眠り姫のキスをあげる
すぅすぅ、と寝息を立てるその人を、わたしはぎゅっと抱きしめる。ずいぶんと細くなってしまっているけど、普通にもどれはきっとすぐに元通りだ。大丈夫、わたしが保証する。
でも、その頃にはわたしはもう、死者に戻らなきゃいけないな。
あと少ししか、こうして一緒にはいられない。
「……落ち着きましたか?」
「はい」
静かに部屋に入ったのは、ここにいた頃、わたしの世話をしてくれた人だ。わたしに薬を届けてくれた人で、彼がこうなっていることを教えてくれた人で。
何より、わたしを死んだことにして、知り合いの薬師様のところに預けた人。
理由はわからなかった。
彼のところから逃げ出した気がして、本当は死にたいとさえ思った。
でも、今は、生きててよかったと思っている。
生きていたからこうしてまた会えたし、彼を救う手助けにもなったはずだ。
あの薬は数日間眠り続けるという。わたしがずっと身を寄せていた薬師様が作った、かつてわたしが飲んだ『毒』だ。実際に毒は作ったらしいけれど、土壇場で摩り替えたらしい。
誰が、というとあの侍女――侍女頭だ。
理由はまだ尋ねていない。
彼がこうなった、例の薬を持って来てほしい、という手紙が届くまで、わたしは彼女と文字ですら話すらしていなかったから。今もまだ、何も聞かされていないという有様だったり。
でも今は、まだ何も訊きたくはないと少しだけ思う。もうちょっとだけ、眠った彼の少し子供っぽい寝顔を見ていたい。ずっと昔から、この寝顔はかわいいと、思っていたんだ。
しばらく寝顔を見ていたけれど、ずっとこのままではいけない。
わたしは彼から離れ、侍女頭と向かい合う。
「あの、どうしてわたしを助けたんですか?」
彼が忘れたかったのは、わたしのこと。
そんなに、嫌われていたのは知らなかった。
しかしまぁ、嘘吐きを好きというヒトをわたしは知らない。当然のことだ。噂ではものすごい義兄を持っている令嬢を泣かせ、縁談が無かったことになったらしい。
どうやら令嬢がわたしのことを彼に話して、それで彼が何かやらかしたんだとか。令嬢が相手の、彼の心情を無視した発言をしたから仕方が無い、と特にお咎めはなかったらしいけど。
きっとそのことで、いろいろあったんだろう。
そんな状態の彼にどうして、そうなった元凶とも言うべきわたしを会わせるのか。
幸い彼はこれを夢か何かだと思ったらしく、目が覚める頃には忘れていると思うけれど。一つ間違えたら彼は、逆上とか、暴れるとかして騒ぎになったかもしれないのに。
尋ねられた侍女頭は、軽く目を伏せて。
「……わたくしは、彼の姉ですから」
「姉、ですか」
「えぇ。だから……わかります。わかっていたのです。彼が何を望んだのか。どんな感情と言葉をあなたに向けたかったのかが、本当は、わかっていたはずです。わかっていたのです」
その言葉はどこか、悔いるような響きを持っていた。
けれど、わたしは彼女を責めない。ああなった原因はわたしが作った。こっそり魔族に成りすますための道具を手に入れ、意地でも彼の傍にいようとした、浅はかさが招いたことだ。
それが、ただ好きなヒトと一緒にいたかった、なんて感情でも許されない。
わかっているから、わたしはもういい、と告げた。
「あなたは、平気なのですか?」
少しだけ泣きそうな目をして、彼女はつぶやくように言う。
「あれだけのことをされ、死すら望まれても、それでも」
「そこは、ほら……惚れた弱みってやつですよ。やっぱり嘘吐きはわたしだし、それに」
さら、とつやをなくした髪を撫でて。
「……嫌いになれないから、困ります」
ねぇ、と眠る彼に声をかけて、わたしも目を閉じた。
あと少しだけ、最後の逢瀬というヤツに身をゆだねてみたい。
まぁ、一方的なもの、なんだけど。
しばらくしてわたしは、そっと屋敷をあとにした。
眠る彼の頬に、別れのキスを残して。
■ □ ■
その後、薬師様――少しくたびれたおじさまなのだけど、彼のところでいつも通りに助手として働いていたら、すっかり元通りになった彼が、あの侍女頭さんをつれてやってきた。
なぜかわたしを連れ戻そうとしたり、薬師様を切り捨てようとしたり、慌てて荷物を纏めて一緒に行くと彼に縋りついたり、といろいろ大変だったけれど、それから先も大変で。
「頼むから、あんたからあいつに仕事しろって言ってくれ」
「いや……でもすぐここに、っていうかわたしにしがみついてますけど」
「あんた以外の言葉は聞こえない、だそうだ」
「はぁ。……ほら、そろそろお仕事しないとダメじゃない」
「……もう少し一緒がいい」
「仕事する男の人って、かっこいいなぁ」
「行ってくる」
などという、何とも言いがたいやり取りをするようになったり。数ヵ月後には例のドレスを着て教会に連行されて、何度『はい』と答えても『いいの?』とか『本当にいいの?』と繰り返し尋ねられたり。まぁ……慌しかったけれど、一応それなりに楽しかったですよ、はい。
まぁ、これからもいろいろあるんだろう。何と言ってもわたし、人間様。彼の親類は基本的に人間嫌いらしいし、わたしの存在で彼を諦めた令嬢もいたらしいから、がんばらないと。
でもわたしは平気だ。
しいて言うなら、やたらくっつきたがる彼の相手に苦慮しているぐらい。ほら、動きにくいんだけど嬉しいみたいな。うっかりすると寝床に引きずり込む、とんでもない狼だけど。
あれからしばらくして侍女頭に、わたしは尋ねた。
どうしてわたしを、二度も救おうと思ったのか。いや、わたしが生きていることを、どうして彼に教えたのか。放っておけば、彼は親類と全面対決することもなかったのに。
すると彼女は、はにかむように微笑んで言ったのだ。
「弟の幸せを願わない姉は、いませんわ」
あの日、嘘を叩き壊す一撃になった大切な指輪。
それは今もちゃんと、わたしの左手薬指で鈍く光っている。
彼から改めて贈られた、控えめなデザインの――おそろいの指輪と、一緒に。