音がする車
「きょうはおれがゴミ捨てに行くよ」
皿洗いをする妻の背中に、おれは言った。
「ありがと」
「たくまも一緒に行くか?」
小学三年の息子に声をかける。きょうを有給休暇にしたのは、息子が少年サッカーの特別試合に出るためだった。海外でプレーする選手がゲストとして観戦にくるので、おれもすこし浮き足立っている。
「足を整えたいから、行かない」
「お、らしい発言ですねぇ」
「おれ、プロ目指してるから」
「強くなるのはいいけど、えらそうにはなるなよ」
「うーい」
普通の授業を休んでまで試合に出る自分が誇らしいのだろう。変に天狗にならなければいいが——と考えながら、おれはゴミ袋を手に玄関を出た。
カーポートの下には、先月買ったばかりの中古車が。これを乗るのも、楽しみのひとつだ。
「あら、どうも」近所のおばちゃんが声をかけてきた。その手には、おなじくゴミ袋が。
「おはようございます」
「車、大丈夫?」
「え——?」
唐突に、なにを言いだすのか、と思った。
「きのう、うちの孫——ほら、高校生のだいきがね。部活で遅くなったのよ。それで——ここを通るじゃない? そしたら、近藤さんちの車から音がしてたって言ってて」
「音——? ですか。何時くらいです?」
「八時すぎ、くらいじゃない?」
その時間、おれは風呂に入っていた。
妻も家事をしていたはずだし、エンジンなどかかるわけがない。
「音って、どんな?」
「だいきの話だと、ばん、ばん、ってなにか叩いているような音だったって」
心配になったおれはゴミ袋を置いて、車に近づいた。
塗装が無事か、ぐるっと見た。
「あ——猫の足跡、ついてますわ」
うっすらだが、肉球の土汚れがボンネットにあった。
「じゃ、猫ちゃんが乗って遊んでたのね。だいき、メガネっ子だし、暗くて見えなかったのかも。ごめんなさいね、余計な心配させて」
「いえ——そんな。こちらこそすいません」
やっぱり車庫に入れたいな……、と思いながら、おれはゴミ捨てを終えた。その後、予定どおり息子と妻を車に乗せて、バスの集合場所に向かった。しかし一五分も走っていると、後部座席に乗る息子が急に体調不良をうったえた。
「だめだ——気分わるい」
「車酔いか?」おれはハンドルを握りながら言った。
「え、大丈夫?」
助手席の妻が、うしろに顔をやる。
「なんか、すっごい熱っぽい顔してる」
「まじか——」
「だめだ……、だるい」
その日、息子の体調はもどらなかった。当然試合はキャンセル。車は、サッカー少年たちが待つバス乗り場ではなく、病院に向かうことになった。
検査をしたが、異常はなかった。試合前の緊張が体調に出たのだろう、という医師の言葉を、そのときは信じた。
しかし、それから息子は車に乗るたびに体調を崩すようになった。買い物だろうが、友達の家への送迎だろうが、サッカーの練習だろうが——とにかく車に乗ると熱が出て、動けなくなる。息苦しいと言って、その日は寝こんでしまう。
「まいったな……」リビングのソファに座り、おれは頭を抱えた。
「いろいろ検査したけど、異常ないしね」妻がエプロンで手を拭きながら、テレビのリモコンを手に取る。
「車酔い——その、とてもひどいやつ、ってか?」
「車に乗せなきゃいいんだよね」
「でも……、けっこう田舎だぞ? 車がないと生活できない」
「はぁ……」妻もソファにがっくりと座りこむ。「どうしよ、あの子、このさき心配」
沈黙のなか、テレビのワイドショーの音だけが耳に入る。——ぴりり、と急にスマホが鳴って、おれはびくりと肩を震わせた。画面を見て名前を確認すると——世話になった中古車販売の営業だった。
「金山さんだ」
「え、車の?」
「ああ」
「出て——」妻が言った。
「もしもし?」おれはスマホを耳に当てる。
「あ——すいません、突然。先達はお世話になりました、カーワイドの金山です」
「どうも——えと、なにか?」
「それがですね……」金山さんは言いにくそうに、「先日、ご購入いただいた、中古車なんですけど……。ええと——その——」
「はい……」
「事故車、でして」
「は?」
「大変、申し訳ありません」
「事故って——つまり修復歴があるってことです? 聞いてないですよ」
「すいません、いや、あの——。事故っていうのは、事故物件、とおなじ意味の事故なんです」
「……それって、自殺とかの?」
「はい……」
金山さんの話によると、あの中古車のなかで、幼い子がひとり亡くなっていたらしい。カーワイド側も寝耳に水だったようで、気の毒ではあったが——返金の補償を受ける流れになった。
「子供が亡くなってたの?」電話を切ったおれに、妻が言った。
「らしい」
スマホをテーブルに投げるように置いて、おれはため息をついた。
「死因は?」
「ほら、よくあったじゃん、ひとむかし前。駐車場に子供を置いて、パチンコに行っているあいだにさ……」
「うそでしょ……」妻は両手で顔をおおった。「車のなかが暑くなるやつでしょ」
「それだよ」
「ふざけんなっ」妻は怒りに拳を握った。「わたしたちが車乗れなくなるとか、どうでもいいけどさ。おなじ子供を育てる親として考えられない。最低だわ。亡くなった子がかわいそう」
「だよな……。ありえねぇわ、ほんと」
「もしかして、あの子が具合わるくなるのって……」
とにかく、あの車には乗ってはいけない。事故車をカーワイドに返すのも、わりとすぐの日程だったから、おれは車内を掃除するため外に出た。どこか、供養をする気持ちを抱えながら。
ばん
ばん
ばん
音がして、車がにわかに揺れている。おそるおそる近づくと、音は止まった。しかし——後部座席の左側、その窓に、皮脂にまみれたちいさな手形が数えきれないほど、数えきれないほど、張りついていた。
たすけて
〜音がする車〜