彼は幸せだった
気づいたら、床に転がっていた。
すぐに意識が遠ざかり、次に目覚めたらベッドの上だった。
「……」
声も出ない。仕事のことを必死に考えるが、床に崩れる前に何をしていたのか、青年はさっぱり思い出せなかった。その代わりだと言うかのように、溢れるのはまぶしいものばかり。
「思い、出したくない」
だからやめてほしい。
ずっと、忘れさせていてほしい。
気づかせないでほしい。
気づいたら取り返しが付かないから、何も知らないままでいたい。
「思い出したく、ない、のに」
全部無意味なことだから。今更何をどう思っても、取り返しはつかないから。それを招いたのが自分自身の、この手と頭と身体だから。自ら望んで、今を引きずり出したのだから。
だから、気づいてしまえば、そこは奈落に変わる。
この感情の名前を、頭に思い浮かべないように彼は違う刺激を求めた。空腹も、睡魔も、仕事の忙しさや緊張もすべて、何も考えないようにするための、ある種の囮だ。
気づかなければいい。
気づかなければ、存在しないことと同じだ。
だから、ずっとそうやっていたのに。心はまだへし折れていないのに、先に身体が限界を訴えてしまった。一度安らぎに逃げた身体は、当分使い物にならないだろう。
やけにふわふわに感じるベッドに沈み込んで、彼は目を閉じる。
いっそ、この手であの少女を、衝動のままに殺しておけばよかったのだ。
そうすればきっと、簡単に、もっともっと簡単に。
何もかもを『自壊』という形を持って、『忘れることができた』のに。
■ □ ■
かたん、と音がする。
何か物を動かしたような音で、聞いた覚えはあるけれど何なのか思い出せない。
音から少しして、誰かが自分の傍にきた……気がする。
目を開けられないから、
誰かが手を握っているような気がする。優しい、やわらかい。硬いものは、指輪なのかもしれない。でも誰だろう。女性の手だとは思ったのだが、特に該当する人物が思いつかない。
もしかすると、不審人物だろうか。
一応、この屋敷の警備はそれなりに万全のものにしてある。しかし、他国には王城に忍び込むという大胆不敵な輩もいたと聞く。青年は身体に力を込めて、起き上がろうとしたが。
「だめ」
そんな一言と共に肩を軽く押され、再びベッドに沈んだ。想像以上に自分の身体が、どうしようもない状態であることを、彼は改めて思い知る。その悔しさが表情に出たのだろうか。
「いいから、寝なさい」
目の上に手を置かれて、そんな風に囁かれた。
優しい声だ。
――だけど、眠りたくないんだ。
思い出したくないことを、思い出してしまうから。考えたくないことばかり、考えてしまうから。何もわかりたくないし、知りたくない。だからこのまま起きている方が楽なんだ。
忘れられないならば、他のことで頭を満たさないと。
すぐに、思い出してしまうから。
その先にあるものを、わかっていながら。
「忘れたいの?」
何を、と声は尋ねない。
だが彼は、忘れたいとかすれた声で答えた。
だから欲しかったんだ、と。ある一つのことを忘れることができる、夢のような薬。
それさえあれば、もう何も感じずにすむと思っていた。
好きだったことも、愛していたことも、許したかったことも。楽な方へ逃げたために、たった一言を口にする勇気が出てこなかったために、告げる相手を永遠に失ったことも。
何もかも忘れることが、できる。
「薬、欲しいの?」
何もかも忘れられる薬。
思い出したくないことも知りたくないことも、全部忘れることができる薬。囁かれ、彼はわずかにその瞳を開く。だが手のひらが重ねられていて、まぶたの向こうはまだ薄暗かった。
欲しい、とちゃんと言えたと思う。
忘れさせてほしかった。
ゆっくりと、視界を覆う手のひらが離れていった。
ぼやけた視界の中に、一つの笑みがある。思ったより長くなった髪を、いつか夜会に引っ張り出した時のように軽く結っていて。離れた手のひらが優しく、彼の頭をそっと撫でた。
じゃあ口を開けてよ、と彼女が笑う。笑ってくれている。
その声を、ずっと聞きたかった。
ずっと、聞いていたかった。
うっすらと唇に隙間をつくると、そこから硬いものがいくつか転がり込む。あとは水さえあれば飲むことができるけれど、どうやってそれを口の中に入れようか。
たしか、病人のためにそういう道具があると聞いた。
……そんなもの、この屋敷にあっただろうか、と青年はぼんやり考え。
「仕方ないわね、もう」
苦笑交じりに声が聞こえ、がさがさと音がする。視線を彼女の向ければ、水が入ったガラスのコップに口をつけているのが見えた。それを、半分ほど口に含んだらしい彼女は。
彼に覆いかぶさるようにして、ゆっくりと唇を重ねた。
流れ込んでくる水と一緒に薬を飲み干し、再び彼の意識は沈んでいく。
「おやすみなさい」
至近距離で覗き込み、こちらを見る目が優しくて。
彼女はこの手が殺してしまい、もう笑みも、声も何も触れてこないし、だからこれは心身ともに弱りきった自分が見せる最後の、実に都合のいい『夢』なのだろうけれど。
紛れもなく、ずっと欲しかったものだったから。
心から望んでいた、夢だったから。
このまま永遠に、眠り続けてもいいと思う程度には、彼は幸せだった。