絶望ごっこ
時々、自分が悲劇の主人公なんじゃないかって、錯覚してしまうことがある。
「さぁ、今宵も始まりました。陰キャパンチングダウン! 会場はここT市第一中学校で行われています! 本日もクラスを代表する最強の陰キャが拳を競い合います!」
これは、あの長い長い夢……天国で宇賀神さんと一緒に暮らした後、父親に殺される夢を見た後の話。
つまり夢から醒めて、相変わらず色んな人に蔑まれ虐められ、宇賀神さんは全く目を合わせてくれない現世に戻った後の話。
秋風が吹いている。これから冬が来ることを告げるような、少しだけ肌寒い風が身体にまとまりついている。冬服になった制服で、僕等は向かい合っている。燃えるような夕立が、そんな僕等を見下ろしている。
あぁ、本当、世界よ終われ。
悪鬼の面を被った河合が、スマホを向けてケタケタと下品に笑う。いつも通り、動画でも撮っているのだろう。相対するのは、クラスメイトの鈴木。今日も奴隷の面を被っていて、その面には今日もピエロの涙みたいなマークが付いている。
そして、アノニマスで有名なガイ・フォークス・ナイトの面を被ったリーダー格のクラスメイトである八瀬が、「ファイ!」とコングを鳴らすふりをした。売女に相応しい、有名なAV女優の仮面をした愛川が、黄色い歓声を上げる
他クラス含め、十人ぐらいに囲まれている僕たちは仕方なく前に出て、出来損ないのファイティングポーズを取る。鈴木の弱々しいパンチ。力はほとんど込められていない。はずだけど、やせぎすの僕の身体にはそれすらも痛い。だから、ムカついて思い切り顔を殴った。ぐぐもった鈴木の声。
結局、こういう喧嘩では人の急所を殴る度胸がある方が強いのだ。人間、何よりも大事なのは適応すること。経験から殴ることの恐怖を薄めていき、せめて見下してる相手には簡単に殴れるように。
そして、バランスを崩した彼が倒れて、審判が僕等を止める。
「勝者、綿貫夢生!」
そう審判が僕の右手を上げると、観客から歓声と拍手が聞こえてくる。今僕、サッカー部の八瀬たちに褒められてる? それが少し誇らしい。
「でもさ、顔殴っちゃだめだよね」
「うんうん。もし、痣とかになって私たちのせいになったらどうするの?」
「ご、ごめん……」
「ニタニタ笑ってんじゃねぇよ」
そう、小鬼の面を被った取り巻きの仲川が近づいてくると思い切り腹を殴られた。僕はさっきの鈴木みたいにうめき声を上げて、膝から崩れ落ちそうになる。
「おっ、セカンドチャレンジャーか!」
「陰キャパンチングダウン、二戦目です!」
「ちょっと待てって! 俺陰キャじゃねぇし!」
そう引き攣った笑い声を出した悪鬼には逆らえない小鬼が、僕に向かってファイティングポーズを取る。さっきの鈴木よりはよほど様になっていた。また、アノニマスがコングを鳴らす。
そして、十分後。
誰も居ない校舎裏で、僕は一人固い土の上で横たわっていた。冷たい土の温度と、ひりひりと殴られて熱を持った身体の温度。
いじめっ子たちと鈴木はすでに僕を置いて帰っている。カーカーと罵るようなカラスの鳴き声が聞こえる。そこに、ハムスターに羽根をつけたみたいな動物が「あ、いたいた」と翼を広げてやってきた。彼の名はクロ。黒猫みたいに真っ黒だから、時々悪魔と勘違いしそうになる。
「やぁ、夢生。今日も裏に呼び出されてたのか?」
「……まぁ、うん」
「そうか。いつも通りだな。じゃあ夕飯時だし、さっさと帰ろうぜ」
「……ちょっとは大丈夫とか、言ってくれても」
「うるせぇな。お前は52ヘルツの鯨なんだろ? さっさと立てよ」
「……」
そう言われ、僕は痛む膝になんとか力を入れて立ち上がる。そして、杉の木に掛けて置いてある自分のバッグを肩にかけた。それから怪我を誰かに見せつけるように、少しだけ足を引き摺って歩き出す。
「でも、今週はそんなに呼び出される回数が多くなかったな。試験が近いからか?」
「……あんな奴らが試験の成績なんか気にするわけないじゃん」
「でもお前。あいつらとそんなに成績変わらないだろ」
「……いや、そこまで悪くないでしょ」
「いや、それぐらい悪いだろ。123人中95位ってそのレベルじゃないのか。どう考えても」
「……」
何も言い返せない僕を見て、クロは鼻で笑う。彼が僕の元にやってきてから、こうやって嘲笑われることばかりだ。
「……でも、あいつらは僕たちをいじめて楽しんでるような人間だし。学力は同レベルかもしれないけど、人間的には……」
僕の方が上、と言おうとしたところでクロに遮られた。
「いや、人間的にそれ未満だから虐められるんだろ。見下されてるから虐められるんだ」
