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忘れられない嘘吐きの話  作者: 若桜モドキ
揃いの指輪を身につけて
10/15

彼は幸せだった

 気づいたら、床に転がっていた。

 すぐに意識が遠ざかり、次に目覚めたらベッドの上だった。

「……」

 声も出ない。仕事のことを必死に考えるが、床に崩れる前に何をしていたのか、青年はさっぱり思い出せなかった。その代わりだと言うかのように、溢れるのはまぶしいものばかり。


「思い、出したくない」


 だからやめてほしい。

 ずっと、忘れさせていてほしい。

 気づかせないでほしい。

 気づいたら取り返しが付かないから、何も知らないままでいたい。


「思い出したく、ない、のに」


 全部無意味なことだから。今更何をどう思っても、取り返しはつかないから。それを招いたのが自分自身の、この手と頭と身体だから。自ら望んで、今を引きずり出したのだから。

 だから、気づいてしまえば、そこは奈落に変わる。

 この感情の名前を、頭に思い浮かべないように彼は違う刺激を求めた。空腹も、睡魔も、仕事の忙しさや緊張もすべて、何も考えないようにするための、ある種の囮だ。

 気づかなければいい。

 気づかなければ、存在しないことと同じだ。

 だから、ずっとそうやっていたのに。心はまだへし折れていないのに、先に身体が限界を訴えてしまった。一度安らぎに逃げた身体は、当分使い物にならないだろう。

 やけにふわふわに感じるベッドに沈み込んで、彼は目を閉じる。

 いっそ、この手であの少女を、衝動のままに殺しておけばよかったのだ。


 そうすればきっと、簡単に、もっともっと簡単に。

 何もかもを『自壊』という形を持って、『忘れることができた』のに。



   ■  □  ■



 かたん、と音がする。

 何か物を動かしたような音で、聞いた覚えはあるけれど何なのか思い出せない。

 音から少しして、誰かが自分の傍にきた……気がする。

 目を開けられないから、

 誰かが手を握っているような気がする。優しい、やわらかい。硬いものは、指輪なのかもしれない。でも誰だろう。女性の手だとは思ったのだが、特に該当する人物が思いつかない。

 もしかすると、不審人物だろうか。

 一応、この屋敷の警備はそれなりに万全のものにしてある。しかし、他国には王城に忍び込むという大胆不敵な輩もいたと聞く。青年は身体に力を込めて、起き上がろうとしたが。


「だめ」


 そんな一言と共に肩を軽く押され、再びベッドに沈んだ。想像以上に自分の身体が、どうしようもない状態であることを、彼は改めて思い知る。その悔しさが表情に出たのだろうか。

「いいから、寝なさい」

 目の上に手を置かれて、そんな風に囁かれた。

 優しい声だ。

 ――だけど、眠りたくないんだ。

 思い出したくないことを、思い出してしまうから。考えたくないことばかり、考えてしまうから。何もわかりたくないし、知りたくない。だからこのまま起きている方が楽なんだ。

 忘れられないならば、他のことで頭を満たさないと。

 すぐに、思い出してしまうから。

 その先にあるものを、わかっていながら。


「忘れたいの?」


 何を、と声は尋ねない。

 だが彼は、忘れたいとかすれた声で答えた。

 だから欲しかったんだ、と。ある一つのことを忘れることができる、夢のような薬。

 それさえあれば、もう何も感じずにすむと思っていた。

 好きだったことも、愛していたことも、許したかったことも。楽な方へ逃げたために、たった一言を口にする勇気が出てこなかったために、告げる相手を永遠に失ったことも。

 何もかも忘れることが、できる。

「薬、欲しいの?」

 何もかも忘れられる薬。

 思い出したくないことも知りたくないことも、全部忘れることができる薬。囁かれ、彼はわずかにその瞳を開く。だが手のひらが重ねられていて、まぶたの向こうはまだ薄暗かった。

 欲しい、とちゃんと言えたと思う。

 忘れさせてほしかった。

 ゆっくりと、視界を覆う手のひらが離れていった。

 ぼやけた視界の中に、一つの笑みがある。思ったより長くなった髪を、いつか夜会に引っ張り出した時のように軽く結っていて。離れた手のひらが優しく、彼の頭をそっと撫でた。

 じゃあ口を開けてよ、と彼女が笑う。笑ってくれている。


 その声を、ずっと聞きたかった。

 ずっと、聞いていたかった。


 うっすらと唇に隙間をつくると、そこから硬いものがいくつか転がり込む。あとは水さえあれば飲むことができるけれど、どうやってそれを口の中に入れようか。

 たしか、病人のためにそういう道具があると聞いた。

 ……そんなもの、この屋敷にあっただろうか、と青年はぼんやり考え。

「仕方ないわね、もう」

 苦笑交じりに声が聞こえ、がさがさと音がする。視線を彼女の向ければ、水が入ったガラスのコップに口をつけているのが見えた。それを、半分ほど口に含んだらしい彼女は。

 彼に覆いかぶさるようにして、ゆっくりと唇を重ねた。

 流れ込んでくる水と一緒に薬を飲み干し、再び彼の意識は沈んでいく。

「おやすみなさい」

 至近距離で覗き込み、こちらを見る目が優しくて。

 彼女はこの手が殺してしまい、もう笑みも、声も何も触れてこないし、だからこれは心身ともに弱りきった自分が見せる最後の、実に都合のいい『夢』なのだろうけれど。


 紛れもなく、ずっと欲しかったものだったから。

 心から望んでいた、夢だったから。


 このまま永遠に、眠り続けてもいいと思う程度には、彼は幸せだった。

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[気になる点] 誤字報告機能が使えないのでここに書きます。 「不振人物」→「不審人物」
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