絶望ごっこ(2)
僕には関係ない話だけど、最近、宇賀神さんが愛川たちに目を付けられているような気がする。
この前の席替えの一件。あれ以来、休憩時間度に机に寝そべっていると、彼女の陰口を聞くことが増えた。調子こいてるとか、生意気だとか、そんな感じの言葉が八瀬達とはまた別の、愛川中心の女子グループの中で囁かれていた。
そして、学のない彼女たちが広めていくその陰口は、風邪のようにクラス内で伝播していった。幸い、愛川にも歯向かうぐらい負けん気の強い、女子バスケ部の吉田杏奈が宇賀神さんをかばっているから、いじめられるような事態には発展していない。だけど、クラスを取り巻く雰囲気は、席替えの一件から確実に変化していた。
そして、僕しか関係のない話なのだけど、席替えでの一件で僕のいじめもエスカレートしていた。
給食後にトイレを洗うブラシで歯磨きをさせてもらったり、着替えようとした体育着に腐った牛乳が付着していたり。
致命的だったのは、板書を取っていたノートが全部破かれてごみ箱に捨てられていたことだ。僕には板書を写させてくれる友達なんていないから、これで教科書とワーク以外ではテスト勉強が出来なくなった。詰みだ、と思った。このままじゃ、スマホまで失ってしまう。
というより、失ってしまうのだろう。クロ曰く、僕は努力の出来ないゴミで、今まで頑張ってきたことがストレスを抱え込みながら生き続けることだけなのだから。
朝、目覚ましのアラーム。おはようを告げる太陽。起き上がると、いつも通り吐き気と腹痛を自覚したから、祈るような気持ちで体温計を肩に。数秒待って小さい音を立ててそれは鳴る。平温。つまりは仮病。最近クロは他の観察者のことを構っているらしく、他の家に泊まっているらしいから、朝は静かだ。
だから、少し、ほんの少しだけだけど、その静けさが寂しいと思った。僕を傷つけるようなことしか言わないし、時々本当に殺してやりたいと思うことはあれど、彼はこの世界で唯一、僕の話を聞いてくれる存在でもあった。
「……夢生? まだ寝てるの? ご飯できたけど」
「……ごめん、今行く」
ママに現実に戻された僕は、一階に降りて味のしないトーストを食べた。そして、歯を磨くために歯磨きに手を伸ばして。
僕は鏡に映った『自分の頭と定義されるべき箇所』を見る。
そこに映っているのは、紛れもない化物であった。顔はすでにスライムのようにどろどろになっており、目や口、鼻、耳などは全て福笑いでもやったみたいにバラバラの位置にある。
身体つきもおかしい。肌色という言葉が差別用語として扱われることの証左のように、僕の肌は肌色ではない。映画に出てくる、肉が腐ったゾンビのような紫色で、肌全体が瘡蓋のようなものに覆われている。そして、頭髪は全て白髪になっており、女みたいに腰ぐらいまで伸びている。羅生門に出てくる、あの老婆みたいな感じ。
だから僕には、肌全体にあると言われているニキビ面も、ぼさぼさの髪も、無精ひげも、どこに生えているのか全く分からなかった。指毛も腕毛も、良く分からない。分かるのは、僕の目に映る自分は化物で、醜いと言うことだけ。
なのに、どうやって清潔感や身だしなみに気を付けろというんだ?
9
その日の二限目は自習だった。
どうやら、担当の先生が風邪を引いたとかなんとかで急遽休みになったらしい。大人なんだから体調管理ぐらいしっかりしろよと思わなくもないけれど、若手の教師だし仕方ないんだろうか。
そう思いつつ、僕は適当に問題集を広げて勉強をする振りをする。自習と言われても、テスト期間も近くないから全く集中できない。最近書いている小説の続きを考えるのにも飽きて顔を上げると、ガイ・フォークス・ナイトが鈴木に何やら話しかけていた。
「なぁ、鈴木……」
……何故か、僕の方をチラチラと見ながら。
そういえば、最近鈴木とは校舎裏で顔を合わせていない。それも当然で、陰キャパンチングダウンもやっておらず、ただ僕が校舎裏や四階のトイレでいじめられているだけだからだ。鈴木はそれを知っているくせに、僕を助けようともしない。八瀬たちが僕を連れて行くのを見ても、そそくさと知らんぷりして下校するだけだ。
それを思うと、段々と腹立たしさが湧き上がってくる。お前だけこの地獄から逃げ出そうなんて、絶対に許さないからな。
なんて思っている時、ズボンに入れてあるスマホがブルルと振動した。マナーモードになっていないのか、中には着信音が鳴っているスマホもある。普通の授業だったら没収されているところだ。
……いや、待て。これ、クラス皆に送信されている?
気になってスマホの画面を開くと、やはりLINEだった。皆に届いているということは、クラスLINEだろう。送信したのは鈴木で、そこにはあるサイトへのURLが貼られている。
なんだこれ? ただ、どこか見覚えのあるURLだ。たしか、これは小説サイトのものだった気がする。
そう思いながら、特に何も考えずそのサイトをクリックしてみる。
その瞬間、僕は絶句した。
『アナザー・パーソナリティ 作者 綿神むう』
それは、僕がこの前投稿した小説だった。いきなり送られてきたこのURLに、クラスのみんなは戸惑いを隠せず、コソコソと近くの人と話している。ただ、中にはペンネームで気づいた人も居るのか、チラと僕の方を伺う人も居た。
そして、当事者のはずの僕は、震える右手で口元を触りながら、どうしてどうしてと頭の中で唱えることしかできなかった。
鈴木が、八瀬に僕が小説を書いていることをばらしたのか? そういえば昔、僕はあいつに小説のアカウントを教えていた。もし、あいつがそのアカウントをフォローしたままだとしたら……。
そして、僕はさらなる地獄に叩き落とされた。
「え、鈴木ぃ? これ何のURL? なんか、小説が貼られてるんだけど」
「……えーと、これは……が書いてる」
「えっ!! 誰が書いてるって?」
「綿貫夢生が書いてる、小説です」
「だってさ!! 皆すごくね。この教室に物書きが居るんだって」
ガイ・フォークス・ナイトのその声に、クラス中が一斉に僕のことを見る。皆、仮面を被っているから、どんな表情を浮かべているかは分からない。
けど、想像は出来た。滑稽とか馬鹿にしてるとか、そんな感じ。仮面によっては口元が見えるタイプもあり、そいつらは基本中途半端に口元を歪ませてニヤニヤしている。隣にいる愛川はいつものように僕を馬鹿にし食った声で。
「もしかして、これってうちらのクラスから小説家が生まれるってこと?」
「かもな! でも、どんな内容か皆も気になるよな……。そうだ! 綿貫さ、みんなの前で読んでみろよ!」
「……え、そんな」
「できるよな、綿貫?」
「……はい」
そのガイ・フォークス・ナイトの声に反抗する術なんて知らない。知っていてもできない。仮面で隠れているはずなのに、誰かの目、好奇の目が刃物のように体中に突き刺さって、心臓がぎゅっとした。でも、従うことが僕の生き方だから、立ち上がる。
でも、そんな僕にもまだ、救いの手が差し伸べられる。
「やめなさいよ、こんな悪趣味な事! そもそも、今が授業中だって気付いて……」
そう声を上げたのは宇賀神さんだった。僕の、僕だけの天使は未だに僕をかばってくれる。その小さい背丈に似合わない激しい怒気を孕んだ声で、八瀬に怒鳴ろうとしてくれていた、けれど。
端正な顔を象る、そのアーモンド形の目。その目が僕の視線と重なった。その瞬間、彼女の声はトーンダウンして、目を伏せた。表情に怯えが染みついていた。
そんな彼女を見て、愛川が囃し立てるように、愉快な声を出した。
「えっ、宇賀神さんどうしたの? 何か文句ある? 聞こえなかったんだけど」
「……だから、授業中にこんなの、よくないだろ」
「え、何? 本当に聞えないんだけど?」
