キスより先もいいんだよ
森羅の部屋で二人きり。それは今までもよくあった。けれど、状況が違う。
夜桜。古の都、奈良。
ルツの気分は額田王。やんごとなき兄弟2人に愛された歌人である。万象に告られたルツは「あの方に求められても、私の心に住んでいるのは貴方なのです」という目で森羅を見つめる。森羅の気持ちを確認してもいないのに「私のために争わないで」的な気分になっていた。景色がリアルで気分が上がり過ぎてしまう。
ベッドを背に並んで床に座り、訪れた沈黙の間。
来るかも。キス。それから……。
「なあ、ヒメさんっていくつくらいだろ」
森羅の言葉にルツはがっかりした。「どんな場所でも、オレはルツがいればいいんだ」と言われたらどうしようと思っていたのに。
「20代後半?」
「オレさ、60ぐらいかもって思う」
「おい、失礼にもほどがあるだろ」
思わず「なんでやねん」とツッコむ。
「マジで。オレらの時代の年寄りって、戦国時代とかに比べると若いじゃん。明治時代くらいと比べても」
「ってゆーねー。知らんけど」
「医療が発達して、歳取らないンじゃね?」
「整形しまくりってこと?」
「じゃなくて。体ごと歳取らないって技術。リモート会議の人ら、同じくらいの歳だったじゃん。研究機関とかって、じーさんの教授とか博士とかいそうなのに」
「そだね。年取ってたおばさん、ヒジャブ被ってた人だけだったね」
ルツはふと思い出してポケットからスマホを取り出す。
「何? ネットなんて繋がらねーし」
森羅に言われて「そーだった」と気づくルツ。
「ヨハネスブルグってどこ」
「地図アプリだけだったら開くっしょ。検索できなくても。南アフリカ」
「お、開いた。へー」
もう1つ調べようとしていたワードがあったはず。けれど、ルツは名前を忘れてしまった。
「ね、ね。日本人と一緒に歴史から消えたって言われてたのあったじゃん」
「ヒッタイト」
「おおー。それそれ。何」
「ナニー、ヒッタイトを説明して」
森羅は適任者にパス。
「紀元前16世紀にアナトリア半島の大部分を領土とする王国を築いた民族です。鉄を作る技術を持ち、強大な勢力を誇っていましたが、紀元前1180年ごろに突然姿を消したとされています」
「ナニー、アナトリア半島って?」
説明されても、ルツの知識は貧弱すぎた。
「1000年前でしたらトルコという国です」
「あ”ー。分かったような気がシマス」
森羅ってなんで知ってるんだろ。
「ね、森羅。会話って全部聞かれてるのかな」
「は?」
「ほら」
ルツは天井を指差して『ナニー』と口パク。
「んー。どーなんだろ。わかんね」
「さっきうちら、ここへ来る前に森羅がやってたこと話してたじゃん」
「ああ」
「もう、絶対喋んない。森羅もダメだからね」
「分かった。けどさ、別に大丈夫だろ」
「なんで」
「オレ、悪いことはしてないはず」
「どの口が言う」
警察に追われたくせに。
ルツは、森羅を追って無我夢中で幸川に飛び込んだ自分を「偉い」と心の中で褒めた。あのときジャンプしなかったら、ルツは森羅のいない世界で生きることになる。そんなこと考えられない。
でも、Qちゃんには会いたいな。森羅のことをQちゃんと喋ってるときが1番楽しいもん。それからお母さん。
そう思ったとき、ルツがタイムマシンで1番したいことが変わった。Qちゃんと母親に無事を伝えること。森羅の闇アプリの件は2番になった。
「な、横浜駅の位置ずれてたよな?」
いつも話が飛ぶ。こんな風に。それが森羅。
「ちょっとじゃん」
「いやいや。最初、横浜駅の真ん前が映ってたじゃん。あり得ないくらい遠いって」
「気にならない程度だよ。1000年だよ。地球の軌道とか言ってたし」
「もしルツが帰るなら気にしないと。空中に放り出されたり、土や海の中じゃ困るだろ?」
「森羅が帰んないなら帰んない」
「ばーか」
いい感じの会話に進みそうなところで、ドアがノックされた。
「「はい」」
「失礼します」
コノハナサクヤヒメさんは、パッキングされた着替えや歯ブラシ、靴などを持ってきてくれた。
「「ありがとうございます」」
研究室で夕食のときに注文していたものが、もう届いている。早い。
「未成年と周りに分かると面倒なんです。申し訳ないけれど、出歩くときはシールドを起動させてね。ルツはまだいいけれど、森羅の顔は左右非対称で注目されやすいから特に」
森羅は左目が奥二重で右目がはっきり二重。眉の形も左右で少し違う。
ルツはずっと気になっていたことを聞いた。
「この時代の人は、左右対称の顔なんですか? 私達んとき、ほとんどの人がそんなことありませんでした」
顔が整い過ぎてる。AI美男美女のよう。
「厳密には左右対称じゃなくても、はっきり分かるほどの人はいないんです。私たちは遺伝子操作で作られて培養されるから。産道を通ることもありません。後の生活で歪むとしても、唇や眉間のシワくらい」
遺伝子操作。だから美男美女。納得。
「デザイナーベイビーなんですね」
森羅は私達の時代の言葉を遣った。驚いたことに、その言葉が遣われているようで、コノハナサクヤヒメさんの唇は「デザイナーベイビー」と動いていた。
「ええ。知能、運動能力、精神、外見が最適化されたデザイナーベイビーです。連邦以外の国では、動物と同じように自然交配して激痛出産して家族を形成していますが」
森羅は、更に質問する。
「じゃあ、連邦ではどうやって家族になるんですか?」
「特別な資格を持ったカップルが子供を育てます。それはそれは大変なスコアが必要なのよ。選ばれるなんて名誉」
「「スコア?」」
スコア? 名誉?
