侍女頭と側近の賭け
変わらない日常、元通りになった日々。
彼女の中に、それでも安らぎが戻ることは無かった。以前ほどのものはなくとも、弟のように大事にしてきた主は、相変わらずちゃんと笑うことができないままでいる。
かつて失った理想から、離れることができずにいる。
休憩と称し、彼が向かうのは衣裳部屋だった。
鍵をかけて『二人っきり』になり、彼女の幻想を見るだけの時間。
「あのままだと、いずれまた壊れるかもな」
主の側近が、残された仕事を片付けつつ呟く。
彼女はそこにお茶を出しつつ、同意の息を小さく吐いた。一度あれば二度目もあり、二度目があれば三度目以降もある。これから何度、二人の主である青年は、心を砕いていくのか。
けれどそれを止めたところで、何の意味もないこともわかっていた。緩やかな崩壊か、何もかもを破壊しつくす一撃か。彼に相対し、提示されるカードはその二つしかないのだ。
かの令嬢は、破壊を選んだ。
本人はそうでもなかったのだろうが、実際、彼は破壊された。
思えば、あの令嬢は運が悪かったように思う。余りにも純粋すぎて、そして、彼の中に眠ったままの少女の存在が、この世界の誰も予想もしないほど大きく。
成り代わることさえもできないほど、だったのだから。
「個人的には、あの令嬢には期待していたんだが」
緩やかに壊れていくなら、いっそすべてを破壊し、そこから立ち上がればいい。一か八かの賭けに側近は期待していたし、侍女頭もその方向性に期待をしていた。
結果は――彼らの負けだったのだが。
それでも二人は、少なくとも側近は二度目の賭けをもくろんでいる。彼の中では、主を変貌させた少女こそが悪で、病巣で、取り除かなければいけないと思っているのかもしれない。
「次はもっと、こう……無鉄砲じゃない、それなりの年齢の女がいいな」
「そうでしょうか」
「あぁ。基本的には数歩下がっておとなしいが自己主張もそれなりにする、つまりお飾りの人形じゃない女がいい。何より、あいつのことを誰より想える、そんな女がいい……」
そんな女だったなら、主はきっと、失ったものも忘れられる。
青年の手を取って、一緒に乗り越えていってくれる。
侍女頭は、そんな変わった娘など一人しか思いつかなかったが、あえて黙った。そんな子の状況にぴったりな娘など、この状況を生み出した張本人であるあの少女しかいないだろう。
しかし侍女頭は、見つかるといいですね、と小さく言うだけに留めた。
かの少女が生きていることを、この場で知っているのは自分だけ。
このまま秘していればいい。
頃合を見て彼女を別の場所に預けて、その先で結婚させれば――それで終わる。
その頃にはきっと主も、別の誰かを傍に置けるようになっているはずだ。
彼女は人間で、彼は魔族で。彼は元々は人間嫌いで、彼女を愛したことでそれが変わったというわけではない。多少は認識を改めたのかもしれないが、好きと言えるほどではない。
きっと、彼女だから好きになったのだ。人間だとかはどうでもいい。
しかしそれは、かつての彼と同じく人間を嫌う親類や周囲には、どううつるのだろう。だろうなどという言葉を、あえて使うまでも無い。何通りもの末路が目に浮かぶようだ。
本当は、このまま――離れた方がいいことを、わかっているのに。
それがあの二人のためになるのだと、知っているのに。
「会いたい、ですか?」
そんな言葉が、出てしまう。
彼女を思いながらその身を削る『弟』の前に、ただの『姉』は余りにも無力だった。