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手首の温度  作者: 田中葵
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前編

 関わりたくないことは、かわしてきた。

 廊下の端で立ち話が始まりそうになると、

 プリントを一枚確認するふりをして通り過ぎる。

 誰かの名前が少し強めに出た瞬間には、

 次の時間の準備を思い出したような顔で、その場を離れる。

 そうやって私は、学校の中を、問題に触れない速度で歩いてきた。


 逃げる、というほど大げさなものじゃない。

 ただ少し距離を取るだけだ。

 話題を変えるとか、忙しいふりをするとか、

 その場にいない理由を先回りして用意しておくとか。


 そういうのは、だいたい大人の振る舞いに見える。


 誰かが揉めていれば、間に入らない。

 空気が重くなれば、軽い冗談を投げて散らす。

 責任が浮き上がりそうになったら、

 「まあ、いろいろありますよね」で一度、平らに戻す。


 何も壊さない。

 何も直さない。

 だから、自分も傷つかない。


 それで、うまくやってきたつもりだった。


 ——あの人と、目が合うまでは。


 特別親しいわけじゃない。

 でも、名前は知っている。

 顔も、声も、癖も知っている。

 こちらが話題を逸らしたとき、

 一拍だけ、間を置く人だ。


 ブレない人、という言葉が一番近い。


 誰かの陰口が始まっても、笑って同調しない。

 かといって、正論で場を壊すこともしない。

 ただ、黙る。

 その沈黙が、妙に目立つ。


 だから、少し苦手だった。


 その日も、空気はよくなかった。

 誰かが誰かに押し付けた仕事の話。

 責任の所在が、じわじわと曖昧になる会話。


 私は、いつもの位置にいた。

 深く関わらない、ちょうどいい距離。


 そろそろ離れよう。

 タイミングは完璧だった。


 一歩、体を引いた瞬間。


 手首に、触れるものがあった。


 強くはない。

 引き寄せるほどでもない。

 ただ、確かに止められた。


 驚いて振り返ると、

 あの人が、いつもの表情で立っていた。


 近すぎる、というほどではない。

 でも、遠くもない。


 視線が合ったまま、

 静かな声で言われた。


「もう逃げないで。分かってるでしょ」


 その言葉より先に、

 手首から伝わる温度が、

 私の中で何かを確定させた。


 ——ああ、この人は知っている。


 私が、ここまでどうやって立ってきたかを。

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