そんな愛川の声に、取り巻きもくすくすと笑う。声を萎ませた宇賀神さんはこれ以上はもう何かを言う気も失せたのか、俯いている。
「じゃあ邪魔も居なくなったことだし、綿貫、やろうか」
そうガイ・フォークス・ナイトに制服を引っ張られ、僕は教室の前へと歩かされた。それは、夢で父親に絞首台へと連れられた時と、何となく似ている気がした。教卓の前に着く。仮面の集団のどろっとした血液みたいな視線が、身体を覆いつくしていく。
「じゃあ。綿……かみ? むうで『アナザー・パーソナリティ』です。どうぞ!!」
「……●●×××で●●は」
そして、僕は自作小説の音読を始めた。クラスメイトの薄ら寒い笑い声と、可哀想だと憐みのこもった視線。それは実は後者の方がずっと恥ずかしいんだと、今更気づく。
音読を続ける度に、緩やかに首が締め付けられる、緩やかに自分が死んでいく感じがする。でも、自分を殺さないと続けられないから、なるべく思考を止める。ただ、発声を続ける。
せせら笑う声が聞こえる。「おもんな」「まだ始まったばかりじゃん」「去年、文化祭で劇やろうとした時に自信満々に脚本持ってきたキモいの居たんだけど、内容こんな感じだった」「え、うける」
聞こえてる。全部全部全部聞こえてる。僕の肉声を聞く度に震えが増している宇賀神さんの姿だって見えている。仮面で表情は伺えないはずなのに、嘲笑が、憐みが、呆れが、全部見える。伝わる。刺さる。
それは、今まで受けてきたどんな虐めよりもきついものだった。僕の思想の一部が、努力が、嘲笑のための道具として扱われる。僕の尊厳が、皆に土足で踏みつぶされていく。
そして、クロの言葉が不意に頭を過った。
『だから、夢生。これからはもっと絶望を頑張ろう』
あぁ、そうか。これが絶望なんだなと今更気づく。誰かに僕を理解されるどころか、こうやって自分の創作すら八瀬達のエンタメとして消費されて、笑いものにされる。隠していたはずの思いの丈が、愉悦のための道具になる。
あぁ、本当、絶望ありがとうございます。
こうなってしまったのも、全部自分のせいなのだろうか。一年生の頃は友達だと思っていた鈴木に、小説を書いていることを教えたこと。その小説を読ませたこと。気恥ずかしかったけど、身近な友達に認めてほしかったこと。その期待すら間違いだったのか。
そう思って、僕はスマホの画面から顔を上げてちらと鈴木を見た。
その時起こったことを見て、僕は思わず口をぽかんと開けたまま固まってしまった。
鈴木の泣き面をした奴隷の面が、急に溶けだしたのだ。そして、新しくピエロの面に変貌する。テレビや遊園地で見る、道化師として観客を笑わせるピエロの面。
それを見て、気づく。
僕は今、鈴木にすら見下される人間になったのだと。コイツよりはマシだと、惨めじゃないと内心で思っていた鈴木にすら……。
それを自覚した途端、どんどん舌足らずになっていき、上手く声が出せなくなった。そんな僕を見てクラスメイトがペットの変な行動を見た時みたいにくすくす笑う。その度に、自分が遠くなっていく感覚がした。体中は恥ずかしさで膨張したバッテリーのように熱を持っているのに、頭の奥はつんと冷えている。
その時、チャイムが鳴り響いた。授業の終わり、いや、見世物ショーの終わりを告げる鐘だ。
「あ、チャイム鳴っちゃったな。皆、気になる人はぜひ続きも読んでやってくれよな!」
そうせせら笑いながら言う八瀬をぼんやり眺めながら、僕はもはや力なく笑うことすらできない。
あぁ、今日も絶望、ありがとうございました。
10
その日、家に帰って、夕食を終えてスマホゲームをしてもうじき寝ようかと思った深夜の一時。
ふと、トイレに行こうと一階に降りた時に、リビングのテーブルにママのスマホが置きっぱなしなことに気づいた。部屋に持っていくのを忘れてしまったのだろうか。
『いやぁ、歪な家族だなぁって。お前のママ、いつか自殺するんじゃねぇの?』
その時、僕は最近クロに言われたことを思いだして、歩みを止める。電源を付けると、ロックは当然のようにかかっていなかった。
僕は何故か、異様なほどドキドキしながらママのスマホをいじる。LINEは、公式アカウントばかりで、友達とはほとんど連絡を取っていない。僕ら家族の悪口は一つも呟いていなかった。
僕は安心をして、次は検索サイトを開く。最近の履歴は通販サイトとかが主……なのだけど、そのなかに一つ気になるものを見つけた。
『旦那ヘルノート』
……なんだこれ。
そう思って、僕はそのサイトを開いてみる。内容は、自分の旦那の死を願う人たちが集うサイトみたいだ。適当にクリックしてみると、中には旦那を殺害するために毎日不凍液を食事に盛っている人が居たりと、かなり過激だった。
でも、どうしてママはこんなサイトを……。
その理由は、考えなくてもすぐ理解できた。きっとママも、あいつが死ねばいいと思っているのだ。一緒に暮らしているうえで不満が募っているから、こんな悪趣味なサイトを閲覧している。
それが僕は、とてつもなく嬉しかった。
やっぱり、僕とママは同じ気持ちなんだ。ママも、あんなのが夫で心底嫌なんだ。殺してやりたいと思ってるんだ。そう思うと、ニヤニヤが止まらない。
他には一体どんなことを調べているのだろう。気になった僕は更に検索エンジンの履歴をさかのぼる。
そして、画面をスクロールする手を止めた。そこに表示されていた文字列を見て、今日、小説をみんなの前で朗読させられた時のような、感情が遠ざかる感覚を思い出す。背筋や頭が冷たくなって、現実を現実だと受け止められなくなるような、そんな感じ。
『子ども 育て方 失敗』
『子ども 育て方 失敗 やり直し』
『子育て 失敗 母乳 足りなかったから?』
『子ども 発達障害』
『子育て 逃げたい』
『自殺 簡単 方法』
『親 自殺 責任』
『子ども 殺したい』
『子ども 産まなきゃよかった』
11
運動会の練習が、体育の時間にも行われるようになった。
今、行われているのはリレーのバトンパスの練習。男女は別だけど、クラス対抗リレーは全員参加しないといけない。足が遅い僕にとっては、忌々しいとしか思えない行事だ。
宇賀神さんを中心として、陸上部がバトンを渡すタイミングや受け取り方などのアドバイスを送っている。僕はその姿をぼんやりと眺める。青いジャージをまといながら、クラスの男子にその華奢な手で「こうやるんだ」と教える姿を見て。
胸が痛くなるのはいつからだっただろうか。消えたくなるのは、一体いつからだっただろうか。彼女の姿を眼球に収めたい。けれど、その度に自分という存在の醜さが頭に浮かんで離れなくて。
劣等意識とあのことへの罪悪感。あとは相応しくなさ。それを意識すればするほど惨めな気持ちになっていく。気分が落ち込んでいく。
だけど、そんなこと周りの奴は気づきもしない。いつも通り、ガイ・フォークス・ナイトやその取り巻きはかったるそうに欠伸を漏らしながら。
「めんどくせぇよなぁ。宇賀神も張り切っちゃって。まじかったるい。お前もそう思うよな。綿貫?」
「……はっ、はい」
突然話を振られて、つい返事に詰まりどもった声が出る。それをガイ・フォークス・ナイト達はおかしそうに笑った。
「普通に話しかけただけじゃん。そんなきょどんなよ」
「す、すいません」
「まぁ、いいや。でも、お前、ほんと宇賀神のこと好きだよな。今もずっとあいつのこと目で追ってたし」
「そ、それはちが」
「でも、残念だったな。あいつ彼氏いるし。彼氏いなかったら告白とかさせてみても面白かったんだけど」
そのガイ・フォークス・ナイトの淡々と言った台詞に、僕は、僕は……。
鈍器で殴られた? ナイフで胸を刺された? どんな言葉も、相応しくないぐらいの痛みがした。縋って必死に登ってきた糸が、天国を目の前にして切れたみたいな。
……宇賀神さん、彼氏いたの?
