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足跡さん

 

 放課後の図書室で、おれとりゅうがは怪談百鬼絵巻という本を開いた。普段見向きもしない図書室に入った理由は、女性の裸が描いてあるらしい昭和のマンガを探すためだった。しかしそのマンガはすでに処分されてしまったのか、シリーズの一冊すら拝めなかった。


 豪快な空振りで帰るのもどうかと思い、手に取った本が、くだんの怪談作品だった。おれらしかいない空間だ。こわがって、さわいでも怒られはしない。赤にほど近い夕陽が窓枠にぶつかり、十字の影が室内に不気味な影を描いている。


「ろくろっ首」りゅうががページをめくる。「こんなの、余裕で知ってる」

「八尺さまとかある?」

「たしかもくじに——、ほら、二六ページ」

「うわ」


 麦わら帽子をかぶり、口を裂いて笑う女が見開き一ページのどまんなかに描かれている。


「やっべ」おれは思わず窓を見た。

「ここ二階だぜ。こいつなら窓を覗ける」

「やめろよ」

「ま、こうじたちがグラウンドでサッカーしてるあいだは大丈夫」


 窓のむこうから、クラスメイトたちの遊ぶ声が飛んでくる。そのおかげで恐怖はそこまで感じない。しん……、とした空気だったら、これ以上読むのはちょっと無理だったかも。


「てか、なんでこんな本格的な怪談本が残ってんの? 明らかにこれだけ黄ばみがひどい」

「しらね。捨てたら呪われるとでもセンコーが思ってんじゃないの」


 ほじった鼻くそをテーブルに押しつけながら、りゅうがは次のページをめくる。


「おい、きったねぇ」

「だれもいねぇからいいの」

「その手でページめくんなって」

「呪いだよ、おれからの」

「最悪だろ」


 けたけたと笑いながら、おれたちは妙な高揚感を覚えていった。放課後の小学校。だれもいない図書室。怪談本を目の前に、くだらない思い出を作る——最高だ。どうせあと数ヶ月で中学生になってしまうんだから。いまのうちだ。


「なにこれ」


 ページをめくる手を、りゅうがは止めた。


「ん?」おれは本を覗きこむ。「なんも描いてない」


 これまでは明らかに妖怪らしい絵が載っていたが、ここにきて、ほぼ白紙といっていいページが現れた。


「よく見ろよ、ここ」りゅうがが指をさす。「足跡がある」

「ほんとだ」


 それは泥遊びをした幼稚園児が廊下を歩いたあとみたいな、ちいさな足跡だった。


「——足跡さん、だって」

「なにそれ」


 りゅうがは解説の文字列を読みはじめる。


「ある日、自宅の廊下にあったのは、ちいさな足跡でした。その足跡を見たお父さんは、自分の子供を怒りました。どうして足を洗わないで廊下を歩いたのか、と。しかし子供は言いました。ぼくじゃない」


 それからも足跡は、片足づつ、一歩ずつ、増えていったのです。それは玄関から、お父さんの部屋へ向かっているようでした。どんな薬剤をかけて、どんな硬いぞうきんでこすっても、その足跡は消えませんでした。


 ついに、お父さんの部屋まで足跡がとどいた、その夜。

 お父さんの部屋のドアが、ばんばんばん、とだれかに叩かれました。


 びっくりして飛び起きたお父さんは、自分の子供のいたずらだと決めつけて、布団を放り投げ、ドアを開けました。


 すると、そこに立っていたのは子供の背丈で、しかし顔は九〇歳を超えていそうな老婆でした。


 老婆は言いました。


「わるい子はおやすみ」


 朝になると、お父さんは赤ん坊のすがたで、やすらかに眠っていました。



「ただいま」


 暗くなる前に帰れ、と図書館に来た担任に怒られて、おれは家に帰った。リビングには大っきらいな父親がいた。仕事が早く終わると、四時には家にもどっている。


「宿題やれよ」テレビのリモコン押して、相撲の中継を映してから、父はげっぷ混じりに言った。ソファでだらりと、いもしない女の肩に腕をまわすようにして座るクズの後頭部をバットで殴りたくなった。


