『余命三ヶ月の王は、王妃に嫌われていると思い込み「幸せになれ」と離縁を突きつけた。~死後、愛されていたと知ってももう遅い~』
ハッピーな日ですが、あえて非常に切ない、不器用な二人の物語を書きました。少しでも心に残れば幸いです
『余命三ヶ月の王は、王妃に嫌われていると思い込み「幸せになれ」と離縁を突きつけた。~死後、愛されていたと知ってももう遅い~』
**「これは、最後まで妻に愛されていると気づかなかった、愚かな男の物語だ」**
余命は三ヶ月だと、侍医は言った。
王の寝室は、今日もやけに静かだった。
厚い天蓋の向こうで、春の風が鳴っている。
この国は今、戦もなく、飢饉もなく、平穏だという。
だが王である私は、もう長くないらしい。
「……そうか」
驚きはなかった。
驚くほど、良い王でもなかったからだ。
私は戦に勝った英雄でもなく、
劇的な改革を成した名君でもない。
決断は遅いと責められ、
優しすぎると嘆かれ、
強くあれと望まれてきた。
だが結局、何一つ、胸を張れるものはない。
「王妃様にお伝えしますか」
侍医の問いに、私はわずかに首を振った。
「いや……いずれ分かる」
どうせ、私の体調は隠せない。
あの人は、いつも気づいてしまうから。
扉が静かに叩かれた。
許可を出す前に、控えめな足音が近づく。
「……陛下」
王妃だった。
隣国から嫁いできた才媛。
常に冷静で、誰よりもこの国の利益を考える人。
そして――私を愛してはいない人。
「顔色が優れませんね」
「年相応だろう」
「年のせいではありません」
短い言葉。
必要最低限の会話。
これが、私たちの夫婦の形だ。
政略結婚だった。
愛を育む時間など、最初からなかった。
私は彼女を守るために距離を取り、
彼女は私を尊重するために踏み込まなかった。
その結果が、この静けさだ。
「今夜はお休みください。公務は私が」
「……頼む」
彼女は一礼する。
そのとき、ふと視界の端に色が映った。
窓辺の花瓶。
昨日とは違う花が活けてある。
「花を変えたのか」
「はい。香りが強いと、咳が出ると伺いましたので」
侍女に命じたのだろう。
いつもそうだ。
彼女は、よく気がつく。
だがそれは、王としての私に対してであって――
夫としての私ではない。
きっと。
「陛下」
去り際、彼女は立ち止まった。
何かを言いかけて、やめる。
「……ご自愛ください」
扉が閉まる。
残された寝室に、花の淡い香りが広がる。
余命三ヶ月。
最後まで、私は良い王ではなかった。
そして――良い夫でも。
翌日、私は王妃を呼んだ。
陽は傾きかけていたが、寝台から起き上がるだけで息が上がる。
情けないものだ。
「御用でしょうか、陛下」
いつもと同じ声音。
揺らぎのない姿勢。
私は、努めて穏やかに言った。
「……話がある」
彼女は黙って頷く。
その沈黙が、ひどく重い。
「余命が、長くないらしい」
ほんのわずか、王妃の指先が強張った。
だがすぐに戻る。
「存じております」
やはり、気づいていたか。
「そうか」
少し、安堵する。
隠し通せるとは思っていなかった。
「そこで、だ」
私は視線を逸らした。
正面から彼女を見る勇気が、どうしても出なかった。
「私が逝った後……お前はまだ若い。隣国も、お前を惜しむだろう」
「……何を仰りたいのですか」
「離縁を、進めておく」
空気が凍る。
「形式上は王妃だが、子もいる。再婚も可能だ。政にも口を出せる立場を整えておく」
できる限り、理路整然と。
それが私にできる、最後の責任だと思った。
「私は……」
彼女の声が、低く落ちる。
「陛下の妃です」
「今は、な」
「今も、です」
初めて、語尾が揺れた。
だが私は続ける。
「私に縛られる必要はない。幸福を選べ」
沈黙。
長い、長い沈黙。
やがて王妃は、静かに息を吸った。
「陛下は」
顔を上げる。
彼女はまっすぐこちらを見ていた。
「いつも、私のことをお決めになります」
「……守るためだ」
「守られてなど、いません」
その言葉は、刃のように胸に刺さった。
だが彼女は続けない。
拳を握りしめ、やがてゆっくりと解く。
「離縁の件は、お好きになさってください」
声は、元通りに整っていた。
「私は、陛下の決定に従います」
「……すまない」
謝罪しか出てこない。
それが、私の限界だ。
彼女は一礼した。
そのとき――ほんの一瞬。
睫毛の端が、濡れているように見えた。
気のせいだろう。
あの人が、泣くはずがない。
扉が閉まる。
私は深く息を吐いた。
これでいい。
これで、彼女は自由になる。
最後くらい、正しいことをしたい。
それが、愛ではないとしても。
扉の向こうに、気配があった。
「……誰だ」
控えめに現れたのは、まだ幼さの残る王子だった。
「父上」
その目は赤い。
「離縁、とはどういう意味ですか」
私は言葉を選ぶ。
「母上を、自由にするだけだ」
「母上は、自由ではないのですか」
胸が詰まる。
「父上は……母上が嫌いなのですか」
「違う」
即答だった。
「なら、なぜ」
答えられない。
守るためだ、などと。
子どもに理解できる言葉ではない。
「父上は、いつも何も仰らない」