「……僕がしたい話はそういうんじゃなくて。魂のランクというか」
「魂のランク……ねぇ。虐める奴が一番最低だとか、人として成熟しないとか、そういう話?」
「そう!」
「いや、お前だってよくやってるじゃん。嫌いなバンドや嫌いな小説家を中傷したりさ。その誹謗中傷といじめって場所がネットか現実かの違いはあれど、やってること全く同じだろ」
「それは違う!」
「どう違うんだ?」
「……それは」
そう返され必死に言い訳を考える僕を、クロはまた馬鹿にしくったように鼻で笑う。好き勝手言いやがって。そもそも、普段ご飯をあげているのは僕だ。立場は弁えさせないと……。
「……そもそも、僕がお前を飼ってやってるのに、なんでいつもそんな偉そうな態度なんだよ。もう二度とご飯あげないぞ」
「え、それじゃ困りますご主人様……とでも言うと思うか? なら、他のとこからもらってくるだけだ」
「……じゃあ、付きまとうなよ」
「それは嫌だぜ。だって、俺には何としてでも成し遂げないとならない計画があるんだから」
「……」
そう言われたら、僕はもう黙り込むしかない。一応、彼がこの星に来た理由は知っているけど、どうして僕に目を付けているのか、その理由は未だに分からないままだ。
「今日の夕食は何かなぁ。カレーだといいな。なぁ、夢生」
「……別に何でもいいよ。どうせロクに口に入らないし」
2
謎の生命体。クロと出会ったのは一か月前の病院だった。
あの夢を見た後、僕は病院のベッドで目覚めた。どうやら、僕は夢の中で暮らしていた時と同じ日数、つまり一週間もの間、ずっと昏睡状態だったらしい。ただ、そうなった原因は不明。ガスマスクを被った医者も匙を投げていた。
ただ、原因が不明だったということは検査しても特に異常が出なかったということだ。結局、目覚めた翌々日には退院、ということになった。
で、クロが現れたのは、その退院の日の前日だった。
「よぉ、お前が綿貫夢生か。長き夢の旅はどうだったかな。好きな女に発情して、嫌いな奴に復讐出来て楽しかったか?」
そう真夜中の病室に入り込んだ彼は、ベッドで横たわる僕を見て気味の悪い澱んだ笑みを浮かべた。
そんな突然現れた彼に対して、僕は驚きで声が出なかった。だって、空飛ぶ黒いハムスターみたいなやつがいきなりやってきて僕に話しかけて来たんだから。
「驚いてるな。でも、声を上げないのは賢明だぜ。叫ばれたら面倒だ」
「……き、君は一体?」
「俺か? 俺はまぁ、ざっくり言えば地球外生命体だ。こんな生物、地球で見たことないだろ?」
「それはそうだけど……」
つまり、UMAとかと同類だと思えばいいのだろうか……。ただ、いきなり日本語を流暢に話す未知の生き物にそう言われたところで、はいそうですかと受け入れられるほど、僕の適応能力は高くない。
「まぁいいや。俺は一つ使命があって、そのためにこの星にやってきたんだ」
「……使命って?」
「俺が住む星を救うことだ。俺の星は今、厄介な宇宙人に侵略されようとしていてな。それを防ぐために地球で有益そうなやつを見つけ、そいつらを倒してもらおうとしているんだ。で、その素質のあるやつを今探してて、俺はお前に目を付けたってわけ」
「……僕、何の力も無いんだけど」
「今はまだな。だけど、覚醒さえすれば、お前は地球上の誰よりも、下手したら核兵器なんかより何倍も力を得ることが出来る」
「……へぇ」
「信じてないな。まぁ、こんな突拍子もない話を簡単に信じられるような奴でも困るけど」
「そりゃ……そんなアニメみたいな話、突然されても」
「でも、お前夢を見ていただろ。退屈なうえに長い、自分の欲求にだけ従ったクソみたいな夢。まぁ、ラストは結構面白かったが……」
「……ちょっと待って、どうして僕が見てた夢の内容まで知ってるの?」
「そりゃ、寝てるお前の頭の中を覗いていたからさ。だから俺は、あの時、お前が宇賀神愛にしたことも、お前を虐める奴らをどうしてやりたいかも知っている。お前の性質が、虐める能力のないいじめっ子であるということもな」
「……」
「でも、自分のことを52ヘルツの鯨と言える神経は凄いと思うぜ。聞いた時、思わず笑っちまったもん。本当に自分のことを悲劇の主人公とでも思ってるんだろうなって」
「……馬鹿にしてるの?」
「そりゃな。でも、だからこそ俺はお前に素質があると考えたんだ。覚醒の最低条件である、長い夢を見た人間の中でも特にな」
……素質がある。本来であれば嬉しい言葉のはずなのに、全く嬉しさがこみあげてこない。そもそも、一体覚醒とは何なのだ。ウルトラマンで言う変身みたいな? どうして、そんな能力を僕が?
