが鳴ってしまった。

 が、関係ない。普通に確認する。

 次は……『自己中のタイプとは?』か。さっさと始めよう。

 こうして俺は周りを無視して考え始めた。

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