「え、お前知らなかったの? 結構有名な話だと思ってたんだけど。あいつだよ、陸上部の橋本優。隣のクラスのさ」
「……」
名前を言われて、あいつかと思う。同じクラスになったことはないから面識はないけれど、女子から人気が高いことは何となく知っていた。運動ができて甘いマスクがどうのこうの、話していた女子がいたことを思い出す。
そう思ったら、お似合いの二人だった。勝てる要素なんて、一ミリもない。
「あー、黙っちゃった。そんなにショックだった?」
「……いや」
「でもまぁ、俺らもお前に青春の一ページを刻んであげたじゃん。あの思い出で我慢しろよ。宇賀神のパンツオナニーでさ」
「……」
「にしても、良かったな。先生とかにチクられなくて。バレてたらお前、確実に転校とかさせられてただろ」
そう言うと、ガイ・フォークス・ナイトはけらけらと笑う。悪鬼の面を被る河合たちも、乾いた笑い声を出した。
お前のせいだろ!!
そう、激高しそうになるのを必死に堪えた。普段の僕だったら、こいつらに何を言われたとて、愛想笑いを浮かべてやり過ごせていたかもしれない。だけど、宇賀神さんに彼氏が居ることを聞いて動揺していたから、感情のセーブが出来なかったのだ。
そのせいで、顔に不満が滲み出てしまったらしい。ガイ・フォークス・ナイトが、一気に声のトーンを変える。
「何その顔、なんか文句あるの?」
「……いえ」
「なんか、文句あるんだろ? 今、睨みつけただろお前」
そう学の無さを象徴するようにすぐさま頭に血を登らせたガイ・フォークス・ナイトが、僕の胸を小突く。
「不満があるならさ、言えばいいじゃん。どうして黙ってるんだよ」
「不満なんか、ないです……」
「つーかさ、俺はあの時、あくまで提案しただけだよな? シコればもうお前のこといじめないって。で、お前はやりますと言った」
「……」
「あれ以来、宇賀神って本当に変わったよなぁ。俺らが授業中に喋っていてもほとんど何も言わなくなったしな。お前のおかげだよ。いや、お前のせいか。他でもないお前が宇賀神を変えたんだよな」
そう左肩を掴んで、「なぁ?」といつも友達代と言って金をせびってくる声音で顔を近づけてくる。あいにく、仮面を被っているせいでその表情は分からないが。
そして、奴は何かをひらめいたように「あ」と呟いた。
「お前、今日の放課後、また四階のトイレな。俺を怒らせたこと、本気で後悔させてやる」
12
そして、放課後。
「じゃあ夢生くん。まずは制服脱いで?」
「はい」
ずいぶんと掃除されていないであろう、薄汚れた四階のトイレ。手でなぞれるぐらい埃が溜まっている男子用小便器の前で、僕はいつも通りガイ・フォークス・ナイト達に囲まれている。制服を脱ぎながら、もう冬も近づいているんだなという肌寒さを覚えた。
そして、僕はシャツとパンツと靴下だけの状態になる。こだまするガイ・フォークス・ナイト達の笑い声。四階のトイレは、僕が来るときはいつも明るい笑い声で溢れている。
「さて、お前は今日の体育の時、俺に失礼な態度を取ったよな?」
「……はい」
「お前ごときが、俺に歯向かおうとした。それって、許されることだと思う?」
「……別に歯向かおうとしてたわけじゃ」
「分かってる。つい、思いの丈が顔に出ちゃったんだよな。でも、それが駄目だって言ってるんだよ」
「……」
「これがさ、飼ってる犬が噛んできた……とかならまだいいんだよ。犬はほら、可愛いだろ? でも、お前みたいな虫けらが歯向かってくると、俺たちはイラっとするんだ」
「……」
「だから、今日は罰として皆の前でしてほしいことがあってな。いや、お前は俺らのペットみたいなものだから躾か……」
「……」
「まぁ、どっちでもいいや。おい、仲川。有希に取ってきてもらったアレ、渡してやれ」
「……なぁ、本当にやるの? いくら愛川の頼みだとしてもやりすぎじゃ……」
「うるせぇな。いいから早くしろって。なら、お前が代わりにやるか?」
そうガンを付けられ、意気消沈した小鬼は僕に白いシャツと紺色のズボンを投げつける。これは、体育着だろうか。仄かに柔らかい金木犀の香り……これは柔軟剤だろか。少し湿っているようなこれは……汗?
「綿貫、お前これ、何だと思う?」
「……体育着?」
「そう、宇賀神のな」
「……え?」
「今からお前には、宇賀神の体育着でオナニーしてもらうから」
「……うそ」
思わずそんな言葉が漏れた。でも、受け取った体育着を見れば、八瀬達が本気で僕にそれをやらせようとしていることがわかる。
体育着の胸の部分、そこには藍色の糸で『宇賀神』と苗字が縫われていたから。湿っぽいのは、数時間前体育で汗をかいたせいだろう。
そして、それが本当に宇賀神さんのだと分かった時、僕はぬくぬくと陰茎が膨らんでいくのを感じた。その感覚は、以前、教室で宇賀神さんのパンツでオナニーしてた時以来の感じで。
つまり、僕はおよそ三か月ぶりに、陰茎を勃起させていた。
そして、思い出す。
あの日、僕が彼女のパンツでオナニーするに至った経緯について。
13
元々、風紀委員で学校の生徒の誰よりも厳しく、服装指導や持ち物検査を行っていた宇賀神さんと八瀬達の仲は良くなかった。特に仲が悪かったのは愛川で、休み時間、よく言い争いの喧嘩をしていたのを傍目で眺めていたこともある。
だけど、良くも悪くも宇賀神さんは誰にでも同じ態度で接する。何か問題行動を起こしたり、これは違うだろという言動があれば、先生であろうと平然と抗議する。授業中、一人の教師を言い負かして謝罪させていたのを見た時は、さすがに引いた。
だけど、その誰にでも発揮される潔癖さは、万人にとまでは言わないまでもクラスで受け入れられていた。
そもそも彼女は、風紀を乱すような行動や言動をしない限り、全員に優しい。そして、彼女の優しさに触れていく度、僕の彼女への好意も増していった。八瀬達も、始めは彼女に対して不満を募らせていたものの、段々と気を許していた節があった。愛川以外は。
ただ、その関係性も宇賀神さんが僕のいじめを教師に報告した時、全部壊れた。僕が本当に彼女のことを好きになった理由。それで、彼女は八瀬達に本格的に目を付けられるようになった。
そして、いじめが学校に露見された二週間後。僕は八瀬に呼び出された。
「なぁ、夢生。お前のこともういじめないからさ、一つお願いを聞いてほしいんだ」
「……何、すればいいの」
「明日の水泳の授業、俺と一緒に休んで。で、してほしいことはその時言うから」
「分かった……」
そして、三十五度を超えるような灼熱の七月に、僕はプールサイドの日陰で泳ぐクラスメイト達を眺めていた。他の見学者は八瀬と宇賀神さん……。
この時点で、どこか嫌な予感は確かにしていた。不可解だった。どうして、八瀬は僕にプールを欠席するように言ったのか。そして、宇賀神さんまでどうして欠席しているのだろう。
「よし、綿貫。行くぞ」
「え、どこに」
「いいからついてこい」
そう命令され、僕は仕方なく八瀬に従って「トイレに行って来ます」なんて嘘の言い訳をつき、プールを抜け出した。そして、自分たちの教室のドアを開けて、彼は宇賀神さんの学生鞄を勝手に開ける。
「……えーと、なにして」
「ちょっと待ってな。有希の話だとこの中にあるはずなんだけど」
「……なにが」
「だから、ちょっと待てって。……お、あった」
そう彼は憎たらしいほどの満面の笑みを浮かべて、僕にその手に握っている物を見せた。
それは、宇賀神さんのパンツだった。藍色で、小さいリボンが付いている。小ぶりなもの。
「今から、綿貫にはこれでオナニーしてもらうから」
「……え」
「え、って。だってお前宇賀神のこと好きだろ、いつも目で追ってさ。この前なんか、いじめられているところ助けてもらったもんな」
「……」
「そんな子のパンツでシコれるんだから、お前にとっても奇跡だろ?」
「……いや」
「いや、ってなんだよ。また、殴られたいか? 昨日言ったよな、俺のお願い事聞いてくれたらもうお前のこといじめないって」
「……」
「言っとくけど、断ったらどうなるかとか想像つくよな? お前も知っているだろうけど、俺、高校のヤンキーの先輩とも繋がってるのよ。その意味、分かるよな?」
「……」
「やります、って言え」
「……やります」
「よし、これ仲川のスマホ。録画しておくから、ちゃんとカメラに映るようにやれよ? じゃあ、俺授業戻るから。ちゃんとぶっかけておけよー」
そう言って、八瀬は僕を残して教室から出てドアを閉めた。取り残された僕は、その後姿を眺めながら、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。黒板のチョークを置くところに立て掛けられたスマホが、僕のことをじっと見つめている。
八瀬は言っていた。このパンツに射精すれば僕のことはもういじめないと。逆に、これをやらなければ今度は学校外からもいじめ、いやリンチに遭う可能性もある。
だとしても、宇賀神さんは僕のことを助けてくれた。なのに、そんな彼女の恩を仇で返すようなことを、僕はするのか?