そもそも、頭の中を覗くって一体どうやったのだろう。もしかして、僕は今なお、こいつに自分の考えを覗かれているのだろうか。
不思議、というより怖くなってそれを尋ねてみると、クロは平然とした様子で。
「まぁ、うちの星の文明はお前らのより進んでいるからな。やろうと思えば今もできるぜ」
「……なのに、僕らの力が必要なの?」
「あぁ、と言っても今の力で人間が奴らに挑んでも、勝ち目なんて一向にないがな。それぐらい滅茶苦茶な奴なんだ。だけど、お前らが覚醒さえしてくれれば、あいつらに反撃する紛れもない特効薬になる。だから俺はお前に力を借りに来た」
「……もし、君のことを他の人、例えば研究所とかに話したら?」
「殺す。まぁ、お前に密告されたぐらいで捕まるほど、俺たちは間抜けじゃないけどな」
「……殺せるの? 君が、僕を」
「さっき言っただろ。俺たちの星の文明は、お前らの星よりもよっぽど発達しているんだ。崖から転落した動物を助けるのも、人一人を木端微塵にするのもわけないさ」
「……そっか」
……つまり、僕はフィクションの漫画や小説みたいに、何かとんでもないことに巻き込まれたらしい。
そして、これこそが僕等の出会いの一幕。それからクロは、この日を境に僕にまとまりつくようになった。
3
父親とママの話し声と、ニュース番組の音がリビングの中を支配している。父親の言葉にママが頷く。僕等の食卓の時間はそうして回っている。その間、僕はただ下を向いて、食欲もない中うどんを啜っていた。
四年前からコロナウイルスが流行して、父親の会社がテレワークを推進するようになってから、こんな感じで家族全員と食卓を囲むようになった。
でも、この家族団欒の時間が気まずさを凝縮したような、息の詰まる時間になったのはいつからだろう。
僕は横目でテレビを見る。内容は埼玉県の親殺しのニュースで、引きこもりの息子が両親にナイフを突き付けて殺したというもの。殺人白書によると、殺人の過半数は実は家族間で行われているらしい。
時々僕も、それを実感する時がある。
「なぁ、夢生。もうじき学校の中間テストだよな。しっかり勉強してるのか」
「……まぁ、ほどほど」
誰から聞いたんだろうと思って、ママしかいないかと内心舌打ちが出る。余計な事言いやがって。学校からの手紙も時々しか渡していないのに、どこから情報を仕入れてくるのだろう。
「前回の成績は何位だったんだっけ?」
「……95五位」
「何位中だ」
「……123位」
「お前の通いたい高校は」
「K高校……」
そう父親がどうしても行かせたがっている、地元でも高偏差値で有名な高校の名前を僕は上げさせられる。
「そうだよな。約束したもんな」
「……はい」
「じゃあお前、次のテスト20位以内じゃなかったらゲームとパソコン禁止な」
そう父親に言われた瞬間、僕は驚きでつい顔を上げてしまった。その目線の先にあったのは阿修羅の面を被った父親の姿。殺意が込められた真赤な面で僕のことを睨みつける修羅。その面が向けられるたび、僕は呼吸の仕方が分からなくなり眩暈がし始める。
「なんだ、なんか文句でもあるのか」
「……あの、僕一週間ぐらい学校休んでたんだけど」
「だとしても教科書は持ってるし、買ってやったワークでテスト範囲の勉強位できるだろう」
「でも、その間のノート、取ってない」
「そんなの、友達にでも見せてもらえばいいじゃないか。なぁ、母さん」
コイツは何を言っているんだとでも言いたげな、馬鹿にしくった口調で奴はママに言う。さすがに友達が一人もいなくて、誰にも見せてもらえそうにないことは言えなかった。
挙句、授業も所々寝て過ごしてるから、授業によってはノートもちゃんと取れていなかったけど、余計なことは言わない。
「いいか、夢生。俺はな。お前の頑張ってる姿が見たいんだ。お前は普段からスマホやゲームで遊んでばかりで何の努力もせず、いつも部屋に閉じこもっている。挙句の果てにサッカーからも逃げ出したよな」
「別に逃げ出したわけじゃ……」
「じゃあ、何なんだ。言ってみろ」
「……僕はただ、もっと自分に似合った部活動があるんじゃないかと思って」
「はぁ? でも、お前はサッカー部を辞めた後、何の部活動にも入っていないじゃないか」
「……それは」
「……あのな、そういうクソみたいな言い訳辞めろよ。俺はな、言い訳をするような人間がこの世で一番嫌いなんだ」
「……」
「言い訳して、すいませんと言え」
「言い訳して、すいません」
「目を見て言え」
そう言われ、僕は躊躇する身体に無理やり力を込めて、おそるおそる彼の顔をもう一度覗き込む。あるのは、憎しみを象ったような造形の修羅の顔。鬼の顔。怒りの顔。
一体、コイツの被った仮面のどこを見れば、目を見たことになるのだろう。
そう思ったけど、口には出さない。そして、僕は過呼吸になりかけながらなんとか発声をする。
「言い訳して、すいませんでした」
4
父親が風呂に入ったのを見送ってから、僕はママに問い詰めた。
「ママ! なんでテストの話父親にしたの!? 黙っていれば、こんな話になるわけなかったのに!」
「ご、ごめんね。夢生。でも、テストってあなたの将来にもつながる話でしょう? なのに、あの人に話さないというのも」
「だとしても、僕が入院してたの知ってたよね! 絶対20位以内なんて無理だよ! どうしてくれるのさ!」
「ご、ごめんね。夢生。私も何とか説得してみるから……。だから、落ち着いて」
そうママは申し訳なさそうに顔を曇らせて、僕に謝る。声を荒げる僕に、なんとか落ち着いてと身振り素振りで伝えようとしてくる。でも、それがまた腹が立った。
誰のせいでこんなことになったと思ってるんだ!
