進行する死
彼の異変に、最初に気づいたのは侍女頭だった。
傍目には何一つ変化は無い、気づいたところでよい変化と笑う、そんなものだった。
毎朝、彼女は主であるその青年を起こす。寝起きはよい方なのだが、決まった時間に目を覚ますというのが、どうも彼は昔から苦手らしい。これでよくお忍びの旅ができたと思う。
……いや、と侍女頭は思う。
それはきっと、あの少女がいたからなのだろう。
彼の前で、魔族のふりをしていた、あの少女が起こしていたのだろうと、思う。
魔力を持たない人間を、魔族に偽装する手段はいくつかある。
手っ取り早いのは、少々値の張る薬を手に入れて、定期的に摂取することだ。魔族に見られようと思うなら、それなりの投資が必要になる。旅をしていた彼女に、それは無理だろう。
後は魔族が長く身につけた装身具を、その身につけることか。
そういえば、よくアクセサリーの店や骨董品店に行っていたらしいと聞いた。そこで、そういうものを見繕っては、身に着けていたのだろうと思う。魔力の有無は、意識して読もうと思わなければ普段はわからないものだ。一度感じさせておけば、それでごまかせたのだろう。
しかし、そういうアイテムは、薬以上に値が張る。
そうまでして一緒にいたかった彼女は、ならばなぜ嘘を明かしたのだろうか。
アクセサリーを身につけるのは、貴族のたしなみだ。古いものを好む者も多く、そう目立つことは無いと思われる。ならば、そういうことを庶民ゆえ、知らなかったのだろうか。
青年は、そう判断したようだったが。
侍女頭は、違った。
彼女は自身の出自を偽りこそしたが、その思いに嘘は着せられなかったのだろう。
本気で好きになったから、彼女は嘘をやめたのだ。その先にあるのが、拒絶と憎悪と、別れだとわかっていて。青年が持ちかけた取引も、ただ少しでも何かしたいと思ったのだろう。
そして彼女は、今度は心に嘘を吐いた。
好き、という感情に、まるで罰を与えるように蓋をしたのだ。
――死ぬその直前まで、ずっと。
■ □ ■
いつか、侍女頭はそれを見た。
衣装室に出来上がったドレスが運ばれた日、あの少女はそこにいた。心底、息を呑むほど嬉しそうに、彼女はドレスを見ていた。それに袖を通すことなど、ないというのに。
普段はそんな表情、微塵も出さなかった。
まるで感情も何も無いかのように、表情がぴくりとも動かない。
だから侍女頭は最初、この少女のどこに主は惹かれたのか、わからなくて。それ以上に、疎まれているのを知っていてなお、ここに留まり続ける真意がまるで理解できなくて。
彼の言うとおりの悪女なのかもしれないと、そう思っていたのだが。
しかし、気づくのも知るのも遅すぎた。
青年は近いうちに彼女を『処分』するという。
そのための毒を、侍女頭は手に入れるよう頼まれていた。相手の薬師は何か言いたそうにしていたのだが、彼女の主が人間嫌いなのに人間と一緒にいるところから、何となく事情を察してくれたのかもしれない。明日にも、それをとりに行こうと思っていたところだった。
――知らなければよかった。
あんな表情で笑う少女だったなどと、知らなければよかったのに。
侍女頭は、彼女の『夢』を壊さないように、そっとその場を後にする。そして、今更あの姿を見せた神か何かを、心から罵った。悪女なら心が痛まないのかといえば嘘になるが、あんな顔をする少女に死を届けるのかと思うと、自分がひどく薄汚れたように思えた。
だが、自分がやらなければ、彼女の名誉は傷つくかもしれない。
以前言ってしまった。
彼女の不義密通をでっち上げて、その手で切ればいいと。青年は薬が駄目なら、次はそれを実行するかもしれない。彼女はきっと彼だけを思っているのに、それはあまりに残酷だ。
そんな風に、心すらも砕かれるよりは。
病か何かで死んだことにする方が、よいのではないか。
侍女頭は自分にそう言い聞かせ、来る時を待つ。薬は一人ぶん届けられて、侍女頭はそれをそっと少女の『朝食』として差し出した。せめて安らかな眠りを、そう願いながら。
そして彼女は――。
■ □ ■
少し前のことを思い出しながら、侍女頭はその部屋の前に立った。
軽くノックして中に入れば、青年はぼんやりとベッドに腰掛けていた。
「あぁ、おはよう」
今起きたというかのようにつぶやかれた声は、まるで湿気たクッキーだ。彼が最近、ほとんど眠っていないのを、気づかれていないとでも思っているのだろうか。
あまり強く言うと隠されてしまうから、侍女頭はずっと何も言わず黙っていた。
仕事に差し障りもない。寝不足であるにもかかわらず、彼は日々の仕事を以前と変わらず完璧にこなしていた。顔色があまりよくないが、令嬢とのことが破談になったと思えば普通だ。
あの令嬢相手ならば、どこの誰でも顔色の一つや二つ悪くなる。
幸いにも特にお咎めはなかったものの、やはり気分は沈みこむだろう。
「朝食はどうします?」
「……いや、今日は欲しくない。仕事に行く」
今日も欲しくないの間違いだろうと、侍女頭は思ったが、静かに頭をたれた。
何を言っても無駄なのだ。さらに隠されてしまうだけ。ならば現状維持が望ましい。昼食と夕食は残すとはいえとってくれるし、今のところ体調も悪化していないようだ。
ただ、朝食をとらず、眠れないだけだ。
よろり、と不安定な動きで立ち上がった青年は、そのまま侍女頭を押しのけるようにして部屋の外へと向かう。すでに着替えは済んでいて、これから仕事をするのだろうと思われたが。
「今日は、お休みになった方が」
あまりの様子に、侍女頭は思わずそんなことを言った。
沈黙が流れ、彼女はすっかり大きくなったと思っていた、痩せた背中を見る。朝食を抜き、それ以外の食事も残していたら、誰だってやせ細るに決まっていた。
そろそろ、何と無しなければならないと、侍女頭は改めて覚悟を決める。
「何も考えたくないんだ」
だが、彼女の言葉に返されたのは、繋がらないそんな一言だった。
「睡魔があれば、そっちに意識が持っていかれる。それでは仕事にならないから、意識がまたそっちに流れていく。空腹だったら、夜も意識が行きたくない場所に行かなくてすむんだ」
「それは」
「考えなくてすむ。何も考えなくてすむなら、何だってする」
「……駄目ですわそれは、身体が壊れます」
壊れるどころか、命すら危うい。今はまだ何とかなるが、いずれ仕事すらまともにこなせなくなる日が遠くない未来にやってくる。それどころか、起き上がることすら……。
「じゃあ、また薬を頼んでよ」
震えた声で青年が言う。
それは、遠い昔の幼い彼を思い出させた。
「一つのことを忘れたい、考えたくないから、忘れてしまいたい。それが無理なら、もう止めないでほしい。その先にあるのが死なら、それはそれで悪くないと思うよ」
だって、死ねば何も考えずにすむからと。
首をかしげるように身体をひねり、振り返った彼は笑顔だった。
侍女頭が息を呑み、去っていくのを見送ることしかできないほどに――それは壊れていた。