好きな彼女を裏切るようなことを、僕はするのか?
いや、これは嘘の心情だ。実際はただ、一線を越えるのが怖かっただけだ。誰かに言われるがまま、犯罪行為に身を染めること。それに対する自制心が全てで、彼女のためだとか考えたことは一度も無かった。
それでも、その時は確かにやめようと思ったのだ。自分がいじめられるよりも、犯罪行為をする方が怖かったから。だから、僕は机に乗ったままの彼女の下着をバッグに戻そうとする。
でもその時、目が合った。教室のドアのガラス越しで僕のことを見つめている八瀬と。命令から背けようとする僕に、憎しみを込めた瞳で僕を睨みつけている八瀬と。
そんな彼に見つめられた僕はおしっこがもれそうになって。とにかく怖くて。
僕はガラス越しに見せつけるように自分の制服のズボンを脱ぐ。まだ、彼は僕を見つめている。次はパンツ。彼はまだ見ている。
宇賀神さんの下着を手に持つ。まだ、見られている。左手を陰茎に伸ばす。そしてそれをしごきだす。陰茎が勃起しだす。そんな僕をまだ、彼は見ている。
その下着を、僕は自分の鼻に付けて嗅ぐ。彼の目が、玩具を買ってもらった子供のように細くなる。彼女の下着から薫る金木犀で、僕の陰茎は更に硬さを増す。彼はもう、ドアの前から去っている。
そこから先はもう、止まらなかった。彼女の性器に触れるであろう部分、洗濯する前は触れていただろう部分を嗅ぐ、口に含む。それに飽きたら、パンツで陰茎をしこる。クロッチの部分が亀頭にあたるように意識しながら。
あ、これ、すぐ射精してしまうやつだ。
時計の針がカチカチと動く音がする。隣接する教室の授業を行う先生の声。その音の中で性器をしごくという非現実。しかも僕は今、彼女の下着をオカズにしている。こんな快楽、本当は宇賀神さんの彼氏にならないと味わえないのに。
でも、人間はその人に見合わない限り、その人の恋人になんてなれない。
故に彼氏になれるわけがないのを僕は知っていて。
それでも恋。届かない恋。悲哀な恋。悲痛な恋。その思いが今、発情という形で
あぁ、今、性欲が飛び出す!!!!!
その時だった。教室のドアが開いたのは。呆然とした様子で彼女が僕を見つけたのは。
その後、僕は逃げ出して校舎四階の隅っこで震えて泣いて、放課後に八瀬に呼び出されて校舎裏に向かったら。
『お前、マジで宇賀神のパンツでシコったんだな。動画、よく撮れてるわ。あ、ちなみに今後俺に従わなかったらこの動画ネットに流すから』
『……え、もう、僕のこと、いじめないって』
『は? 嘘に決まってるだろ? これからも、お前は俺たちの玩具だよ。なんだその目? なんか文句でもあるのか? ああ!!!!????』
そして、その日から僕は何を見ても、どんな女性の残り香を嗅いでも、何をしても、勃起できなくなった。
それから、翌日。この目に映る宇賀神さんとママ以外の全ての人が、仮面を被るようになっていた。
そしてその日から、鏡に映る僕は化物になった。
14
「んじゃ、さっさと裸になって。なんなら、宇賀神の体育着着てみる? そっちの方が気持ちいいかもよ?」
そうガイ・フォークス・ナイトは今までやってきたどんな虐めよりも楽しげな声で僕に言う。記憶に栓をしていたのに全て思い出してしまった僕は、そんな彼の言葉に反応する余裕すらなく。
お前は道を誤ったんだと、ただ思った。もう取り返しはきっとつかない。僕がこんな人間になってしまったことの一番の分岐点は、とっくにもう過ぎている。
だけど、だからこそ次それを行ってしまったら、僕はもう本当に人間ではなくなってしまうのではないか、そんな恐怖に雁字搦めにされていた。
「あれ、綿貫くん。返事が無いけれど、どうしたのかな? 身体はものすごく正直みたいだけど」
「……やめて」
「ん、今なんか言った?」
「……やめて、欲しいんだ。こんなの、宇賀神さんが可哀想だから。お願い。僕になら何しても構わないけど、彼女を巻き込むのは……」
「うわ泣いてるし……。てか、それ宇賀神のパンツでシコった奴が言う台詞かよ」
そのガイ・フォークス・ナイトの言葉に、周りの取り巻きからも気を遣ったような失笑が漏れる。
「……いやぁ、俺達だって本当はこんなことしたくないよ? でも、愛川がさ、やれってうるさいから」
「……というか、一度あいつのパンツでシコったんだろ? なら、いいじゃん。二度目も同じだって」
「心配するなよ。だって、一回バレても宇賀神許してくれたんだろ? なら、二度目も同じだって。もしかしたら、宇賀神もお前のことが好きで許してくれたのかもな。なら、今度はそのシコった体育着を持って宇賀神に告白してもらおうかな」
そのガイ・フォークス・ナイトの言葉に、またトイレが失笑に包まれる。僕は彼らの笑い声に囲まれながら、自分という人間を俯瞰する。ただ、客観視する。
どこで、僕の人生はこんな風になってしまったのだろうか。別に殺人とか、大それた犯罪をしたことはない。素行が特別悪かったわけでもない。たしかに性犯罪はやったけど、あれだって脅されて仕方なくだ。僕は悪くない。
なのに、僕はどうしてこんな目に合っているのだろう。そんな疑問を考える前にぶたれるから、いつしか考えることをやめて命令に服従するようになった。そうすればぶたれないから、楽だった。反抗して罵られてぶたれるより、従って罵られて笑われる方が、楽だ。
羞恥のせいで身体が火照りながら、ゆっくりとシャツを脱ぐ。死にたいとは、いつも思う。こんな人生を続けるのなら死んだ方がマシだって、少し考えたら誰にだってわかる。
なら、死ねばいい。自殺をすればいい。首を括ればいい。電車に飛び降りればいい。すぐ近くの窓から飛び降りればいい。家に火でもつけて家族を道連れに死ねばいい。
その勇気を今まで持てなかった。でも、自分を取り巻く何かを変えるには、何か少しでも行動を変えなければならない。死ぬのが怖いなら、その恐怖心を少しでも減らせるよう努力をしなければならない。
いや、違うなと思う。そもそも、こんな状況にならないために努力をしなければいけなかった。ガイ・フォークス・ナイトが「早く脱げよ」と僕を小突く。だから、早く脱がないといけない。
でも、どうして、僕はこいつらの言葉に従わないといけないのだろう。従わなかったところで、どうせ殺されはしない。むしろ、死にたいのなら歯向かった方が良い。そもそも、殴られるのがどうして怖い? ただの痛みだ。身体が発する危険信号だ。ただ、肉体が壊れる、それだけだ。
なのに、奴らに従って心が壊れていくのは許せるのか。僕はあの日から、いつでも幻覚に苛まれている。人が仮面を被る、自分が化物に見える幻覚に。
そんなになるまで痛み続けてきた心は、いつか治るのだろうか。いつだったか、骨折を放置し続けて、骨が変な方向に曲がったまま完治した人の写真を見たことがある。
もしかしたら僕の心も一生完治なんてせず、歪んだ形のまま骨がくっついて、異形のような心で生きるしかないのではないか。