そう、入浴中の父親には聞こえないよう声を抑えながら、怒気を放つ。ママはあんまり僕に歯向かったりしないから、時々言いすぎてしまう。でも、そうしないと分かってもらえない、謝ってくれないんだから仕方ない。
そうして部屋に戻ると、そこではクロがテレビを見ていた。画面に映っているのは、なんだかよく分からない洋画。コメディとして人が死んでいく映画。
「親父さん、今日も絶好調だったな」
「……まぁ」
「そして、お前もいつも通り絶好調だったな。ママへの八つ当たり」
「……何、なんか文句でもあるの?」
「いやぁ、歪な家族だなぁって。息子から父親への会話は一切なく、父親は息子に説教するだけ。挙句、その八つ当たりは全て母親が受ける。……お前のママ、いつか自殺するんじゃねぇの?」
「何言ってんの? するわけないじゃん」
「まぁ、そう思ってるならいいや。というか、冷静に考えたらあいつらの教育の積み重ねの結果がお前だしな。なら、どんな人間に育ってもあいつらの自業自得か」
そう吐き捨てながら、クロは勝手に僕のポテチを開けて食べていた。そのカスがカーペットにポロポロ落ちている。
それより、さすがにその言い草は聞き捨てならなかった。
「……あのさ、人のポテチ勝手に食べながら意見してるけど、お前はなんなの? 居候してるくせに、生意気なんだよ」
「おっ、52ヘルツの鯨が怒った」
「……お前な」
そう寝転がってるクロを掴もうとして、あっさり躱される。クロはいつもの舐め腐った表情でこちらを見ると。
「一つ気になっていたんだけどさ、お前、母親のことが好きなんだよな?」
「……まぁ。夢を勝手に見たんだから、どうせ全部知ってるんでしょ?」
「あぁ。お前が重度のマザコンってことも」
「僕はマザコンじゃない!」
「声でか……。……いやまぁ、でもそうか。お前、別に母親が死んでも一週間後には何事も無かったようにケロッと暮らせてそうだしな。なら、マザコンじゃないか」
「……何言って」
「お前、母親のことなんかどうでもいいと思ってるんだろ? 口では好きだとかいいながら、本心では召使いとか奴隷だと思ってる。だからあんなに無碍にできるんだ」
「そんなこと……」
「そうじゃなかったら、あんな内弁慶にはならないだろ」
「……」
「いや、でもああやって八つ当たりとかして甘えられてるのは立派な依存か。なら、お前はママを大切に出来ないマザコンなんだな。産んでくれたママを便利な道具としか思っていないマザコン」
「……」
口から声が出なかった。どうしてクロは、こんなにも酷いことを僕に言うのだろう。……もしかして、クロ自身が僕に何か八つ当たりでもしてるのか?
「……僕は、マザコンじゃない」
「ふーん。まぁ、どっちでもいいけどさ。お前、父親はまだしも母親に『この子は理想の息子です』って言われて、胸張って『うん』って頷けるのか?」
「……」
「黙って何も言い返せないのがその答えだろ? まぁ、俺が他に目を付けている奴にもマザコンは居るし、あんまり気にするな。そんなことより、テストだよ。あと一週間ぐらいけど、どうするんだ?」
「どうするって……。まぁ、勉強するしか」
「でもしないじゃん。お前」
「いや、頑張るって……さすがにゲームが禁止になるのは耐えられないし」
「そう?」
「……うん、今回はガチで頑張るから」
5
そして、一週間が経った。テストは来週の月曜からで、残された猶予はあと少ししかないのだけど。
いまいちやる気がしない。僕は机に置いたスマホを何となく手に取って、SNSアプリを開く。投稿一覧で、僕の嫌いな小説家が偉そうなことを呟いていたから、引用リツイートでボロクソに叩く。次は、嫌いな四人組バンド。これも同じように悪口を呟く。
すると時々反応があったりするから、少しだけモヤモヤとした気が晴れる。
「おい、夢生。またスマホか? テスト勉強はしなくていいのかよ」
「……疲れたから、ちょっと休憩」
「で、SNSかよ。……って、なんだこれ」
「ちょっと、勝手に見ないでよ!」
「……今更だけど、お前のSNSの投稿欄って本当に終わってるよな。人として」
そう顔を引き攣らせて、クロがぼやく。だから、僕は軽快に言葉を返した。
「えーいや、そこまででもないでしょ」
「……いや、別に褒めてねぇから。ニヤついてんじゃねぇよ気持ち悪い。てか、どんな生き方をしたらその性格の悪さの言及を賞賛と受け取れるんだ? ちゃんと人に褒められた経験が無いのか?」
「……そこまで言わなくても」
「まぁ、いいや。そういえば、お前もなんか創作をやってたんだっけ?」
「……ん、まぁ、一時期小説を書いてた」
「あぁ、そういえば夢でなんか言ってたな。完成してんの?」
「いや、まだ……」
「要は途中で投げ出したんだ。ふーん……」
……趣味でやってるんだから、別にいいだろうが。
「まぁ、いいや。完成してなくてもいいから小説、読ませてみろよ」
「……書き終わってないのに、読みたいのかよ」
「そりゃぁ、お前のことをもっと知りたいしな。創作は思想の塊だから、もしかしたらお前の覚醒のヒントになるかもしれない」
「……分かったよ。ちょっと待って、今起動するから」
そう言って僕はパソコンを起動させ、執筆アプリを開く。
