パズルのピースが見つからない
今日も、屋敷の中は平穏だ。
不必要な仕事を増やしていた少女もおらず、今は別の、誰もが褒め称える令嬢が花嫁候補として滞在中。若い侍女の多くが彼女の世話をやりたがって、些細な戦いになっている程度だ。
少女の時とは、まるで違った争いである。
あちらは押し付け合いで、こちらは奪い合い。
同じ主の花嫁候補――事実上の花嫁といってもいい存在だが、その主の態度一つでこうも変わるというのは、旗から見ているとなかなか面白いように彼には思えた。
もっとも、目の前で侍女のいさかいを見せられる令嬢は、溜まったものではない。
今もしょんぼりした顔をしているが、誰もそれに気づかないようだ。
仕方がない、と青年が立ち上がろうとすると、その前に侍女頭が割ってはいる。腰に手を当てるという『お怒り』のポーズで、クドクドガミガミ、侍女を叱っているようだった。
あれに近寄ると、巻き添えを食うだろう。
なぜ仕事をしていないのですか、などという声が聞こえるようだ。
「行かない方が懸命、かな」
執務用の部屋のソファに移動して、そこに身を預ける。さすがにずっと集中していると、いろいろと感覚も麻痺するし、身体や精神も疲れた。甘いものが欲しいが、昼食前だ。
ふぅ、と息を吐き出して目を閉じる。
少し仮眠を取るのも、いいかもしれない。
特に疲れているわけではないが、彼は少し目を閉じた。
ここ最近の、何ともいえない喪失感は耐え難い。思わず執務内容に、何か穴でもあるのかと何度も見返すほどに。特にこうして一人でいる時や、寝る前などが一番キツかった。
何かを考えているうちには、忘れていられるから楽なのだが。
かといって仕事ばかりし続ける、というのは無理で。
「どうにかしないと、さすがに気が滅入るな」
ため息混じりに、彼はつぶやいた。
■ □ ■
彼女はその日、聞いてしまった。
自分の伴侶となる人の、自分ではない誰かへの愛を。
それは、きっと以前彼の傍にいたという、人間の少女の名前なのだろう。尋ねても誰一人として教えてくれないが、屋敷で働く人々にその音を持つ名の人はいなかったから。
彼の過去は、ある程度――義兄が、勝手に調べてくれた。
尋ねてもいないのにいろいろ教えられたが、そこにその少女のこともはいっていた。
自分と年齢もそう変わらない、人間の旅人だった少女。孤児で、旅の中で二人は出会って恋人となって、屋敷に連れ帰るも彼女は病で死んだ。表向きそうなっていると、聞いている。
『表向き、なのですか?』
『あぁ。実際は違う。彼女は死んだ。毒を飲んだという話だ。自殺……でもないな。飲むように命令したのはあの男だから。どうも、復讐だったらしい、一年使って始末ってやつだな』
やれやれ、と言いたそうな義兄に、彼女は何もいえなかった。
どうして明日その人物の元にいくのに、そんなことを教えてきたのかも。その、怒るでもない曖昧な態度の理由を尋ねることも。何も出来ないまま、馬車に揺られてここにきたのだ。
出逢った彼は、普通の人だった。
どこにでもいる貴族令息。ただすでに一族を纏めているからか、知っている令息よりずいぶん大人のように思える。その表情はどこか幼くて、義兄の話はすぐに忘れていった。
でも。
「……あの人は、まだ愛しているのかしら」
ぽつり、と誰もいない部屋に落とされる問いかけ。
人間の少女は嘘を吐いて彼に近づき、だけど嘘を明かして――それで、どうしてここにいたのだろう。思い出した義兄の話だと、そういう『取引』だったということだ。
当時、モテていたという彼の女よけとして働き、許されるためにがんばっていたと。
だけど彼は許さなかった。許さず、毒を与えて『始末』した。
義兄はどこでその話を聞いたのだろう。そんな話、とても外に出すようには思えない。密偵のようなものを放っている、と考えるのが自然だろうか。そこまで考え、彼女は。
「そこまでするほど嫌ったのに……どうして?」
あの日聞いてしまった『愛の言葉』へと、思考を写していった。
そんなに嫌いなのに、どうしてあんなことを言っていたのだろう。とても切ない声で、自分に対する言葉ではないとわかっていても、彼に惹かれる心を止められなかった。
だから、彼女は意を決して侍女頭に問う。
人間の少女の話を、彼女がどういう人物で……どういう最後だったのか。
『私には知る権利があります、あるはずです』
お願いします、と頭を下げた結果、得たのは身体から力が抜けるような話だった。都合のいい時だけ外に連れ出される生活。最後に与えられた毒と、身に着けていた安物の指輪。
その指輪は、彼がプロポーズに使ったものなのだという。
それを受け取る前に、少女は嘘を告白したそうだ。
『きっと、最後はよい思い出に浸りたかったのでしょう。彼女にとって、その指輪は値段以上の価値があって、だからこそ嘘を明かし、罰を受け、毒を飲み干したのでしょう』
最後、そんなことを言って、侍女頭はどこかに去っていった。
残された令嬢は、部屋でぼんやりと、自分なりに知ったことについて考える。
ずっと、気になっていた。
彼との間にある、薄い膜のようなものが。
時折、彼が『誰か』を探す素振りを見せているのが、その直後、どこか悲しげに無表情になって目を伏せるのが。あれはきっと、その『少女』を探しているのだろう。
いなくなった彼女をずっと、彼は探しているのだ。
「もう、いない人、なのに」
彼は彼女を見てはいなかったのだ。
――彼女を、欲しているわけではなかった。
本当に欲しいものはもうないから、代わりになるモノを手に入れて愛でるだけ。身代わりですらないことが、悲しく、ぱたりと涙が一つ落ちる。ぱたぱた、と追いかけるように落ちる。
彼女を忘れさせてやると、思えないことが悔しかった。
自分には、彼女のような状況で、同じことができるとは思えなかったから。それでも、今の彼は自分のものだと、心の中で誰かが叫んでいる。このまま行くと彼は自分の夫になるのだから、死んだ人間などしゃしゃり出てくるなと、自分と同じ声で誰かが叫び喚いている。
ぱちん、と何かがはまる音がする。
そう……自分こそが、彼の妻になるのだから。
誰も望んでいない存在は、早く消してしまおう。それが自分のためで、何より彼のためになるに違いない。そのためにはまずあのドレスを、どうにかして処分しなければ。
だがその前にまずは、今より前に進まなければ。
彼女は机に移動すると、レターセットを引っ張り出して手紙をしたためた。
あて先は義兄。彼のことが気に入ったので結婚したいこと、彼がいろいろ考えすぎて二の足を踏んでいるらしいことを書き、最後にこの話を持って来てくれたことへの感謝を記し。
「自由にして差し上げます……私が、必ず」
決意を呪文のようにつぶやいて、手紙に封をした。