失われたのは大切なもの
かの令嬢が屋敷に滞在して半年ほど。いい加減、せめて婚約まで話を進めるべきだと、娘をこちらに嫁がせられなかった親類が、まるで同じ文を読むかのように口調まで似せて告げる。
それに、彼はいい加減うんざりだった。
周囲から来る急かす声に、青年は渋々と言った様子で了承の返事をした。
これ以上は面倒だと適当に指輪も用意し、ドレスの準備も始めた。指輪は彼女と一緒に店に出向いて、彼女が気に入ったものを購入してすぐに渡し、ドレスも店でそこそこ注文をつけつつもすでに完成していたデザインのものを、彼女のサイズに合わせて仕立てることに。
あの少女とは、まるで違う対応に、侍女頭もため息をこぼす。
だが、親類が喚く以上、早くしなければならない。むしろ半年も傍に置いて、何の準備もしていなかったことが、我がこととはいえ信じがたいことであったが。
「うれしいです、ありがとうございます」
かなりおざなりに整えられていく結婚の準備に、彼女は笑顔で礼を言う。ちくり、とした痛みを胸に感じて、ごまかすように水差しからコップに水を注いだ。
一気に飲み干せば、その冷たさが意識を引き戻す。
「あ、でもあのドレスはどうなさるのですか?」
「あの……とは?」
「衣裳部屋の……その、前の方の、ドレスです」
申し訳なさそうに告げられた内容に、青年は思わず水差しを落とすところだった。とっくに処分したつもりでいたのに、あれはまだ残っていたらしい。指示を忘れていたのだろうか。
「……そう、ですね。そのうち処分しますよ。オーダーなので、誰も着れませんし」
彼女のためのドレスだった。
使うことなど無いのに、わかっていたのに。
彼女のためだけに仕立てた。
そういう細かい『ごまかし』を、今こそ、この令嬢にこそ使うべきなのに。何もかもが裏目と後手になってしまい、どうやって挽回や更なるごまかしをするべきか、青年は考えた。
何せ相手は王の義妹――下手な手は打てない。
「お相手の方は人間だったとお聞きしましたけど、どういう出会いだったのですか?」
「少し旅をしたことがあって、そこで出会ったんですよ」
旅の中、不本意ながら人間の領域に立ち入らねばならないこともあった。そこで、人間への嫌悪などが態度に出ていたらしく、ガラの悪い連中に絡まれたのだ。
底に通りかかって、巡回の自警団を呼んだのが彼女。
『腹の底はちゃんと隠さないと、死ぬわよ』
そういって、泥や血で汚れた彼の顔を、彼女は濡れた布で丁寧に拭ってくれた。その時、彼女は弟を見るような、昔、侍女頭に向けられていたような目で、確かに彼を見ていたのだが。
「……」
思い出せない、と心の中でつぶやく。
仕方ないわねと笑い、傍にいてくれたはずのその表情を、思い出せない。それどころか、その光景そのものが思い出せない。真っ白だ。記録したはずなのに、何も無かった。
そんなわけが、と真っ白に染まった記憶を掘り返していく。
その間、令嬢が何度か声をかけてくるが、彼はそれどころではなかった。
やっとたどり着いたのは、白くはないものの色あせた、寂しげな後ろ姿だ。
あれは確か、ここにつれてきて間もない彼女だったと思う。彼女曰く『無駄に重い』衣装に慣れず、少し動くだけでも疲れるためかため息をよくこぼしていたと聞いている。
それでも文句一つ言わずに、傍にいる彼女の姿に――さすがに、心は揺れた。けれど彼は何も言えずに背を向け続けて、気になって振り返ればそこにはもう何も残されていなかった。
あの時の判断は正しかったと、彼の心は言う。
だけど本当は。
本当のところを言ってしまえれば。
「……許したかった」
もういいよ、という言葉を、彼女に、告げたかったのだ。
けれど、また嘘を吐かれているのではないか。
取り入ろうとしているだけではないか。