それが怖いのかどうかは、僕にはもはや分からない。それすら、もはやどうでもよかった。どんな屈辱もどんな痛みもどうでもいい。宇賀神さんのパンツでシコったのをネットで拡散されようと、どれだけの暴力で身体を痛めつけられようと。八瀬の先輩に呼び出されもっとひどいことをされようと。
きっと歯向かうより従う方が楽だから、従っていただけ。
だけど一つ確かなのは、こんな人生なら、生きている価値はない。
そう頭に浮かんでからは、早かった。パンツを脱ごうとした手を止めて、拳に力を入れる。
そして、すぐ傍にいたガイ・フォークス・ナイトの右頬を自分の限界の力を込めてぶん殴った。
その瞬間、自分の人生が蘇生したような感じがした。陰キャブレイキングダウンで、鈴木の顔を殴った時と、同じ快感。殴る痛みすら快楽として、頭の中で爆ぜて行き渡る。これが、アドレナリンだろうか。
突然殴られて固まっている八瀬の股間に、僕は思い切り蹴りを入れようとする。取り巻きは突然暴れだした僕を見て呆然とするだけだ。
行ける、と思った。この全能感。僕って本当は喧嘩が強くて、何でもできたりする? 今僕、最高にラノベの主人公って感じがする?
「舐めんな、ゴミが」
そうドスの効いた声が聞こえた気がした。蹴りに行った足が彼の両手で掴まれている。投げられた。受け身を間違えて顔からトイレの床に落ちる。
しばらくして。
ガイ・フォークス・ナイトにリンチされた僕は、トイレの床に這いつくばって倒れていた。顔も胴体も足も、どこもかしこも殴られて蹴られて、痛みの信号を発している。骨折している可能性もあるかもしれない。
でも、気分はどこか誇らしい感じがした。未だに僕はパンツと靴下しか履いてなく、いつ付いたのか、宇賀神さんの体育着には僕の鼻血が染み付いている。
だから、帰ったら洗濯しないとなと思う。
でも、その前に身体を起こして、制服に着替えないと。
とにかく、明日。この体育着を宇賀神さんに届けに行こう。
15
親に殴られた顔を見られたら面倒だなと思い、適当に外食で夕食を済ませ、帰宅後。
体育着を洗濯して自分の部屋で干していると、クロが窓をノックしてきたから、僕は窓を開けた。クロは僕の顔を見ると、少し引き気味に尋ねてくる。
「……なんか、久々に顔見たけど、お前ボロボロになってない? 顔腫れてるし。またいじめられたの?」
「うん。虐められた。で、殴ったらリンチにされた」
「え、お前が殴ったの?」
そう、尋ねられたから、今日あった出来事を包み隠さずクロに伝えた。それを聞いたクロは僕の部屋に干されている体育着を見て「本当に宇賀神のじゃん」と顔を引き攣らせて。
「で、お前これどうするの?」
「明日返すよ。宇賀神さんに」
「……どうやって?」
「どうしようかな……」
「そもそも、返す意味あるのか? だって、それお前の鼻血が付着したんだろ。もう着たくないだろ……」
「……」
「……返さない方がいいんじゃないか?」
「……でも、今これが僕の手元にあるんなら、やっぱり返すのが筋だと思うんだ。聞いてくれるかは分からないけど、事情を話して。少なからず、これは僕の手元にあっていい代物ではないだろうし」
「まぁ、それはそうだ」
「それに、ずっと謝りたかった。やれと言われたからと言って、彼女の下着でアレしたこと……。僕は彼女から逃げ出して、その後一度も謝れなかった。許されたいなんて思ってない。許されるとは思わないけど、気持ちの整理を付けたいんだ」
「……そうか。なら。返せばいいんじゃないか? 結局、お前の人生なんだ。どんな選択をしようがお前の自由だよ」
「……なんか、今日のクロ優しくない?」
「……いや、考え方が今までよりずいぶんマシになったような感じがしてな」
「もしかして、褒めてる?」
「いや、今までがひどかっただけだ。褒めてはない」
そして、翌日。僕は移動教室の時、隙をついて書いた手紙をこっそり彼女の机の中に入れた。内容は『昼休み始まってすぐ、校舎裏で待っています』というもの。恋文みたいなメッセージになったが、LINEはブロックされている以上、仕方がない。
それで、昼休み。彼女が吉田たちとの会話を切り上げ、緊張した面持ちで教室を出ていく。それを確認してから、僕も立ち上がった。巾着袋に入れてある体育着を持って、ゆっくりと彼女の後を追う。
そして、下駄箱で靴を履き替えてるのを見て、僕は来てくれるんだと少しほっとした。少し待ってから、僕も踏みすぎてかかとが駄目になっている上履きを脱ぎ、靴を履き替える。
彼女はもう、おそらく校舎裏に辿り着いているだろう。誰があの手紙を送ったのか、疑心暗鬼になっているかもしれない。しかも、体育着が誰かに盗まれた翌日にこの手紙だ。
そう考えると、もしかしたら手紙の送り主についても、ある程度予測がついているのではないか? ……その正体が僕だということも。
いや、それは考えすぎだろう。手紙の送り主の正体が僕だと気づいていたら、まず彼女は校舎裏になんて行かないはずだ。
……とにかく、一つ言えること。それは行けば分かるということだ。
緊張で震える足を交互に動かしながら、僕はすっかり肌寒くなった十月の秋空の下を歩く。あと一週間後にある運動会が終われば、二学期も終わる。……そこそこ大事な時期に、僕は一体何をしているのだろうと、正直思わなくはない。
でも、これはけじめだ。僕がずっと付けようとしなかった、けじめ。
今更過ぎる、とは思う。だけど、僕は最近になってようやく気付いたのだ。もう、僕には失うものはなに一つとしてない。僕の人生は、もはや大切なものはなに一つとしてない。ママも、僕のことなんて嫌いみたいだし。
なら、せめてずっと心の奥底にあった罪悪感ぐらいは、消し去りたかった。
この角を曲がれば、彼女が居る。覗くと、彼女はそわそわと不安を染みつかせたような顔で、手紙の送り主が来ることを待っている。これじゃ、まるで告白だなと自嘲する。
でも、教室で彼女に体育着を返すわけにはいかない。叫ばれても、泣かれても、吐かれても、困る。そんなことしたら、八瀬達も僕が盗んだと吹聴するだろう。それが賢くない選択ということぐらいは頭の悪い僕でもわかる。
だからこんな遠回りをするほかない。ほら、早く行け。お前の愛しい人が、すぐそこで僕のことを待っている。
早く勇気を出せ。その足を前に。
そして、僕は彼女の前に歩を進める。僕の姿に気づいた彼女が、「ひっ!」と怯えた声を上げた。袋小路に追い詰められた鼠みたいにその顔は青ざめている。僕が一歩進むたび、彼女が「やめて」と首を振って後ずさる。
そして、ポケットから一つの卵型の何かを取り出して、僕の方に突きつけてきた。
「こ、これ以上近づいたら、これ鳴らすぞ」
その手に握られているのは、防犯ブザーだった。……僕は、これから強姦でもするのだろうか。
「……ま、待って、実は話があって。この体育着、なんだけど」
「……やっぱり、やっぱりお前が盗んでいたのか!? 放課後、部活で使おうと思ったらどこにもなくて……」
「いや、それは違う! 本当に、本当に僕は盗んでないんだ。盗んだのは愛川で……」