王子は拳を握る。
「母上も、何も仰らない」
震える声。
「どうして、何も言わないのですか」
私は目を閉じた。
その問いに答えられるなら、
私はもっと良い王で、良い夫だった。
王は目を閉じ、答えられない。
王子は涙を堪えながら言う。
「父上が何も仰らないから、母上も何も仰らないのです」
王は初めて動揺する。
だが言葉にできない。
「王とは、弱みを見せぬものだ」
「では、私は王になりたくありません」
王子の言葉が、胸をざくりと貫いた。
――私は、間違っていたのかもしれない。
初めて、自分の判断が正しかったのか迷う。
しかし、心の奥で分かっていた。
もう、取り返せる時間は残されていないのだ、と。
その夜、発作。
侍医が走る。
王妃が駆けつける。
王は朦朧としながらも、王妃に言う。
「離縁の書状は、引き出しに入っている。……私が死んだら、すぐにそれを持って国へ帰りなさい。君を縛るものは、もう何もない」
王妃が息を止める。
「……どこまで、残酷な方なのですか」
「あなたを、縛りたくはない」
王妃、初めて感情をあらわにする。
「縛られてなど……おりません」
しかし続けられない。
王は微笑む。
「そうか。優しいな」
完全に誤解したまま。
ああ、視界がかすむ。
最後に見た君の顔は、ひどく歪んでいた。
すまない。
泣かせるつもりはなかったのだ。
本当は、その手を力一杯握り返したかった。
君の好きな花の話を、もっと聞きたかった。
君の国の言葉で、「愛している」と伝えてみたかった。
だが、それは私のエゴだ。
嫌っている男からそんなことを言われても、君を困らせるだけだろう。
――ようやく、君を解放できる。
私を忘れて、笑ってほしい。
願わくば、次に君が愛する男は、
私のように「沈黙」を美徳としない、不器用ではない男でありますように。
さようなら。
私の、冷たくて、何よりも愛おしい王妃。
夜明け前。
王妃が手を握る。
王がかすかに目を開く。
「花の香りが、今日は強いな」
王妃が答える。
「……陛下がお好きな香りです」
王は首を振る。
「いや。お前が好きな香りだった」
王妃の呼吸が止まる。
王は続ける。
「覚えている」
それが、ほぼ唯一の“歩み寄り”。
だが決定的な言葉は言わない。
最後の言葉は――
「すまなかった」
王妃は初めて声を漏らす。
「違います。…私は初めて会った日からずっと陛下のことを……。」
だが、その言葉が届く前に、王は息を引き取る。
城外の広場に、いつの間にか人が集まり始めていた。
貴族たちは顔を見合わせ、眉をひそめる。
「愚王の葬儀に、これほど人が――」
兵士が小声で報告する。
人々は自発的に集まっていた。
追い払おうとしても、誰も動こうとしない。
皆、静かに、ただ王を見守っている。
王子はその光景をじっと見つめた。
ふと理解する。
父は――嫌われてなどいなかったのだ、と。
国葬の日、空は晴れていた。
春の風が、王城の旗を揺らす。
棺の前に立つ王妃は、黒衣のまま微動だにしなかった。
涙は、見せない。
見せてはならない立場だと、誰よりも理解している。
式が終わり、民が去り――
夜になっても、王妃はその場を動かなかった。
「母上」
背後から、王子の声がする。
まだ幼いその手には、一冊の革表紙の日誌があった。
「父上の執務室から……」
王妃は、ゆっくりと受け取る。
見覚えのある筆跡。
見覚えのある、整いすぎた文章。
王はいつも、感情を削ぎ落として書いた。
頁をめくる。
そこにあったのは、政策でも戦でもない。
城下の花売り。
兵士の未亡人。
若い鍛冶師。
そして――
『王妃は、今日も眠れていない様子だった。
花の香りを弱くするよう、侍女に伝える』
『彼女が昔好きだと言っていた隣国の菓子を、商人に探させた。私が渡せば、彼女は気を遣って無理に笑うだろう。だから、侍女の差し入れということにした。』
頁が、滲む。
『私は、彼女を守れているだろうか』
震える指で、次の行を追う。
『彼女が幸せであるなら、それでいい。
私が嫌われているとしても』
そこで、王妃の喉から音が漏れた。
声にならない、ひどく小さな音。
「……嫌ってなど」
言えなかった。
ただ一度も。
あの人は、いつも決めてしまう。
守ると言って、距離を取る。
優しさで、壁を作る。
それでも――
「母上」
王子が、そっと言う。
「父上は、母上を嫌ってなどいませんでした」
違う。
嫌ってなど、いなかったのだ。
愛していた。
不器用なほどに。
王妃は、初めて棺に縋った。
「どうして……何も、仰ってくださらなかったのですか」
答えは、もう返らない。
夜が更ける。
やがて王子が、棺の前に進み出る。
幼い背が、まっすぐに伸びる。
「私は」
その声は、震えていなかった。
「私は、言葉にする王になります」
王妃が顔を上げる。
「守るなら、守ると。
愛しているなら、愛していると。
必ず、伝えます」
沈黙の王とは違う。
けれど、その根は同じだ。
誰よりも人を思う、不器用な優しさ。
棺の中の王は、静かに眠っている。
最後まで、自分が愛されていたことを知らずに。
それでも――確かに、愛されていた。




