招かれたもの
苦しかった。
二色の、目に痛い彩が頭の中にあった。認識するだけで苦しく、耐え難く。だから、一つの答えにすがりついた。誰かが頭の中で囁くまま、楽な場所を求めてもがき、叫んで。
そうさ、苦しいなら原因をなくせばいい。
消してしまえばいい。
思い出すのも嫌ならば、まずは思い出させるものを消せばいい。どうして思い出すと嫌だと思うのかなんて、どうでもいいのさ。原因が無くなれば、理由なんて関係ないのだから。
囁かれるままに振舞った。次第に思い出させるものは消えていった。それでも、ふとした瞬間に現れるから、どうにかして永遠に消す方法を考えた。二度と見たくないと思った。
だって、だって苦しいから。
口から体内を切り裂くようにして、鋭利な刃物が飛び出しそうだから。そうまでして引っ張り出した言葉が、もし何の意味も持たなかったなら。怖かった。もう何もかもが怖かった。
楽な方へ逃げる。
転がるように逃げていく。
気づけば、あれほど拒絶したものは消えていた。
喉の奥に眠る刃も、消えていた。喉から零れ落ちていき、腹の少し上の辺りで、引っかかるようにしてその感覚がある。けれどそれも、時を重ねるうちに、解けるように消えていく。
もう、何かを思い出すことはない。
庭の片隅に、屋敷の廊下に、旅の風景に。まるで在って当然というかのように佇む影は、もう彼の傍に存在しない。二度と目の届かない場所に葬った、これで楽になれる。
思い出さないのではなく、思い出せないのだと、彼は気づかない。
気づかないまま、季節が一つ巡った。
■ □ ■
朝から屋敷の中が慌しい。
というのも、ついに一人に絞られた縁談相手が、しばらくこの屋敷に滞在するからだ。お相手は件の、王の義妹となった令嬢。彼女はすでに屋敷に到着し、応接室にいるという。
令嬢は写真の通りの、実に可憐な少女だった。
誰もがその寵愛と心を求め、足元にひれ伏すだろう。
もっとも、消去法で彼女を選んだ青年からすると、どうでもいいところではある。むしろこれ以外まともな候補がいないことが嘆かわしい。おかげで余計な縁ができてしまった。
まぁ、仕方がないと青年は思う。
他にないなら、妥協するしかないのだ。
「はじめまして」
挨拶に行くと、そういって彼女は優雅に礼をする。絵に描いたような令嬢は、花のような微笑を青年に向けた。誰がどう見ても理想的な、貴族令嬢で、夫人を名乗るにふさわしい。
ほぅ、と感慨深げに侍女頭が息を吐く。
彼女は祖父母の代から両親、そして彼女と夫にいたるまで、ずっと青年の屋敷に仕えている生粋の従者家系だ。夫は料理人で、今ごろキッチンで夕食の仕込み中だろうか。
青年にとって彼らは、遠くにいる親戚よりも『家族』で、ある意味両親より怒らせると恐ろしい存在でもあった。好き嫌いがなくなったのも、彼らの教育の賜物だろう。
早くに母を失った彼にとって、侍女頭は第二の母。
……といったら彼女に怒られるので、姉ということになっている。
いつかの少女に、ことさら冷たく当たったのも、家族を害された思いがあったのだろう。
もっとも、そう仕向けたのは彼の態度だったのだが。
「このたびはお招き、ありがとうございます」
「挨拶などかまいませんよ。……お茶を」
「かしこまりました」
いつまでも立っていた令嬢を座らせ、その向かい側に青年も腰を下ろす。令嬢は宝石のようにきらめく瞳を、笑みの形に細めて彼をじっと見ていた。……純粋すぎて落ち着かない。
きっと、これまで箱入りだったのだろう、と思う。
相手にすべてゆだねるような、妖艶さよりもグっとくるような目をしていた。きっと夫となる殿方の意思のままに、などといわれて育ったのだ。しかし、そこに相手に媚びるような色が無いのが不思議で仕方がない。どう育てたら、こうも透明になるのだろうか。
思えばあの少女は、最初から最期まで規格外だった。
実は貴族だと言えば冗談でしょと笑い、取引の後に屋敷につれてくればぽかんと見上げ。少しでもそれらしくなるよう渡したドレスより、侍女が着ている質素な服を要求し。
あまりにうるさいので、普段使いのものは庶民が着る、質素なものにしたが。
それでも何かある時に身につけさせると、どこか嬉しそうにして。何だかんだ言いつつ結局はそうなのかと、所詮は嘘吐きだなと、ひどく冷めた思いをさせられたことを思い出す。
それから、侍女に彼女が触れたものを、あとで必ず確かめるよう言いつけた。一応それなりの調度品が多く、売ればそこそこの財になる。それらを盗まれないために。
もちろん、同じことを目の前の令嬢相手にするつもりはない。
そういう選択肢さえないだろうし、するほど生活に困っているわけでもない。まぁ、酒の席の冗談でも、口にすれば最悪首が飛びかねない相手、というのも無いことはないのだが。
かちゃ、と二人の前に紅茶が置かれた。
使われている茶器は、どうやら少し前に新調したもの。食器などに関しては侍女頭夫妻に任せっぱなしで、どうやら相当気合を入れてこの縁談を纏めようとしているらしい。
無理もない。
もしここまできて逃せば、末代まで笑われる令嬢が相手だ。ましてや向こうもかなり乗り気のようだから、確実にモノにしなければいけない。それはわかっているのだが。
「あの、お疲れなのですか?」
「え?」
「お顔の色が、あまり優れないように見えるので」
「ありがとうございます。……ですが、大丈夫ですよ。ここ最近、いろいろあって確かに疲れてはいるのですが、あなたの笑顔を見ているとずいぶんと楽になった心地がします」
「まぁ……」
ぽぽぽ、と頬を赤く染める令嬢は、とても可憐だった。
その初々しい姿に好感を覚えつつも、青年の心の内側はあせりに満ちる。体調が悪くともそれを隠すのは、昔からよくやっていたことだった。今回も、うまく隠せたと思ったのだが。
まさか、こんな世間を知らぬ令嬢に、簡単に見破られてしまうなんて。
そんなに顔色が悪かったのか。だが側近も誰も、そんなことは言わなかった。彼らなら気づけばそれとなく、軽く冗談を言うかのように指摘してくれるはずだから。
「疲れた時は、ちゃんと休んでくださいね」
そういって微笑む姿に、ふと癒されるような感覚がある。
妥協で選んだその少女ならば、何もかも、跡形もなく忘れさせてくれるだろうか。今も頭の中で存在を主張し、消えようとしないあの面影を。無かったことに、してくれるだろうか。