お化けホテル鳴竜荘
旅の宿で聞いた噂のとおり、雪深い峠に廃墟同然の屋敷が建っていた。落雷によって屋根の崩れた尖塔が、天に向かって吼える竜の頭に似ていることから、この屋敷が“鳴竜荘”と呼ばれるお化け屋敷だと一目で分かった。“鳴竜荘”は、峠道を強行突破しようとする意志がくじけそうになったあたりで、疲れた旅人を待ち構える罠のように、ランタンの明かりの中にぼんやり浮かび上がるのだった。“鳴竜荘に泊まってはならない”……。しかし、ここまで来てしまった以上、雪道で凍え死ぬよりは屋敷の中のほうがマシだ。
応接間の暖炉のそばの椅子に陣取り、毛布の中でトウガラシの袋を握り締め、ランタンの炎を見つめて、夜が明けるまで寝ずに過ごす覚悟だったが、しばらくうずくまっていると歌声のような幻聴が聞こえ始めた。なぜ幻聴だと分かるか?峠道には誰の足跡も無かったからだ。それに、狼の遠吠えも梟の鳴き声も響かない雪の夜、あまりにも静かすぎると、人間の耳は無から雑音を作り出すものだからだ。この幻聴は眠気のせいに違いない。眠れば死ぬ。うずくまっていて眠気に勝てないのなら動き回って幻聴を振り払うしかない。もしも屋敷に先客がいて、眠気覚ましに歌っているなら、お互いの身上話で夜を明かせるので、願ってもない幸運といえるだろう。が、よりによって、幻聴は屋敷の二階から聞こえた。
“鳴竜荘に泊まってはならない。屋敷をむやみに探索してはならない。とりわけ、二階の部屋の開いた窓に近寄ってはならない”旅の宿ではそういう噂だった。酒のツマミぐらいのつもりで聞き流していたときは、ずいぶん具体的なお化け話だなと思ったものだが、そんなに事細かく「あれをするな」「これをするな」と禁止してくるのは、実際に屋敷に対面してみると泊まらざるを得なくなるからであり、屋敷に泊まってみると探索せざるを得なくなるからなのだ。罠とは、アリジゴクの巣のように、近寄っただけでも獲物を引きずり込むものなのだ。夜じゅう謎の歌声を聞かされっぱなしで正体を探らずに我慢できるとは思えなかったので、ロビーの階段を昇り、二階の部屋の様子を端から順に窺うと、ひとつだけ雪の舞い込む部屋があった。ああ……、その部屋に何も異変がなかったら、歌声が単なる幻聴だと分かったなら、どんなに安心して夜を過ごせただろうか!!
窓辺に椅子が一脚寄せてあり、半透明の娘が窓外を眺めながら歌っていた。娘は立ち上がり、半透明のぬいぐるみを抱いて踊り出したが、こちらの視線に気づいた、というより、オルゴール仕掛けのスイッチが入った、といったぎこちなさだった。娘の歌と舞踏はおおよそ以下のごとき内容を語っていた。
“むかしむかし、恋人の帰りを待ち焦がれる娘がいた。結婚を約束した恋人が遠い戦地へ赴き、いつまで待っても戻らないのだった。待ちきれない娘は自分の屋敷を出て、戦地に近い街を目指したが、馬車で山を越える途中、奇妙な廃墟に目を付けた。落雷によって屋根の崩れた尖塔が、天に向かって吼える竜の頭に似ていることから、“鳴竜荘”と呼ばれる廃墟は、“開いた窓に近寄ってはならない”という不気味な噂話が伝わっているお化け屋敷だったが、それでも娘は山の上から遠くの戦地を見渡し、いち早く恋人を迎えようとして、廃墟を別荘に改装させた。こうして毎日毎日、窓から外を眺めては溜息をつく、娘の孤独な暮らしが始まった。寂しさを紛らわすため、ぬいぐるみがたくさん持ち込まれた。召使いが寄りつかなくても、ぬいぐるみに囲まれていれば娘は辛抱できるはずだった……”
……そこまで歌い終えたとき、娘は部屋の床から浮き上がって吸い出されるように窓枠に立ち、仰向けで屋敷の外へ落ちた。あわてて窓辺へ駆け寄り下を覗くと、ものすごい力で首を引っ張られ、あやうく窓から引きずり落とされそうになった。首を締めていたのは半透明の娘だったが、その両腕は毛むくじゃらで、娘の顔も熊に変じていた。
首筋に爪も喰い込まんばかりの怪力から解放された、と思った直後、娘が熊の声で言った。
「チガウ」
* * *
この話を安全な宿で書き留めていられる幸運に感謝しよう。まだ生きた心地がしない。
娘は寂しさに耐えきれず、“開いた窓に近寄って”しまったのだろう。恋人を道連れにするつもりで、オルゴール仕掛けのような残留思念が、ずっと屋敷に縛られているのだ。朝を待って屋敷の裏手を掘り返したが、窓の下には何も残っていなかった。おそらく遺体は熊か狼の餌食に……。
哀れな娘を弔ってやるには、どうすればいいかな?恋人の行方を突き止めて報告してやるとか?娘もお相手のほうも名前すら分からなくては難しそうだ。娘の別荘になる前から“鳴竜荘”がお化け屋敷だったらしいのも気がかりだ。もし度胸のある人がいたら、あなたが屋敷の呪いを解いてやってくれ。ただし、“開いた窓”には気をつけて。