そう、僕は彼女に事情を説明する。話を聞いた後の彼女は相変わらずその表情を曇らせたままで。
「……あいつら、まさかそんなことまで」
「……うん。ほんとひどいよね」
「……で、その体育着にはお前の鼻血が付いてたと?」
「……うん」
「……そんな汚いもの、私が受け取ると?」
「……」
「……頭、おかしいんじゃないか?」
そう嫌悪感を全面に押し出した顔で、彼女は吐き捨てた。そして、僕という存在を避けようと回り込むように、校舎裏から逃げようとする。
「待って、体育着は」
「……捨ててくれ、頼むから」
「弁償とかは」
「いい、お前と関わりたくない」
そう吐き捨てて、戻ろうとする彼女。このまま、このまま終わっていいのだろうか。そう、一瞬の逡巡。考えろと、僕は僕に怒鳴り声をあげる。
僕が今日、ここでしたかったことは何だ? それだけを僕は考える。僕があの日から、ずっと後悔していて、ずっと謝りたかったこと。
きっと今日を逃したら、もう二度とこんなチャンスは来ない。だから。
僕は逃げようとする彼女の右手を掴んだ。驚いたのか、彼女はその拍子に握っていた防犯ブザーをポロっと落とす。これがあったら、きっと落ち着いて対話なんて出来ないだろう。そう思って、僕はその防犯ブザーを蹴り飛ばした。
「……待って、本当に離して」
「あの時のこと、僕はずっと僕は謝りたくて」
「……お願い、本当にやめて」
「仕方なかったんだ。八瀬に脅されて。八瀬が言ったんだよ。『俺がお願いしたことを聞いてくれたら、もうお前のことをいじめないって』。だから、仕方なくやったんだ。本当に仕方なくて。いや、申し訳ないとは思っているよ。宇賀神さんのパンツでオナニーしてしまったこと。それは本当にごめん。でも、僕にだって事情があったんだよ。したくてしたわけじゃない。にしても、本当あいつら最低だよね。これさえやれば虐めないなんて言って嘘ついて、あの時の動画をネタに僕のことを未だに脅し続けるんだよ? 今回のことも、八瀬達が原因だしさ。あの時、四階の男子トイレでさ、八瀬達がなんて言ったか分かる? 宇賀神さんの体育着でシコれって言ったんだよ。だけど僕、どうしてもそれは嫌で」
「お願い、誰か助けて」
「でもさ、さっきの宇賀神さんの態度も僕酷いと思うんだよね。仕方ない事情があったのに、頭がおかしいとか、お前と関わりたくないなんてひどすぎるよ。もちろん、僕のしたことが悪いことだってことぐらいは分かるよ。そのことに関しては許されようとも思ってない。でもさ、僕は宇賀神さんのために身体を張って、体育着を守り抜いて、洗濯してわざわざ持ってきてあげたのに、その態度とか防犯ブザーはあんまりじゃ」
「……優、助けて」
その名前を聞いた時、僕はつい、彼女の顔を覗き込んでしまった。
彼女は泣いていた。自由な左手でその目を擦りながら。
そして、思わず掴んだ手を放してしまう。その瞬間、彼女は両膝から崩れ落ちて、迷子になった子どもみたいにしくしくと泣き続けていた。
そんな彼女の普段とは似ても似つかない、弱弱しい姿を見つめる。こんな顔にしたかったわけじゃないとは、思う。
どこで間違えたんだろうと、ぼんやりする頭で考えてみる。
でも何が悪かったのかすら、良く分からなかった。
ただ、あの日教室で自作小説を読み上げさせられた時みたいな絶望が、心の中を蝕んでいた。
16
「安心したよ。やっぱり、お前は一ミリも変わってなかったんだ。宇賀神に謝りたい、なんて言った時は『おっ』と思ったけど。やっぱり人はそう簡単に変われないよな」
八瀬が勝手に取り付けた約束をブッチして、僕はクロと一緒に通学路を歩く。てか、隠れて見てやがったのか、こいつ。
「……どういう意味、それ。僕、ちゃんと謝ったつもりなんだけど」
「……それ、本気で言ってる?」
「……うん」
「だとしたら、一回本気で病院に行った方が良いと思うぞ。お前が声高にしていたのは謝罪じゃない、責任転嫁だ。本当はお前、自分が悪いなんて一ミリも思ってないだろ? 思っていたとしても、大多数が八瀬達のせいだと思ってる」
「……いや、だって、僕命令されたんだよ? だから、仕方なく」
「じゃあお前、誰かに命令されて罪を犯して警察に捕まったとしてさ、その言い訳で『仕方ない、無罪!』なんかになると思ってるのかよ。自分本位、他責志向の屑が」
「……そこまで言わなくても」
「挙句、お前体育着持って帰ってるし。捨てろって言われてたじゃん。何で持って帰ったの?」
「……人のものってなんか捨てにくいじゃん」
「嘘こけ。そんなこと思っても無いくせに。どうせ、帰ったら自慰行為にでも使う気なんだろ?」
「……そんな」
「宇賀神、ガチで怯えて泣いてたな。話、全く頭に入ってなかったんじゃねぇの?」
「……」
そんな会話をして、じゃあ僕は一体どうすればよかったのかなんて自問自答しながら、家に着いた。鍵は掛けられていないから、僕はそのままドアを開ける。靴を脱いで、手を洗うために洗面所へ行って、リビングの中に入る。
その瞬間、阿修羅が僕を見つめた。ママは、泣いていた。
奴は言う。
「夢生。お前、ちょっとこっち来い」
「……何、学校で疲れてるんだけど」
「いいから来いと言ってるだろ!!」
そう怒鳴られ、僕は渋々家族で料理を食べるためのテーブルに着く。
そして、父親に見せられた一枚の用紙を見て、僕は血の気が引いた。また、現実感のない浮遊感が頭にまとわりつく。最近、こういう感覚ばかりだ。
「お前、これ、一体どういうことだ」
そこには、訴状と書かれた一枚の用紙があった。告訴事実の記載には、僕が今までとある小説家に向けて散々、誹謗中傷していたこと。そして、その内容についてが主に書かれている。
「……」
「黙ってないで、何か言ったらどうだ? これ、やったのお前だろ?」
「…………知らない」
「なわけあるか!! ふざけるのもいい加減にしろ。お前以外誰がいるってんだ? 母さんがやったとでも? それとも、俺か?」
「……」
「お前しかいないんだよ、こんなことするやつは!! なのにしらばっくれてるんじゃねぇよ!!」
「……」
「誰が、誰が金払うと思ってんだ。お前のせいで、俺が必死こいて働いた金がこんな下らないことに消えていく」
「……」
「おい静江。お前の管理のせいでもあるんだからな。お前がしっかりしないから、この馬鹿は人様のこと馬鹿にして……」
「……これも、私のせいなんですか?」
「……どういう意味だ?」
「この子が問題を犯したのも、私のせいなんですか? じゃあ、どうすればよかったのよ。この子、私に対して生意気言ったり文句を言うだけで、私たちの言うことなんて一つも聞きやしない。そんな子、どうやって育てたらいいの?」
「それを育てるのがお前の仕事だろ! 俺は普段会社で働いているんだよ。なのに、こんなやつの世話なんてしてやれるか」
「そうやって、いつも私ばっかり!! ……そもそもよ。そもそも、夢生。どうして、あなたはまだ私達に謝っていないの?」
突然、ママにそう睨みつけられて、僕は固まって「え」と漏らす。