 おれは無視して、部屋にもどった。


「そうだ。ちょっとこわがらせてやろう。あのクズおやじ。びびるかな」



 翌朝になると、激昂した父がおれの部屋に来て、近所のニワトリよりもうるさく喚いた。


「おい! なんだあの墨汁を踏んだみたいな足跡! おまえの仕業だろ!」

「しらねぇよ」

「そのぼさぼさ頭をさっさと直して学校に行け! 帰ったら拭くんだぞ! このばかやろうが!」

「足跡さん」ベッドで上体を起こしておれは言った。

「は?」部屋を出ようとしていた父は振り返った。

「そういう妖怪がいるんだよ。あの足跡が、父さんの部屋まで届いたら、父さんは死ぬ」

「——」父はため息だけをこっちに投げつけて、顔をそむけた。「どこで育てかたをまちがえたかな。あいつが早朝からパートに行くからこうなるんだ」


 殴られはしなかったが、それに近しい怒号を浴びることになった。でも、どこか、気分はよかった。一杯食わせてやった——そんな気分が胸に充満していく感覚が、心地よかった。



「そしたらさ、うちの親父、あわてて部屋に来たんだよ」

「やっべ」


 きのうとおなじような雰囲気を醸す図書室で、りゅうがは顔をひきつらせた。


「おまえの親父さん、町内会でもマジでこわいってうわさになってるよ。よくそんないたずらする勇気あったな」

「そりゃもう、怒鳴られたけどさ。でもなんか、勝った気がしてさ。ちょっと快感だった」

「でもおまえ」りゅうがはけたけたと笑って、「帰ったらすぐ掃除だろ?」

「まぁ、そこはね? しかたないけど」

「てか、深夜に墨汁踏んで、廊下にこっそり足跡つけるなんて、よくやるわ」

「あいつが困れば、それでいいんだよ」ふわ……、とあくびが勝手に出た。

「そこまできらいなのな」

「ああ。大っきらいだね。少年院に入ったあげく、大人になっても前科作った父親なんか、大っきらいだ」



 ともあれ家に帰ったらすぐに足跡を掃除しなければならず。自分の所業とはいえ、床にこびりついた墨汁を拭きとるのには、なかなか苦労した。


 玄関から数歩分ではあったが、足跡を消して、まっさらな廊下にもどさなければならない。どれだけ床に這いつくばって、どれだけ肩を使ったか——。膝が赤くなって、右の腕が乳酸まみれだ。


「あといっこだ」


 最後の足跡をぞうきんでこする。しかし、中央あたりにこびりついた黒いシミがなかなか取れない。


「やっぱ最初に付けた足跡は手強いか」


 とにかく力を入れて。

 使えるだけの洗剤を使って。

 格闘すること、数十分。


 自分の足跡はたしかに消えたが、ぞうきんを当てるほどに、別のちいさな足跡が浮き彫りになっていった。まるでマトリョーシカのように、足跡のなかから、足跡が現れた。


「これ——おれの足跡じゃない」


 その足跡は日毎に、一歩ずつ、増えていった。

 おれは日毎に、いっこずつ、顔やからだにあざをつくった。

 母さんはビールばっかり飲んで、助けてくれない。

 担任がどこかに連絡してくれたらしい。

 児童なんとかっていう人たちが家に来たりした。

 でも、そんなの無視するみたいに、足跡は増えていった。

 ついに父の部屋まで足跡が届いた、その夜。

 ものすごい音がして。

 ものすごい怒鳴り声がして。

 ——すっ、と静かになって。

 翌朝になると、父はいなくなって。

 おれには弟ができた。







 〜足跡さん〜







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