「これか。タイトルは……イマジナリーガ―ルフレンド?」
「……うん」
「ふーん、じゃあ読んでるから。お前は勉強しときな。本当にゲームとか全部没収されるぞ」
そのクロの言葉に、僕は仕方なく勉強に戻った。だけど、目の前で自分の小説を人に読ませているとどうしてもそわそわとして集中できない。ただ、クロの顔は読み進めていくにつれてどんどん険しくなっていった。
嫌な予感がした。
そして、まだ途中しか読み終えてないだろうに、クロはモニターから目を離して。
「これ読む価値ねぇや」
とはっきりと吐き捨てた。……こいつは、目の前に書いた当人がいることを分かっているのだろうか。
「……いや、途中で読むの止めたでしょ。最後まで読んでから評価してよ」
「いや、そもそも最後まで書いてねぇじゃん」
「それはそうだけど……」
「つーか、最後まで読まなくてもこの小説がゴミだってことぐらい、始めの数文読めば誰でも分かるぞ。まず文法が滅茶苦茶だし。『てにはお』って今の小学校中学校では習わないのか?」
「いや、習うけど……」
「あぁ、そっか。お前馬鹿だからまともな文章書けないだけか。ほんと、頭が悪くて勉強もしないと支離滅裂な文章しか書けないんだな。お前の文章読んで実感したわ」
「……」
「挙句、会話文も死ぬほど面白くないし、キャラクターもストーリーの操り人形になってるから支離滅裂な行動しかしない。あと別にお前、小説が好きだから、自分の考えを文章で表現したいから、とか思って小説を書いてないだろ」
「そ、そんなことないよ……」
「本当か?」
そのクロの言葉に、素直に頷けない。それにしても、いくらなんでもあまりにもな酷評過ぎないか。確かに完成は出来なかったけど、個人的には結構頑張って書いたはずだったのに、こんなにも言われることがあってもいいのだろうか。
「そもそもさ、どうしてお前はわざわざたくさんある自己表現の手段から小説を選んだわけ?」
「……それは」
「絵が描けない、音楽が作れない、映画撮れない、ゲーム作れない、動画編集できない、その為の勉強もしない、人脈も無い……。全部、『ない』が理由の消去法だよな? で、書きたいものもない」
「……」
「ただ、ちらほらされたくて、何者かになりたいから書いただけ。まぁ、そうだよな。何かを頑張ったことがない。人生で情熱をかけて取り組んだことがない。自分の現状とまともに向き合ったことがない。全部が『ない』。それが文体から伝わってくるよ」
「……別に向き合ってないわけじゃ」
「でも、どうしたら虐められないようになるかとか考えて実行とかしたことないだろ。例えば、その見苦しい指毛とか腕毛を剃るとか、鼻毛や眉のケアをするとかさ」
「……」
「まぁ、お前の醜い容姿の話はいいや。とにかく、創作というのは少なからず何らかの意思が必要なんだよ。世界を滅ぼしてやりたいとか。好きなあの子と付き合いたいとか。で、お前はこの小説にどんな感情を込めて書いたんだ?」
「……それは」
「何も思い浮かばないだろ。何も伝えたいものが無いんだろ? そんな人間に面白いものが書けるわけがないだろ」
「……」
「つまり、お前に創作はまだ早かったんだよ。いや、一生向いてないのかもしれない。だってお前には何もないんだから」
そう吐き捨てると、クロは僕の耳元に近づいて、こうぼそっと呟いた。
「……このままじゃお前。何者にもなれないね」
6
そして、テスト週間が終わった。
……結果はまぁ、あまり芳しくはない。新作の小説の構想を練るのに忙しかったのも一つの理由なのだけど、それを言っても仕方がない。
そして、テスト週間が終われば、またいじめが始まる。
昼休みがもうじき終わる四階の誰も来ない男子トイレの中、小鬼の面を被る仲川が下手な女声を出して、その辺のクラスメイトが笑い声をあげる。悪鬼が腕を僕の肩に回して。
「面白いよな! 綿貫?」
と尋ねるから、「はい!」と頷いた。ちゃんと笑み、作れているだろうか。
「じゃあ次、綿貫夢生くんの番で~す。綿貫くんは、一体何の物真似をしてくれるのかな?」
「えーと、AV男優がパンイチで女優を囲んでいる時の、物真似をします」
「ヒュー!!!」
そう大きな歓声があがる。僕はすでにパンツ一丁で、脱ぎ捨てられたワイシャツや制服はトイレの床に転がっている。僕は考えることをやめて、身体を縮こませて自分の性器を優しく揉んでいた。悪鬼たちが爆笑をしながらそれをスマホで映す。
「イキそうになったら手を上げて、監督さんに合図してねぇ」
「は、はい」
「返事はしないでねぇ。今撮ってるんだから」
その声にまた、取り巻き達の爆笑が鳴る。サッカー部の昔の後輩たちが、菓子パンを食べて一緒に笑っている。「まだか?」と小鬼が僕の尻に蹴りを入れる。
だけど、いくら性器を揉んでいても、射精感はしなかった。
すると、チャイムが鳴る。気付いたら、結構時間が経っていたようだった。
「かいさーん」とガイ・フォークス・ナイトが笑いながら言う。それを皮切りに皆がトイレから去っていく。僕も床に落ちた制服を身にまとって、トイレを出た。
そして教室に戻ると、もうすでに先生も生徒も全員揃っていた。鉄仮面を被った先生が無感情に「綿貫、遅刻」と声をかけてくる。クラス中から、白けた笑い声が聞こえる。
「すいません」
