ずっと見てますから
ようやく売れっ子声優になって、まっさきに考えたのは引っ越しだった。おれにはストーカーがいる。そいつは出待ちはおろか、自宅の前にいることもざらだった。
警察にも相談した。だが——やつらはまともに動かない。なぜならそのストーカーは、話しかけてくるでもなく、なにかを渡そうとするでもなく、五メートル以上の距離を保ったまま、おれを《《見つめる》》だけ。
「直接、躰に触れてくるとか、気持ちわるいものを渡してくるとかじゃないですからねぇ……。法的には、なにもわるいことをしていない、ということになってしまいますねぇ。歩道に立っているだけですからね、その人」
きょうもため息まじりに警察署から出た。
なんの進展もない。
外に出ると、どこかであいつが見ているんじゃないかって不安が頭のなかをぐるぐるまわってどうかなっちまいそうだ。
いつもとちがう帰路を選んで、乗る電車もあえて複雑にして、夜まで友達の家で遊んで、暗くなってから自宅に帰った。
三階建てのアパートの角部屋は気に入っているが、あいつにはこの自宅はバレている。来月にも引っ越す予定だ。
外階段を二階まで登ったところで——むこうの街灯の下に違和感を感じた。
「またあいつだ——!」
くそ、いい加減にしろ、気持ちわるいんだよ!
おれは階段を降りて、そいつに向かって行った。さすがに胸ぐらまではつかまないが、それくらいのいきおいで怒鳴ってやった。
「いい加減にしろ! きもいんだよ! いつまでもおれのことを見てにやにや笑いやがって!」
ゴスロリっぽいピンクと白の服。
頭にはメイドがつけるようなカチューシャ。
赤いピンヒール。
そいつはリボンのついた黒いリュックから、なにかを取り出した。
「……、い、いつも、応援してます、これ、わたしが縫った、世界にひとつだけのぬいぐるみです、よ、よかったら——」
ピンク色のうさぎのぬいぐるみだった。
キーホルダーチェーンが付いている、ちいさいやつ。
——もしかして、わるいやつじゃない?
——いや、ここで心を許したら、このあとどうなるか。
——主人公キャラのキャスティングも決まっているのに。
——余計な心配ごとはうんざりだ。ここできっぱり、突き放してやる。
おれはそのプレゼントを奪うようにしてから、地面に叩きつけて、足で何度も踏んでやった。黒くなって汚れたうさぎのぬいぐるみを蹴って、そいつに返してやった。
「これが、おれの気持ちだ。もう関わるな」
——ぽろん
なんだ、いまの音。
スマホの録画が止まったときの音じゃないのか、いまの。
女の肩越し——電信柱の影から、男がひとり出てきた。目深に帽子をかぶっているし、あたりが暗くて顔は見えない。
「ずっと、見てますから」
女はそう言って、電信柱から現れた男とともに去っていく。腕組みすらしながら——。追いかけて殴ればいいのか? 殺せばいいのか? 混乱しているうちに、通行人が増えてきて——、なにも考えられなくなった。
動画は拡散して、おれはキャスティングをすべて失った。
引っ越しもどうでもよくなって、アルバイト生活にもどった。
同期だったやつが、ことごとくアニメに出演していくなか、一年が過ぎた。そのなかでも、以前から仲のよかったやつが、食事に誘ってくれた。
そいつは、どうにかおれの声優復帰につながらないかと、業界人にかけあってくれていたと、そのときはじめて知った。うれしくて涙が出た。おれの主役を代わってくれたのも、こいつでよかったと、きょうは心底思えた。
「じゃ、またな」食事を終えて、店を出た。
「おう、ありがとな」
「落ちこむなって。動画のことなんて世間はすぐ忘れるよ。その後の動きが肝心なんだよ。売れはじめて、疲れていて、普通じゃなかったって、ちゃんと謝ったんだから。復帰できるよ。おまえなら」
そいつは明るい笑顔で言った。
すると——道を急いでいる通行人とそいつが肩をぶつけた。
「すいません」通行人が汗を落としながら謝る。
「ああ、いいっすよ、かばん落としただけっすから」
「あ——もしかして、声優さんの——?」
「あ、いまはちょっと……」人差し指を口にあてて、察してくれのポーズ。
ふたりがぺこぺこと頭を下げあうなか、おれは砂まみれのかばんをひろって、そいつに渡そうとした。ふと、開いているチャックから、かばんのなかが見えた。
財布と、スマホ、ハンカチと一緒に、見たことのあるうさぎのキーホルダーが入っていた。そのうさぎは、暗いかばんのなかで、顔をこちらにむけていた。
〜ずっと、見てますから〜