つまりは、毒親なんかに育てさせないよーってのの最たるものなのだろうとルツは想像する。
分からないことだらけ。優しいコノハナサクヤヒメさんは、丁寧に説明してくれた。
「様々なことをチェックされるの。特別な何かをするときのスコアは、えーっと『月に行きたい』とか『宇宙ステーションに滞在したい』とかみたいなのね、それは、社会奉仕での貢献度や成果で貯まるんだけど、それ以外も加味されるのよ。社会性、忍耐強さ、ポジティブ思考、向上心、優しさ、包容力、カップル間の愛情の継続性。子供を育てる資格は、普通の人じゃムリなんです」
びっくり。遺伝子操作されて生まれた優れた人の中のさらにスゴイ人。
ルツは自分の両親を頭に浮かべ、子育てなんて誰でもできそうなのにと思った。
そういえば、電車の話のとき、未成年が住むエリアは決まっていると聞いた。ルツは尋ねた。
「未成年はどこに住んでるんですか?」
「連邦に限って言えば、主にヨーロッパ、北アメリカ、アジア北部です。四季がある、自然豊か、災害が少ない、連邦以外の国々から離れている、など条件があるの」
未成年であることを隠すシールドは、襟元に着けるものだった。他の人から別の顔に見える。本人には着けている感覚が全くない。
「犯罪者が使ったら逃げられますね」
と森羅は危険な発言をする。
「犯罪? ほとんどありません」
「「え」」
「まず、デザイナーベイビーを作るとき、極端な攻撃性が省かれます。次に、成長段階でルールからの激しい逸脱をした者は消去されます。それから、汚職や窃盗などの多くは金銭的な欲が原因でした。今は原因となる貨幣経済がありません」
待った待った待った待った。さらっと怖いこと言わなかった? 消去ってなに。
「それに、ナニーみたいにそこら中に警備がいるから大丈夫。シールドを使って人間の目を誤魔化せても、AIの識別は誤魔化せないわ。安心して。事件を起こすような人間はAIが消去してくれるから」
怖いよー。何が怖いって、言ってる本人が怖さに気づいてないことだよー。
そして最後にコノハナサクヤヒメさんは「あ、そーだ」とドアの前で振り向いた。
「2人はカップル? じゃなくても、未成年はセックス禁止です。我慢できないならナニーにVRを用意してもらって」
「違います!」「とんでもありません」
「とんでもありません」と否定したものの、実は、VRを体験したいと思ったルツだった。1000年後の技術は素晴らしい。白い小豆状の翻訳機は本人の肉声で聞こえてくる。1cm四方の視覚をバーチャルにするシール、リモート会議の立体映像。このクオリティで森羅とのあんなことやこんなことを体験したら、間違いなく沼る。ゲーム機の小さな液晶画面での体験すら夢のように甘美だった。
唇の感触、分かるかも……。
部屋に森羅と2人きり。セックス禁止なんて言われた後、自分用に運ばれてきた服や小物を持つ手が緊張で震えてしまう。そんなルツに反して、森羅はマイペース。次々と開封して部屋をゴミだらけにしたのだった。しかも。
「ナニー、掃除ってしてくれるの?」
図々しいことこの上ない。
「了解しました」
即、部屋に高さ1mくらいの、管が3本ほど着いた物が入ってきた。森羅が散らかした物を管が伸び縮みして素早くまとめ袋に入れて圧縮。服をクローゼットにかけ、シールドをサイドボードに置き、歯ブラシやヘアブラシは洗面台に持っていく。最後、足の部分の掃除機が作動して、部屋中を綺麗にして出ていった。
「ヤバ。オレでも綺麗な部屋に住めるかも」
森羅は感動している。
こんな状況で二人きり。家族がいつ帰ってくるか分からないような家じゃない。しかもセックス禁止と言われたのだから、その手前まではOKなはず。
森羅、心の準備はばっちりだよ。もう高校生なんだよ。
「なーなー。これ、見て見て。オレ、金髪イケメンなってるし。ハリウッドかよ。ネトフリかよ」
アホ森羅はシールドを起動させ、スマホのカメラアプリで自分の顔を見て喜んでいる。
むっ。
「おやすみ、森羅」
「え、もう行くの?」
「♡_♡」
「ルツもやってよ」
森羅はルツのシールドを稼働させようと、ルツの制服のブラウスの襟元に触れる。
びくっ
ルツは反応してしまう。ばくばくと心臓が暴れだす。
リップ、塗り直しておけばよかった。
「お、すげ。エマ・ワトソンんなってる」
「ええーっ」
「ほら」
ルツが見せられたスマホ画面には、エマ・ワトソン。この姿では、ちょっとジェラシー。森羅が他の人とのキスを味わってしまうから。それに。
ハリウッド俳優じゃなくて、森羅とキスしたいの!