「いいから、早く席につけ」
先生は僕が遅れた理由に興味がないのか、そう言ってすぐに授業に戻った。この時間はロングホームルームだ。そして、本来は体育祭の種目決めなどに使われるであろうこの時間は、生徒たちが約束を取り付け、もう一つのイベントが行われる。
席替えだ。
「じゃあ、約束通り席替えをやるけれど、他のクラスの迷惑になるからあまりはしゃがないように。……山田、頼んでいたくじ引きは出来ているか?」
「あ、はい。これです」
そう言って、学級委員の山田はくじが入ったビニール袋を先生に渡した。そして、出席番号順に席を立ってくじを引いていく。クラスメイトは全員、何らかの面を被っているから表情は伺えないけれど、なんとなくそわそわとしているのは伝わってくる。
僕もそうだ。今度こそ、宇賀神さんの傍の席に座れるといい。あのことが彼女に見つかって以来、毎回遠くの席になっているけど、今度こそは……。
そして、先生にくじを渡して、彼が黒板に僕の名前を書く。次の席は教室の真ん中の一番後ろ。そして女子の番が来て、AV女優の面を被った愛川が品のない大きな声で。
「えー! わたし、綿貫の隣……。え、いや、マジで無理なんだけど」
と宣った。近くに居たガイ・フォークス・ナイトが「ドンマイ」と明るい口調で言う。
「……まぁ、別にいくらでも回避する方法はあるし」
そして、宇賀神さんの番。宇賀神さんは、二列目の一番右の席だったらしい。また、遠くの席だ。くじを引き終えた彼女はどこかほっとした表情を見せている、気がした。クラスで唯一仮面を被っていない彼女は、決して僕と目を合わせることをしない。
そして、最後に一枚くじが足りないというアクシデントはあったが、席替えは無事終わった。先生は淡々とした口調で。
「よし、これで全員くじは引き終えたな。あとは、後ろの席で目の見えない生徒とかいないか? 大丈夫か?」
その時、一人の生徒が声を上げた。
「はぁーい。わたし、ちょっと目が悪くてその席だと黒板見えないかもしれないです」
「……愛川、お前コンタクトじゃなかったっけ?」
「違いますよぉ。別に先生が受け付けないって言うならいいですけど、それだと黒板見えないから、友達に聞いちゃって授業妨害とかしちゃうかもしれないです~」
「……じゃあ、どの席がいいとかあるか?」
「んー、宇賀神さんの席とかぁ。しかも、宇賀神さん、目、良かったよね?」
そう言われ、彼女がビクッと身体を震わすのを、僕は見逃さなかった。
「だそうだが……すまんが宇賀神。頼めるか?」
「す、すいません。そ、それは。それだけはちょっと」
「えー、どうして? 宇賀神さん、風紀委員でしょ。だったらこういう時、困ってる生徒が居たら助けてあげるものなんじゃないの?」
二人とももっと、もっと言えと思った。この時だけ、この瞬間だけは僕は愛川の味方をする。普段は死ねと思ってるけど。
「いや、そんなのは風紀委員の役目じゃ……」
「……もしかしてさ、宇賀神さん、綿貫の隣だから嫌がってるんじゃねぇの? もしそうだったら、それっていじめじゃない?」
そう、小鬼の面を被った仲川は続ける。それを、先生は語気を強めて窘めた。
「仲川、そういうことを言うな。でも、他に交換していいという奴もいないだろうし……。そうなると、授業の進行にも影響してくるし……な? だから、宇賀神にぜひお願いしたいんだ。頼めないか?」
その先生の言葉で、クラスメイト達が一斉に宇賀神さんを見る。彼女はこの状況を万事休すとでも思っているのか、憔悴しきったような表情を浮かべている。
そして、僕と目が合った。
その瞬間、彼女は僕が教室で彼女のパンツに射精したのを見つけた時と、同じ表情を浮かべていた。性犯罪者と共に同じ檻に閉じ込められた時のような、恐怖の顔。女子しか出来ない顔。
彼女が口元を抑える。その綺麗な凛とした瞳には、涙が浮かんでいる。
「……いや」
「……どうした、宇賀神?」
「……いや、絶対に嫌です!! それだけは絶対嫌! 本当にごめんなさい! でも、それだけは無理です! 絶対に嫌! ごめんなさい、ごめんなさい!」
そう狂乱したように、彼女は涙目になりながら大声で叫ぶ。クラスに居た皆も、呆然と彼女を見つめていた。こんな彼女の姿を見るのは初めてだと、教室全体に漂う空気がそう告げている。
その拒絶を遠目で見ていた僕は、ただ死にたかった。
「そ、そっか、すまん。じゃあ、申し訳ないけど、愛川の席替えは無しということでいいか」
「え、あ、ちょっと!」
「じゃあ、皆、席替えを始めてくれ。席替えの後は運動会の種目決めをするから、クラス委員は前に出るように」
その先生の言葉を皮切りに、クラスメイト達は戸惑った様子ながらも席替えのため机を動かしてく。元々後列だった僕はすぐ席を動かしただけで、目的の席に着いた。
と、同時に座っていた椅子に大きな振動が来る。椅子の足を蹴られたのだ。
「お前のせいだからな。あとで、覚えとけよ」
そう吐き捨てて、出来るだけ机がくっつかないように、愛川は自分の机を床に置いた。まだ、宇賀神さんは泣いていた。
何もかも嫌になった僕は、不意に窓の外を見た。雲行きの怪しい空、それと一緒に一部始終を見ていたであろうクロが、僕を見つめて笑っている。
こうして、僕の日常は続いていく。