「これ、全部、あなたがやったことなのに、どうして謝らないのって言ってるの!!」
「ご、ごめんなさい」
「それ、私に言われてからじゃないと言えないの? 全部あんたのせい、全部あんたのせいなのよ? これから、先方に謝りに行って、損害賠償とかも払わなきゃいけない。アルバイトも出来ないあなたが、どうやってお金を払うというの? 結局、私たちが立て替えるしかないのよ」
「……」
「本当、こんな子、産まなきゃよかった」
「……」
「こんな子、産まなきゃよかったな」
そう、ママが言った。
その瞬間、僕の中の何かが、ぷつりと切れた、気がした。
「……ママが僕を産んだからじゃん」
「……え?」
「ママが僕を産んだせいじゃん!! そうやって、文句ばかり、出来が悪いとか勉強頑張れないとか言うのなら、始めから産むなよっ!!!!」
「……夢生」
「お前らが育て方間違えたからっ!! だから、こうなったんだろ!! 父親はいつだって僕の気持ちなんて全く考えず、勉強しろ、サッカーしろ!! しかも、僕はサッカーなんてしたくなかったし!! 子どもは、親の玩具じゃないんだよ!! この毒親が!!」
「……」
「ママもママだ。父親の押し付けにいつもただ従ってばかりで、僕の気持ちなんて考えてくれなかった。父親が居ない時は僕の言うことに頷くけど、結局それを父親に言ってくれたこと、一度も無かったじゃないか。ゲーム禁止は酷すぎるって言った時も、何も変わらなかった」
「……」
「ほんと、あんたたちが親なんて大外れだ……。本当、僕、親ガチャ外した。最悪だ、最悪……」
そう吐き捨てて、僕はうなだれる。
すると、今まで黙っていた父親がぽつりと、言った。
「……そっか、ごめんなぁ」
その、今まで聞いたことのないような優しい口調に、僕は思わず父親の方を見る。
彼はもう、仮面なんか被っていなかった。
そこには、ただ疲弊した様子で、悲しそうな表情を浮かべている父親が居た。
「……ほんと、産んでごめんな。俺も母さんも、もっと上手に育てられると思ったんだけどな」
そう漏らすと、彼は座ったまま姿勢を正して、僕に深々と頭を下げる。
「本当に、産んでしまって申し訳ない。ほら、母さんも」
そして、父親は母さんにも声をかける。
すると、彼女も正気を失った様子で僕の方に身体を向けて。
「本当に、産んでしまって申し訳ありませんでした」
と、深々と頭を下げた。
17
そして、部屋に戻った後、僕は宇賀神さんの体育着で十回オナニーをした。
久しぶりのオナニーは、この世のどんな快楽にも勝るぐらい気持ちがよく、それはきっと宇賀神さんの私物、身に着けていた体育着だからこそで。
十一回目のオナニーを終えて、僕は精液のついたティッシュをゴミ箱に放り投げる。何ミリリットルかの僕の精液の中にある精子は、これから死を待つだけ。誰かにもなれない。
でも、誰かになれないことは、取り返しがつかない事態を巻き起こすのとは無縁で、死にたくなるような思いを抱えることとは無縁で。
こういうの、なんて言うんだっけ。反出生主義? とは少し違うか。
そして、十二回目のオナニーの途中、疲れて眠ってしまった。
目が覚める。いつもより朝が爽やかで、眠気は無い。いつもの妙に覚醒せず睡魔が常にまとまりついているような感じはない。良く寝た、と思った。
伸びをしながら、ベッドから起き上がろうとする途中、僕はすぐ傍で涙を流しているクロの存在に気づいた。
「やっと、やっと覚醒した」
「……クロ?」
「おめでとう、夢生。君は、覚醒したんだよ。二人目の、覚醒者だ。やっぱり、俺は、俺の考えは間違ってなかったんだ!!」
そう歓喜の涙を流し続けるクロに何なんだと思いながら、僕は寝ぼけ眼を擦ろうとする。
その時、自分の手の皮膚が緑色になっていることに気づいた。
「え」
僕は慌てて胴体や手足など、視界に映る全ての身体の部位を確認する。全部が、緑色をしていた。痩せぎすっていたはずの身体は筋肉質になっており、その肉体は鋼を叩いているみたいに固い。
慌ててスマホのカメラ機能を使って、僕の顔を映してみる。
そこにはまるで、人を殺せるテレビゲームのオークのような姿をしている自分が居た。
「……なんだこれ」
「だから、言っただろ。覚醒したんだよ。その姿が、その証だ」
「要するに、本当に化物になったってこと?」
「まぁ、そうなるかな」
「これ、もう身体は戻らないの?」
「いや、制御できれば戻るはずだ。……俺だって覚醒者じゃないからやり方は分からんよ。自分でコツを掴んでくれ」
「そう言われても……。というか、外見て思ったけど、もしかしてもう昼?」
「うん、十二時」
「そっか。ママ、起こしてくれなかったんだ」
そう呟いて、僕は苛立ちをぶつけるように、ベッドを殴りつける。
すると、ドォン! と激しい音を立てて、部屋の床が抜けた。そのまま、一階のリビングを叩き潰してしまった。床や家の破片などと一緒に落ちてきた僕を、キッチンで煙草を吸っている両親が呆気取られた様子で見ている。
そして悲鳴すらも忘れて、仲良く腰を抜かしていた。
「あー、全くもう。力制御しないと駄目だろ。今のお前は本当に化物なんだから」
「って言われても……。まさか床抜けるとは思わないじゃん。つーか、僕以外の前に姿見せていいの?」
「あ、やべ。夢生。殺しといて」
「ええ……。仕方ないなぁ」
そうクロに言われて、僕は渋々と後ずさって逃げようとする二人を追いかける。体重がありすぎて、ドスドスとゴジラが町を壊しながら歩いているような音がする。
殺してと言われたこと。それに躊躇は無かった。心中で渦巻いているのは、どうしようもないほどの暴力衝動で、この前まであんなに怯えてた修羅の象徴である父親が、生まれたての小鹿のように足を震わせて、怯えているのが本当に滑稽で。
「お父さん、産んでくれてありがとう!!」
そう言って、ハンマーみたいに右手を握り叩き潰した。続けてママも殺してやろうかと、右手を振りかぶって。
「やめた」
「え?」
「だって、ママは僕に優しかったし、さすがに親は殺せないよ」
「いや、お前さっき父親殺した……」
「は? あんなのは親じゃないだろ。親を愚弄するなお前も殺すぞ」
そう言い残して、僕は学校に行くかと玄関のドアを開けた。そして、通学路をダッシュで駆け抜ける。気力が、身体全体に溢れていて、今はあんなに苦手だった運動がとてつもなく心地いい。近所の住民が、裸で走る僕をぽかんとした顔で見つめている。
どうして、僕はこうなってしまったんだって時々考えていた。鏡に映っていた自分だけが見る化物から、僕は本当の化物になった。どうして、そうなった? とは思わなくもない。
クロがどの星から来たの、とか。どんな仕組みで僕は化物になってしまったのか、とか。気になることは幾つもある。分からないことは幾つもある。
だけど、最早そんなこと、ぼくはどうでもいい。
僕はただ、自分の気に食わない、自分が恨んでいる人間を皆殺しに、根絶やしにさえできればいいのだと。
父親の肉片やら脳髄やら血液がこびりついた右手を眺めて、そう思った。