そう思うと、どうしてもそのたった一言を口にすることができずにいて。
疑念はいつしか確信に変わり、決して彼女を許すなという思いのままに動き。本当はやっぱり本当の意味での『許し』を告げたかったのだと、今になって言葉が零れ落ちて。
許して、謝罪して、しあって、そして……できれば、なんて。
そんなことを考えたことも、それ以外も、何も思い出させないでくれ。
許したくても、何を言おうにも。
言うべき相手がどこにもいないということを、思い出させないでくれ。
思い出せば、止まらなくなる。どこまでも転がり落ちていく。何もかも、無かったことや忘れたことにしてきたのに、全部が表に引っ張り出される。目の前に並び、現実を教える。
思い出した。
彼女の死に顔を。穏やかで眠っているようで、御伽噺の王子よろしくキスでもすれば、目を覚ますようにさえ思えて。けれどそんなことはありえないのだ。ありえない、ことだ。
思い出した。
中庭に佇むその姿を。彼女は花を見て微笑んでいた。なぜか、周りに誰もいない時に。誰か一人でもいれば彼女は決して、その表情を変えなかったような気がする。
それが、なぜか『悲しかった』。
旅をしていた時は、指輪を渡した時は、あんなに嬉しそうに笑っていたのに。
そして、また思い出した。
笑わないのは、もう愛されていないからだ。彼女は『責任』を取るためにここにいて、だから笑顔を見せる必要なんて無いと思ったから笑わないと、そう思ってまた『悲しかった』。
そもそも、愛されているはずが無い。そんなわけが無いのだと、すぐに気づいた。
思い出した。
彼女が死んだとわかって、しばらくして。
声を聞いた。ほかならぬ自分の声だ。やっとわずらわしいものが消えたなと、その声は笑って彼の心を揺さぶった。ずっと彼の心を占めていたものは、死んでしまったのだと笑った。
だからもういいんだと、次は優しく語り掛ける。
忘れていいと、声は言った。
その方が楽だろうと。
楽だった。びっくりするほど楽だった。思い出すたびに否定すればいい。そんなものは無かったと切り捨てていけばいい。たったそれだけで、思い出す頻度はグっと下がっていって。
「……もう、思い出せない」
旅をしていた頃のこと。彼女がどんな声で、どんな風に笑ったのか。死に顔すら、見たという記憶は残っていても、その光景は真っ白になったまま。何も思い出せない、消えていた。
まるで、本当に最初からいなかったように、消えていた。
それを『悲しい』と思う心があるのに、いざ数少ない記憶を掘れば苦しくて仕方ない。
強制的に身体がこわばって。
ぐしゃり、と何かが手のひらの中でつぶれる。
刺すような痛みの中で、彼の意識は歪な覚醒を得た。
「あ……あ、の」
手が、と令嬢がか細い声でいうから、青年はそっと自分の手を見た。握っていたガラスのコップが砕けて、手のひらに破片が突き刺さり、どうやら血が溢れているようなのだが。
――どうでもいい。
それより、この痛みの何と甘美なことか。
一瞬で頭の中が、鮮やかな痛みの色に塗り変わる。
「出て行ってくれませんか……」
低い声で、彼女に告げる。
彼女はよろりと立ち上がって、そのまま部屋を飛び出していった。どうやら泣いているようだったけれども、今はどうでもいい存在だ。それよりも、早く何とかしなければいけない。
思い出してしまったことを、忘れたかったものを。
ここに至って気づいてしまったすべてを。
忘れないと。
失ったことを忘れないと。死なせたことを忘れないと。
彼女を、誰より愛していたことさえも、忘れてしまわないと。でないと、全身が引き裂かれるような痛みに襲われてしまう。直視などしたくも無い、早く無かったことにしなければ。
愛する人を自ら死なせた――そんな事実に、気づかないふりができるうちに。