7
ホームルームで運動会の種目を決めている最中、僕の気持ちはずっと沈んだままだった。例えるなら、沈没船に閉じ込められて窒息した死体のような、気圧で潰されて二度と元に戻らない空き缶のような。
つまりはまぁ、ようやく少し落ち着いてきた宇賀神さんと、そんな彼女と僕を横目でチラチラ見てくるクラスメイト達の視線を受けて、死にたくなっていた。
本当に、死にたかった。
あぁ、惨めだ。満開の桜の中、たった一人だけ蕾のまま咲けなかったような人生。失敗作の代表作。訳ありと称されて安売りされている果実からも外された、腐った林檎。
そんな腐った僕は、いつもの背筋の良い座り姿とは違って、虐待を受けて怯えた動物のように丸まった宇賀神さんを見る。
そして、今更思うのだ。彼女が今、学校に来て授業を受けていること。それ自体がニュースやネット新聞で散々言われていたように、奇跡だということを。
宇賀神さんが巻き込まれた事故、それは夏休みに入る直前で起こった。家族とのドライブで山奥の有名な観光地に行く途中、彼女を乗せた車は観光バスと衝突し、崖下へと落ちたらしい。報道によれば、観光バスに乗っていた乗客や運転手は皆、死んだとのことだった。
なのに、宇賀神さん一家は全員無傷で大した怪我一つ無かったらしい。まぁ、宇賀神さんは意識を取り戻すまで一週間ぐらいかかったとのことらしいが……。
それでも命に別状はなく、メディアはそんな『仕組まれた奇跡のような』偶然を毎日毎晩、どっかの自動車会社の不祥事が公になるまで、面白おかしく報道していた。時々テレビでニュースを付けると僕たちの学校が映っていたこともあったから、世の中の注目度は僕が肌で感じていたよりもずっとあったのかもしれない。
……今思えば、彼女が変わってしまったのは僕だけのせいではなく好き勝手彼女やその家族を報道していたメディアのせいでもあったのではないだろうか。彼女のまっすぐで誠実という言葉が相応しい、正義の心。それに泥をかけて諦観という種を蒔いたのは、決して僕だけのせいではない。
僕だけが悪いわけではないのだ。そもそも、アレだって元を正せば八瀬達のせいなのだし。
運動会の種目決めは次々と決まっていく。種目の点数が高いものを運動が出来るやつが務め、僕が任せられるのは点数が低い、誰もが参加するという建前のためだけにある競技。
それでも、クラス対抗リレーはどうしたって出なくちゃいけない。だから、この惨めな気持ちは運動会が続くまではきっとこれからも続いていく。
もしかしたら、人生が終わるまでこのままずっと続くかもしれない。
それを思うと、また死にたくなった。
8
三日後のクラスルームで、テスト結果が配られた。結果は123位中90位。前回と大して変わらなかった。気が重くなる。父親は本当に僕からゲームを取り上げるのだろうか。
まぁ、やるだろうなとは思う。一年時に取り上げられたスイッチはまだ返って来ていない。お年玉で購入したゲーム機だったのに。まぁ、当時はスプラトゥーンでムカついて叩いて机を凹ませたりして、やりすぎてしまったところはあれど。
そしていつも通り八瀬達にいじめられて、かなり遅く家に着いた。テスト結果の返却日が今日だったことは以前伝えさせられていて、夕食時に僕はテスト結果の書かれた用紙を父親に提出して。
「じゃあ、約束通り、ゲームとパソコンは没収だから。……頑張るって言ってたあの言葉、一体何だったんだろうな」
「……」
「まったく……。あ、ゲームとかは目標を達成したら返してやるから。次の期末でも同じような成績だったら今度はスマホを没収するからな」
「……いや、それはさすがに」
「なんだ、何か文句でもあるのか?」
「だって、学校での連絡事とか全部スマホで来るし……」
「そんなの、友達に教えてもらえばいいだろう」
友達なんていない。そう正直に言えたら、少しは楽になるのかなと思う。普段僕が学校でどんなふうに過ごしているか、それを事細かに教えたら、一体父親はどんな言葉を発するんだろう。
もしくは物を取り上げてすべて解決しようとする毒親なんて、死ねと言ってみたらどうなるだろう。父親からは何も息子に施そうとせず、ただ目標だけを勝手に押し付けてそれで教育ごっこをしている父親。そんなのは、立派は毒親のはずだ。
僕は不意に、もうこれからできないであろうお気に入りのゲームのことを思い出す。緑色のオークが、その腕力を生かして闘うオープンワールドゲーム。そのゲームでは、やり方次第ではその辺の住民も虐殺できた。
あんな風に、目の前の父親もその腕力でぶち殺せたら、どれ程気持ちがいいのだろう。
「お前はいつも出来ないことの言い訳しかしないな。俺の言われたことを素直に受け入れて、頑張ったらそれでいいじゃないか。なのに、どうしてそれが出来ないんだ?」
「……それは」
「どうしてお前は俺と喋る時、いつも俯いているんだ? そんなに俺が嫌いなのか?」
そう言い放つ父親の顔には、いつだって阿修羅の面が付いている。嫌いじゃない、怖くないはずが無かった。
「……どこで育ち方間違えたんだろうな」
そう父親は吐き捨てて立ち上がる。おそらくベランダで煙草でも吸いに行くのだろう。ママはそんな僕等を気まずそうに眺めていて、僕はそんな彼女を強く睨みつける。
