ハッピーノーボーダー!
「アフリカって『ナイル文明』と『アラブの春』くらいしか習ってない気がする」
ルツがなんとなく口にすると、ユーリに不思議がられた。
「『習う』って何」
だよね。
「えーっと。『聞いた』ってこと」
違うけど。説明できないもん。
「そっか。『アラブの春』は、結局なかったことになったよな」
「「へ?」」
「たくさんの国々が長期政権を倒して革命的に民主化されるかに見えたのにさ。実際は独裁的な国に戻ったんだよ。民主主義って解じゃないのかもな」
「ユーリ、ここは今、民主主義?」
森羅が尋ねると、ユーリは笑った。
「おいおい、何言ってんの。決まってるじゃん。ま、AI統治主義って揶揄もあるけどさ。それも含め、選挙で選ばれた人が決めてるんだから。で、話を戻すと、アフリカの国々も今はちょっとずつ変わり始めてる。イスラム教の戒律がゆる〜くなって、自由恋愛が主流になってきてる」
あ、れ? 国境の話じゃなかったんだっけ。
森羅が「イスラム教、カンケーあんの?」とユーリに尋ねている。
「あるある。おおあり。イスラム教ってのは、ただの宗教じゃないんだ。生活であり法であり習慣であり。要するに生き方みたいなものだからさ」
それでも国境にまで響くっけ。イスラム教って奥さんを4人まで持てるってことしか知らんし。
そんな、国境とはほど遠いことを思っていると、ユーリは空中の画面にゆっくり回る地球を表示した。海と南極は白。陸地が赤と青に塗り分けられている。連邦加盟国とそうでない国に。中近東の国々が少しだけ赤。他は青。全体的にほぼ青。
「今、2297年は、欧米中心にそこら中にデザイナーベイビーがいて、そうでない国々でも富裕層や支配層はデザイナーベイビーだらけ。遺伝子で最も重視されたのは、疾患。次は知能、外見と続く。その次は、精神が強いってところ。社交性よりも明朗さよりも人々が望んだんだ。つまり、デザイナーベイビーは精神的に強くてタフ。相対的に賢くて、どんどん出過ぎた杭になっていく」
ふーん。
「人は強い者に憧れる。強い者は強烈なカリスマ性を持つ。そんな美しくて聡明で強いデザイナーベイビーの女性達がヒジャブ(イスラム教の女性が髪を隠すために被っている布)を脱いだ。まあ、イスラム教が多い中近東の辺りは、デザイナーベイビーじゃなくても美人ばかりだけどね。で、男女平等を唱えた。もちろん強烈な弾圧に遭った。イスラム教はもともと戒律に厳しい国とそうでない国があってさ。ゆるい国から変わりつつある。もう今じゃ、あの地図の青い国のほとんどの都市部では若い女性はヒジャブを被っていないんだ。そこから自由恋愛が始まった。家長絶対だった家制度がぐらついている。子供の結婚相手は親が決めるものだったから」
「あの〜、国境は?」
ルツは痺れを切らした。
「遠回りで悪い。背景が大切なんだ。デザイナーベイビーが増えて、見た目民族不明の人が増えた。その人達はイスラム圏でも支配階層にいる。合理的な考え方で、実はイスラム教に固執していない。もう1つ通貨の問題がこれに加わる。ドルと元とユーロと仮想通貨」
@_@。ルツの頭はオーバーヒート。見えない煙を出している。
それでもユーリは説明を続けた。
「世界的には国家間のやり取りはドル。けど、もともとアフリカはヨーロッパの植民地だったこともあって、ユーロが強かった。ここにインフラ整備や企業進出で中国の元が強くなった。もう1つ。アフリカにはレアメタルがある。それには国の高官や怪しいアウトローな団体がからんで、仮想通貨が発達した。MOLLYアプリなんてのも蔓延った」
モリーアプリ? でも、2226年だったら、森羅がアプリを作ってから約200年後。まさかね。
森羅も引っかかったのか、ユーリに説明を求めた。
「MOLLYアプリって何?」
「仮想通貨送金システムだよ。もともとは休眠口座を探して仮想通貨を送金するアプリだったらしい。それにいろんな手が加わって、100個ぐらいアレンジ版が存在する」
「そーなんだ」
ルツが森羅を見ると、目が泳いでいた。
黒。森羅は、休眠口座を探すアプリを作ったって言ってた。普通の銀行口座じゃなくて仮想通貨の口座? めちゃくちゃ犯罪の臭いがするんだけど。
「伝説があってさ。これも日本人が作ったアプリだって」
ん?
