押してないから
わたしが一ヶ月の出張をしているときのことだ。ビジネスホテルで朝を迎えると、自宅にいる妻から、「夜中にインターホンが鳴るの」という連絡がきた。
電話で詳細を訊くと、たしかにインターホンの履歴は残っているけれど、カメラの前にはだれも立っておらず、ただ玄関さきの景色だけが映っているとのこと。
仕事のかねあいもあって、わたしはすぐに帰れない。
しかし不安なまま放置するわけにもいかない。
妻の実家が、自宅にわりと近いところにあるので、わたしは義理の母に連絡を取ることにした。
「——あ、すいませんお義母さん。おれです」
「あら、どうしたの?」
「おれ、いま出張で。りょうこがひとりで家にいるんですけど。夜中にインターホンが鳴るんだそうです。でも、だれもいないらしくて」
「やだ……。警察に電話しないと」
「そっちはおれがやっておきます。ただ、やはり心配なので、できたらお義母さん、おれが帰るまでうちに泊まっててもらえないでしょうか」
「あ——いいわよ。定年退職したお父さんひっぱって、お邪魔するから。安心して」
「すいません。ほんとうに。どうか、おねがいします」
お義母さんたちは、その日のうちに自宅に泊まる運びになった。安心したわたしは出張さきでの仕事を一日終えて、ビジネスホテルでまた死んだように眠った。
朝になり、りょうこに連絡をとった。
「大丈夫だったよ。鳴らなかった」
それならよかった、とわたしは胸をなで降ろした。いたずらの犯人も、りょうこ以外の人間がいると気づいたのかもしれない。それから出張がおわるまで、夜中のインターホンは一度も鳴らなかった。
ようやく自宅に帰ることができて、お義母さんとお義父さんに礼を言う機会を得られた。するとふたりは、ちょっと、と言って、わたしを別室に呼んだ。りょうこはいない。
「ごめんね」お義母さんが言った。「あの子について、言ってなかったことがあるの」
「え……?」
「んんっ……」お義父さんが喉を鳴らして、「あいつな。解離性同一性障害、っつうもんを、子供のころに発症してたんだよ。つまり二重人格、ってやつ」
おふたりの話だと——りょうこは子供のころ鍵っ子だったらしい。両親の帰りが遅い日が何日もあった。その寂しさが限界まできてしまい、彼女は自分のなかに別の人格を形成した。
「その別人格が——いたずらっ子の少年なのよ。男の子ね。むかしから、りょうこがするはずのない、いたずらをしては、わたしたちを困らせたものだったわ。高校生くらいになってからは、その別人格はてんで見なくなったんだけど。もしかしたら、自宅にひとりでいる寂しさで、また出てきちゃったのかもね」
そんなことがあったのか……。
インターホンのカメラにすがたが映らないようにボタンを押していたのは、彼女であり、彼女ではなかった。わたしがまったく知らない、いたずら好きの男の子が、それを行っていた。
「ごめんな、ひと月も寂しい思いさせて」
ベッドの上で、りょうこの頭をさすった。
「ううん。大丈夫。でも、あたし、インターホンぜったい押してないから」
「そりゃそうだ」
だって、別人格だったから記憶がないんだもんな。
「おかしなやつもいたもんだ。セコムとか本気で考えないとだな」
ベッドサイドのデジタル時計を見ると、午前1時だった。明日からしばらく連休とはいえ、もう寝ないと。
ピン、ポーン
「ほら、あたし、押してない」
〜押してないから〜