お前のせいで、こうなったんだからな。
そして、僕は二階の自室に戻る。そこでは、クロが待っている。
「……なんだ、そんな泣きそうな目をして」
「……死にたい。もう無理、死にたい」
「唐突だな。まぁ、最近は色々あったしな。……宇賀神のためにも、もう学校に行かない方がいいんじゃねぇの、お前?」
「そんなわけにもいかないよ……。学校行きたくないなんて、親に言えないし」
「言ってみればいいじゃん、虐められて皆から嫌われて僕もう学校に行きたくありませんって。それでなんて言われるかは分からないけど」
「……昔、言ってみたよ。そしたら、いじめられるなんてお前がナヨナヨしてるからだ。男なら、お前がいじめっ子にやり返すぐらいの根性を見せてみろ、と言われた」
小学五年生の時だったと思う。その時、確かこうも言われた。お前をいじめられるような人間に育てた覚えはないと。
「でも、宇賀神のパンツでオナニーする根性はあったんだろ?」
「……それ、今関係ある?」
「いや、その根性あるなら八瀬達にやり返せばいいじゃん。やり返すより、他人の私物でシコる方が勇気要るだろ」
「……あれは、八瀬達に強要されて」
「だとしても、人として超えちゃいけない一線ってあるよな? 強要されたら、他人の私物でオナニーしても許されるのかよ?」
「……」
「……まぁ、何でも他責志向のお前からしたらそうだよな。八瀬達に強要されて宇賀神のパンツで性欲処理したとしても、お前に悪い所なんて一つも無かったんだよな」
「……おえ」
吐き気がして、いつも通り傍にあったビニール袋で今日の夕食の中身をすべて吐き出す。その光景はクロにとってすでに見慣れているらしく、欠伸をしながらそんな僕を眺めていた。
「またゲロ吐くのかよ。でも、宇賀神も変な女だよな。そこまでお前に対して拒否反応があるなら、先生に事情を話してお前を学校から追放してもらえばいいのに」
「たしかに……」
クロの言う通りな気もした。どうして彼女は、あの出来事を学校に報告せず、皆に黙ったままでいてくれるのだろう。彼女が僕のことを嫌っている、いや性犯罪者と同類に扱っているのは明白なのに。
「というか、お前も好きな子にそこまで嫌われてよくもまぁ生きていられるな。底のないストレスの貯蔵機みたいだ。……いっそのこと、それを頑張ればいいんじゃねぇの?」
「……それを頑張るって?」
「お前の抱えている絶望。それを頑張れと言ってるんだ。お前が今送ってる人生って相当グロテスクだろ? 皆に馬鹿にされて、嫌われて。で、取り返しがつかないほど人格も歪んだ。もはや、好きだという宇賀神のことすらも性的対象としか見れない程に」
「……それってどういう意味だよ? 僕は宇賀神さんのこと、本当に好き……」
「いや、本当に好きだったら、彼女が嫌がることなんてしないだろ。それも、性犯罪なんて」
「……それは」
「なぁ、夢生。お前は夢の中で『優しくしてくれたのは、宇賀神さんとママだけ』と言っていたな。でもそれは、裏を返せばお前という人間に優しく接するということが、常人にとってそれほど抵抗があって難しいということなんだ。弱者男性なんてワードが世の中には飛び交っているけど、お前ほどの弱者は多分、世の中見渡してもそこまで多くない」
「……クロは、一体何を言いたいの」
「つまり、そんな人生を送れるのは、ある意味貴重だってことだよ。今まで、俺はお前が何事も頑張ったことが無い人間だと思っていたけど、それは違ったんだ。お前はどれほど人から馬鹿にされても、好きな人に拒絶されても、何も変わらない。サンドバッグや玩具として扱われても、無抵抗のまま学校に通い続けている」
「……」
「それって普通の人間からしたら、きっと想像を絶するほど難しいことだと思うんだよな。つまりお前の人生で唯一、頑張ってきたのはそれなんだ。ストレスを上限無く抱え込みながら生きること。それが出来るのが、お前の個性であり、お前の唯一の長所だ」
「……」
「なら、もっともっと鬱屈を溜め込めばいい。希死念慮を積み重ねればいい。そしたら、きっとお前だけの洗練された思考が生まれる。面白い小説を書きたいんだろ? なら、今の環境はきっと恵まれてるよ」
「……恵まれてる?」
「だって、その特別はお前だけのものなんだから。誰にも望まれないで誰にも好かれないで誰からも劣っていると認識されて、でも、絶望に浸って悲劇の主人公ぶることしか人生を頑張れない。そんな生き方はお前しかできない」
「……そうなのかな」
「そうだ。だから、夢生。これからはもっと絶望を頑張ろう」
「絶望を、頑張る……?」
「あぁ、もっと心を痛めつけて感傷に浸って、人生を憎しみや鬱屈で縛り付けよう」
「……分かった」
そう、頷いてはみる。みるけども、それをやり切る自信はなかった。
「……どうした、夢生。そんな浮かない顔をして、何か不安なことでもあるのか?」
「……いや、大したことじゃないんだけど。……それでうまくいくのかなって。例えば、僕の心、壊れちゃったりとか」
そんな僕の言葉を、クロは面白いジョークでも聞いたように大爆笑して、こう答えた。
「アハハハハ! 何、弱気になってるんだ夢生。大丈夫だ。
お前の心はな、何があったとしても決して壊れはしないから」