「『も』?」
ルツは聞き返す。
「仮想通貨を発明したのは、サトシ・ナカモトって偽名が残ってる。これは日本人の名前らしい。MOLLYが日本人って根拠は、日本と取引してたとこに残ってたからって。どっちも日本人が消滅したから分かんないよな」
ここにいますからー。モリー。
「国がなくなったのは?」
森羅が話を戻した。
「国境は邪魔でしかなくなっていたんだ。どこの国境も何かしら領土を巡ってのトラブルがあったし、パスポートや金銭のチェックがある。国ごとに制度の違いはあっても、もう昔とは違って、連邦がかなり画一化した」
「「へー」」
「特に、大昔、アフリカに国境とか領土なんて考え方はなかったって説もある。で、イスラム教がゆる〜い国は内部から、イスラム教の戒律が厳しい国は連邦を脱退するか、あるいは、連邦政府直轄って道を通って、結局、国境がなくなる方向に進んでる」
「直轄? トルコみたいに?」
森羅が何かにひっかかった。ルツはもう、右の耳から左の耳に言葉が抜けていく状態。
「イスラム教の戒律が厳しい国の、合理的な考え方の人達が気づいた。自分達で国を変えるよりも外部から変えてもらう方が簡単じゃないかって。なんだかんだいって、まだまだ軍事政権だったりするからね。数カ国が連邦政府直轄を申し出た。理由は『弾圧』。事例はいくらでもあった」
「「……」」
「今、その段階。じゃ、この部屋のまま、2302年に進むよ」
ぱっと部屋が模様替えされた。冬。外に雪が降っている。壁に埋め込まれた暖炉がガラスの向こうで炎を揺らす。リビングの隅に2m以上の高さのクリスマスツリーがあった。生もみの木。
触りたい。
ルツはもみの木の傍まで行って触ってみた。指にツンと感触があった。
VRなのに。不思議。
「EUで最初に国境を捨てたのは、自由の国フランス。それによってスペイン、オランダとドミノのように国境がなくなっていった。国境は2つの国の間にあるからさ。EUに加盟していないのと同じく、イギリスは国境を守っていた。けどさ、今、国境があるのはイギリスの中でもイングランドだけ。王国だから。ヨーロッパの他の王国はこだわらなかった。連邦に加入したままでいることを優先したんだ。けど、アラブにあるたくさんの王国は国境に敏感だった。エネルギーの中心は次世代に移ったといっても、まだ石油は重宝されていたから」
そこで森羅が「アフリカの国は?」と質問する。
なんとなく聞いていたルツは、どこまで話が進んでいたのかも迷子状態。
「前に話したように、合理性を考えて柔軟に動いた国もある。そうじゃない国は、アラブの春は一過性。表向きは民主主義を装っていても、実情は軍事政権だったり半軍事政権だったりした。で、その点を『武力による抑圧』ってことで連邦政府に民衆が訴えて、連邦政府が入り込む。結果、もともとヨーロッパが決めた国境を用いてたアフリカ諸国は、あっさり国境を捨てた」
欧米が主役ってことは分かってるけど、アジアも知りたい。大きいよ? アジア。
「アジアは? 中国とかインドとか。日本人はいなくても、日本の島」
「日本はもう、日本人がいなくなった後だから省くよ」
「「……」」
省かれちゃった。
「中国は最初、自分達の国の上に連邦政府ができるところに引っかかった。中国は太古から、自国が最も優れているという考えだから。連邦政府ができてたときに連邦を脱退してたんだよ。でも、貿易のときの不都合で連邦に戻った、今は国家という成り立ちを捨てた。インドや他の東南アジア諸国は世界の流れに従った」
今いるのは、2302年12月21日。さっきまでは2296年。6年は長い。
せーの、「はい今日から国境ありません」って感じじゃなかったのは分かった。いーんだよね? そこだけ分かれば。確か、連邦内の国々が国家って形態をなくすのは2303年。
「もう年の瀬じゃん? だったら、2303年の1月1日から国がなくなるの?」
とルツがユーリに尋ねた。
「違う。最後の最後まで揉めてる国があるんだ。イスラエル。キリストの聖地とユダヤ教の聖地とイスラム教の聖地がある。イスラエルとしては連邦に残りたい。気がつくと紛争に巻き込まれてるとこだから、連邦からの支援なしではやっていけない。でも、先に連邦を抜けたアラブ諸国は、イスラム教の聖地があるから抜けてほしい。今、この段階」
ユーリが2302年12月21日に飛んだ理由が分かった。昭和の家庭でなんとなくTVが点いていたように、宙に浮かぶ画面ではなんとなくニュースが流れていた。そこに、美しい国籍不明の男か女かも分からない人が映った。連邦の新総裁だった。イスラエルとの決別を語っている。
イスラエルは連邦を離れた。
「エジプトとイスラエルの国境は『無境の境』です。いつでも亡命者を受け入れます」
総裁は語っている。そして、イスラエルが連邦を離脱するのは2303年3月1日と発表された。
ユーリは赤と青で陸地が色分けされた地球の立体映像を表示する。
ヨーロッパではイングランドだけが赤。そして、エジプトのあたりは青、そこより東には、多くの赤色が帯のようにあった。東南アジア辺りは青。
「外に行こうぜ。みんながお祝いしてる」
3人でもこもこの帽子を被って、コートを着て1階に降りた。建物のエントランスの自動ドアが開いた瞬間、人々の歓声が聞こえた。
「「「「ノーボーダー、ノーボーダー、ノーボーダー」」」」
「「「「イェーイ」」」」
大騒ぎ。大通りでは誰彼構わずハイタッチ。誰かがシャンパンを振る。他の誰かは歌を歌う。クラッカーがパンパンと音を立てる。トロンボーン型のクラッカーを持ったユーリは、ルツにクラリネット型をくれた。森羅にはトランペット型。
「せーの、ハッピーノーボーダー」
「「ハッピーノーボーダー!」」
パン パン パン