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手首の温度  作者: 田中葵
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後編

 逃げないで、と言われて、

 私は反射的に否定しそうになった。


 逃げてなんかいない。

 大人として、距離を保っているだけだ。

 下手に関わって、こじらせるよりは、

 静かに通り過ぎる方がいい。


 いつもなら、そう思えた。


 でも、その日は言葉が出てこなかった。


 手首に残る温度が、

 思ったより、はっきりしていたからだ。


 痛くない。

 掴まれている、というほどでもない。

 ただ、「ここにいる」と知らせるための接触。


 その感触が、

 これまで避けてきたものを、次々に浮かび上がらせた。


 声を上げれば、

 どちらかの側に立たなければならない。


 黙れば、

 見て見ぬふりをした人になる。


 どちらも選びたくなくて、

 私はいつも三つ目の道を探してきた。


 うまくかわす。

 当たり障りなく終わらせる。

 誰の敵にもならない位置。


 それが、自分を守る方法だと思っていた。


 でも本当は、

 当事者になるのが怖かっただけだ。


 正しいかどうかより先に、

 自分の名前がそこに載ること。

 「あなたはどう思う?」と

 聞かれる側に回ること。


 意見を持った瞬間に、

 逃げ場がなくなるのを、知っていた。


 だから私は、

 いつも少し早めに席を立った。

 少しだけ忙しい人を演じた。

 少しだけ無関心な人でいた。


 それが賢さだと、

 思い込もうとしていた。


 手首の温度が、ゆっくり下がる。


 離されるのを待っているのだと、

 分かった。


 逃げるなら、今だった。


 一歩下がれば、

 何事もなかったことにできる。

 この人も、追ってこない。


 それでも、足は動かなかった。


 胸の奥で、

 小さく、でも確かな音がした。


 ——ここでいなくなったら、

 私はまた、同じ話を自分にする。


 仕方なかった。

 自分一人じゃどうにもならなかった。

 関わらない方が正解だった。


 何度も使ってきた言い訳が、

 先に並んで待っているのが見えた。


 それが、急に、ひどく疲れたものに見えた。


 私は、息を吸った。


 何か立派なことを言うつもりはなかった。

 問題を解決する気もなかった。


 ただ、その場に残ることだけを、選んだ。


「……少しだけ」


 自分の声が、思ったより低かった。


「少しだけ、聞かせてください」


 それで十分だったらしい。


 手首から、手が離れた。


 その温度が消えるのを、

 私ははっきりと感じた。


 周囲の会話は、まだ重たいままだった。

 空気が変わることもない。

 誰かが感謝するわけでもない。


 それでも、私は立っていた。


 逃げなかった時間が、

 確かに、そこにあった。


 後で振り返れば、

 大した出来事じゃないのかもしれない。


 でも、あのとき初めて、

 私は自分の足の裏の感覚を、思い出していた。


 手首の温度は、もうない。


 それでも、

 その余韻だけが、

 しばらく消えずに残っていた。




 チャイムが鳴るまで、まだ少し時間があった。

 廊下の奥で、誰かが机を引く音がする。

 私は名簿を閉じず、その場に立ったままでいた。

 逃げなかった時間は、成績にも記録にも残らない。

 それでも、ここに立っているという感覚だけが、

 確かな重さを持って、足の裏に伝わっていた。

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