「おい、夢生。待てって。これから、どこに行くつもりだ?」
「ん、学校だよ。学校に行って、皆に復讐する」
「……殺すのか?」
「うん。僕ずっとあいつらを殺したかったんだ」
「……そうか。なぁ、夢生。お前がもし、今一つの小説を完成まで紡げるとしたら、どんな小説を書きたい?」
「うーん。嫌いな奴を、この世にいる全ての人間を皆殺しにする小説かな」
「……そうか。うん。とてもお前らしいな」
その会話を最後に、僕はまた通学路を駆け抜けた。
18
学校の外では警報がつんざくように鳴り響いている。おそらく、通学中に僕のことを見つけた住民たちが警察にでも通報したのだろう。住宅街を走り回る化物が居るとか言って。
実際、さっき僕の見た目は、映画に出てくる化物そのものだった。今は変身を解除する方法を覚えて、いつも通りの自分の姿になっているけど。
だけどまぁ、トイレに行くついでに久しぶりに自分の顔を見て、こりゃクロがボロクソ言うのも分かるなと思った。顔全体に膿んだニキビが出ており、顎や口元には伸びきっていない無精ひげ。自分って、こんな体毛が濃かったんだ。そんな嫌な発見をした。
まぁ、そんなの今更どうだっていいのだけど。
今は授業中だからか、学校内はひどく静謐な空気に包まれている。誰も居ない廊下を歩きながら、僕は逃亡阻止の為に空き教室から机と椅子を持ってきていた。それを、自分のクラスの後ろのドアの前に積み重ねていく。大体、十二個ほど。物音に気を付けながら、机と椅子のバリケードを築きあげていく。
幸い、完成するまでに先生や生徒が廊下まで確認することはなかったらしい。横三列、縦に列の貧弱な机のバリケード。力いっぱい押せば簡単に突破できるはずだけど、存在するだけで威圧感はあるだろう。
僕は一息ついて、未だに授業を続けている目の前の教室のドアを見据える。準備は完成したと、首を鳴らす。目を閉じて、精神を研ぎ澄ませる。
覚・醒。
すると、僕はオークの姿へと変貌した。クロの話では一分ぐらい時間をかけて細胞が変化しているらしいから、多分僕はその間気絶でもしているのだろう。
まぁ、そんな話はどうでもいい。
一度変身してしてからは覚悟なんていらなかった。僕は何も考えず、前方のドアを蹴り飛ばして、僕のクラスである2年2組の教室に入る。教壇で授業を行っていた若手の先生が、蹴りだされて吹っ飛んだドアに勢いよく当たって下敷きになっていた。ドアをどけてやると、クリーンヒットしたのか顔が潰れて死んでいた。まず、ワンアウト。
そして僕は教壇から、僕をいじめていた、馬鹿にしていたクラスメイト達を見る。皆、固まっていた。仮面を被っていない彼らの顔は、まだ状況を理解していないもの、恐怖で顔をぐしゃぐしゃにするもの、何事かと好奇心でそわそわしているもの、様々だった。
だけどまぁ、運命は全て同じなのは、面白い。
ひとまず、教壇から一番前に座っている尾本を殴って顔に穴をあける。となりの鈴本も上同。飛沫がかかった生徒たちは状況を理解したのか、腰を抜かしていたり、悲鳴を上げたりと様々だ。まぁ、そんな奴らはいい。
問題は逃げ出そうとしているクラスメイトだ。バリケードのない、前方のドアをこっそり逃げ出そうとしていた奴らにダッシュで近寄り、掴んでぶん投げた。教室の後方の壁にぶち当たる。後ろのドアを見ると、バリケードに怯んだ山村に、仲川と八瀬が「どけ!」と突き飛ばしていて、良くないなと思った僕はまず仲川を殴って殺す。そして、八瀬をひょいとつかんで。
「なんだ、お前……。や、やめ」
頭突きをした。なんか脳汁の色々がはじけ飛んで、シャワーみたいだなと思った。血液のシャワーは化け者になった今の僕には心地よく、気持ちよかったけど。
腕っぷしだけでクラスメイトを全員殺すには、あまりにも効率が悪い。暴れまわって周辺の奴らは皆殺しにしたが、もっと手間のかからない方法はないのだろうか。
その時、僕は夢の中で宇賀神さんがクラスメイトを銃殺していたのを思い出した。そして、いつか映画で見たように、僕がしたかったのもそれだと思う。それを自覚して、右手が疼いた。
そして、僕は目を閉じてまた精神を研ぎ澄ませる。
変・形
そう念じると、右手がマシンガンの銃口のような形に変貌した。試しに上のドアから逃げ出そうとしている奴らに銃口を向けて撃つ(というよりも念を込める?)と、銃弾が出て、奴らの胸を突き破った。これは便利だと、あまりに騒がしかったからか様子を見に来た先生も銃殺し、僕はまた教壇に上りクラスメイト達に銃口を向ける。
しばらくして。
教室は屍の山になっていた。血液等が入れ混じった、生臭いにおいが教室中に漂っている。しゃがんで銃弾を避けていた山田や宇賀神さんの友達の吉田杏奈も殺して、天国へと旅立った皆の仮面のない表情を見て。
どうして、こんな奴らに僕は今まで怯えていたのだろうと思った。
そして、凄惨な場の中、顔を覆って嗚咽を漏らして泣きだしている宇賀神さんに僕は近づく。
「……助けて、優くん」
こんな時まで、助けになる訳もない彼氏の名前をコイツは呼ぶのか、と思う。先に彼氏の首を取ってから、彼女のところに行けばよかったかもしれない。
それから、僕は彼女を殺すか少し逡巡し、今だったら体育着なんて使わなくてもコイツで好き勝手できるなと思った。腰より下が、燃えるように熱を持っている。
そして再び精神を研ぎ澄ませ変形を戻し、未だに泣きじゃくる、クラスメイトの血液がかかった彼女のその端麗な顔に触れようとした時。
突然、右手が爆ぜた。
その瞬間に、激痛が身体全体に走る。何が起こったのか、と切断された右手を左手で抑えながら、彼女のことをじっと見る。すると、そこには彼女を取り巻くように薄い膜のようなものが貼られていた。
何だこれ。そう思い、僕は近くにあった吉田杏奈の死体を持って、彼女に近づけてみる。
すると、その死体が切れ味抜群のスライサーを使用した時みたいに、スパッと切れた。その肉片が勢いよく教壇の方へ飛んでいく。
それを見た彼女は「ひっ」と情けない悲鳴を上げていた。すっかりパニックになっているのか、過呼吸気味でぐしゃぐしゃな顔をしている。
……それより、この膜はなんだ。そういえば、今日目が覚めた時、クロが言っていたことを思い出す。
『おめでとう、夢生。君は、覚醒したんだよ。二人目の、覚醒者だ』
二人目の覚醒者。つまり、覚醒者は僕以外にもう一人いる。となると、もしかして彼女も覚醒者なのか?
そんな考えが過ったその時だった。廊下から、誰かの走る足音が聞こえてきた。また先生が様子でも見に来たのかと、僕はため息をつく。気付くと、すでに無くなっていたはずの右手は再生していて、痛みも感じなかった。殺すか、と後ろを振り返る。
「愛!」
そこには、銀色のメタルスーツのようなものをまとった何者かと、クロが居た。なんで、ここにクロが? というか、そいつは誰?
などと考え事をしている間に、奴はこちらに勢いよく走りながら懐にあった太刀を取り出して。
そこから、視界がクラッシュアウトする。