案外近くにある「真実の愛」
婚約破棄は、制度上ありはするが、基本的に使われる事のないものである。
家と家との結びつきとして婚姻を果たす貴族にとって、破棄だなどという強い対応は行われることが殆どない。
通常は白紙撤回。悪くとも解消。
その話し合いをしながら裏では次の婚約話を進める、というのが常識である。
いや、そもそも婚約の解消や白紙撤回そのものが珍しいのだが。
しかし昨今、娯楽小説で婚約破棄を混ぜ込んだものが流行しつつあり、若い世代は真実の愛のために親たちに定められた婚約を破棄するのが至上と思いつつあるという。
危険である。
なんちゅうもんを流行らしたんだ、どこの誰が発端だ、と、親世代は遺憾に思った。
しかし一度流行ったものは止められない。
純白の布にインク一滴が垂れたのをなかったことにすることが出来ないように。
聞けば隣国でも同じようなブームが来ているとか。
益々頭痛がする話である。
夢見がちな娘を抱えるファーンズワース公爵家の当主もまた、頭が痛い展開になってきたと思っていた。
恋愛小説を読み漁る娘のことだから、真実の愛を探したりしないだろうかと不安になったのだ。
それで、妻に「それとなく確認してみて欲しい」と頼んだのだが。
「カリーナは大丈夫そう……か?
いや本当か?あの子は夢見がちだろう」
「それが全く。どころか、婚約者のリアンくんの惚気話を聞かされましたのよ。
わたくし口からはちみつが出そうになりました」
「リアンくんの?あの堅物の?」
リアンは婿養子としてこの公爵家に入ってくる、侯爵家の次男である。
いかにも堅物と言った様子の、眼鏡がよく似合うタイプの美男子だ。
幼い頃からロマンティストだった娘、カリーナが家のことを全て出来るとは思わなかった当主は、婿に分担を求め、結果リアンに決まった。
そういう関係でリアンは勉強漬けのはずで、カリーナはそれを少し嫌がっていたように思っていたのだが。
「最近は時間を取ってカフェテリアでよくお話するようです。
二人の味の好みはよく似ているようで、二人で甘いものを食べている時に幸福感を感じているとか。
今度の休みは午後がちょうど空いているからリアンくんおすすめのケーキを持ち寄ってお茶会だそうですわ」
「急接近だな」
「それが、珍しい話ではないのだそうです」
カリーナが言うには、真実の愛とは遠くにあるのではなく、近くにずっとあるものなのではないか?と考える令嬢令息のほうがずっと多いのだそうだ。
真実だのなんだの言ってはいるが、要するは愛なのだ。
己を知っている人だけが抱く感情、しかも親密なもの、と思えば対象は限られる。
そして、隣国と違い、女子と男子で通う学園の違うこの国では、学園での出会いは友情に限られてくる。
男女の出会いの場はかなり限られているのだ。
そこで女子同士の秘密の恋に目覚めるものも少数ながらいたが、そこに性愛は発生しない。
ただ手を取り合い、見つめあい、無邪気に囀りあうようにおしゃべりをする。
子供の戯れのような、羽のように軽い恋が一部で発生しているけれど、と、カリーナは少し困ったように言っていた。
要するに、カリーナもその対象として見られたことがあるのだろう。
妻も深くはカリーナに訊ねなかった。
さて、カリーナは真実の愛の娯楽小説を読みはしていたし、こんな恋も素敵ねとは思っていたが、憧れはしなかった。
だって、どう考えても捨てられる側にしかなりそうにないのだ。
家を継ぐとか継がないとかはこの際捨てるとして、リアンへの愛情がないわけではない。
そしてカリーナは自覚があるが執念深い。
奪われたと知ったら、その時は。大きくはなかったはずのリアンへの愛が燃え盛り、悪役のような振る舞いをしてしまうだろうと自分でも分かっていたのである。
だから祈るのはリアンを欲しいと思う令嬢が現れませんように、リアンがなびきませんように、であった。
それが、最近はリアンから積極的に声が掛かる。
学園からの帰りにあり、生徒たちもよく利用するエリアのカフェテリアで一緒にお茶をして帰ることが増え、毎週末の手紙にも、さりげなく花が一輪添えられている、なんてことも多くなった。
カリーナは急にどうしたのかしら、と思うと同時に、ちょろくも絆されてどんどんリアンへの気持ちを大きくしつつあった。
もう引き返せない。否。引き返す必要などない。
リアンへ抱くこの感情こそ真実の愛なのだろうと思い始めているのである。
という娘からの語りを聞いた妻の報告を聞き終えた当主は安心感からソファへと思い切り体を沈めた。
「そういうわけですので、二人の愛をとにかく燃え上がらせて、運命の恋とか愛とかそういうのにしてしまいましょう。
あなたも協力してくださいますわよね?」
「もちろんだ。
しかし、リアンくんは何をどうしていきなり態度を変えたのだろうな」
「さぁ……?」
リアンの家は、外交官を多く輩出する家である。
その関係から他国の情報が集まるのだが、そこで一つ、従兄からイヤな話を聞いたのだ。
真実の愛だとかいうものに惑わされ、婚約破棄をした結果、婚約者に刺された他国の王子という話である。
無論、その場にいた者には口止めがされたが、誰もがしっかり黙っているわけではない。
ひそやかに話は漏れたし、王子は結局亡くなった。
従兄はこう言ってきたのだ。
「お前はそういう色ボケしないと思うけど、逆に色気がなさすぎるからな。
いいか、お前の婚約者ってちゃんと可愛い子なんだから向き合って愛情持てるようにしろよ。
ただでさえ入り婿なんだし、大変だろ」
言われてみればカリーナに愛情はあるが、きちんと示した事はなかったな。と、リアンも納得がいったのだ。
それで、夕方に翌日のデートの申し込みをしてみたり、庭師に頼んで花を見繕ってもらって一輪を手紙に沿えたりと、カリーナにアピールしてみることにした。
最近のカリーナは、なんというか、熱っぽい目をしている。
なので問題ないのだろうとリアンは考えている。
そして、その熱っぽい目で見つめられることが好きで、カリーナの甘い声色も好きだと改めて発見したのが儲けものだとも思っている。
夢見がちなところも可愛らしいと思わなくもない。
その夢を欠片でも叶えた時は、目がキラキラするのが単純で可愛いとも思う。
リアンは自身が現実主義者であることは知っている。
しかし、ロマンティストが悪いとは思わない。
少なくともカリーナは現実を見ている部分とロマンティストの部分がハッキリ分かれているから、付き合いやすい。
そういう点でも理想の伴侶と言える。
これまでは婿としての教育が忙しくてあまりきちんと向き合えていなかったが、最近は余裕が出てきた。
なので、今後はカリーナとの絆を深める方向に努力するつもりだ。
真実の愛だの恋だの、そんなまやかしに横取りされてはたまらない。
これでも一応、利益だのなんだのをすっ飛ばした部分として――要するに、一人の男として、カリーナを愛しているので。
さて、今日送る手紙にはどんな花を添えようか。
庭先に出ながら考えるのは、カリーナのことで。
自分たちの関係を深めるきっかけとなった真実の愛とはまさに自分たちの愛のことだと、リアンは疑ってもいなかった。