【SFショートストーリー】エントロピーと愛の狭間で
宇宙船「プロメテウス」が閃光を放ち、大爆発を起こした。瞬時に船体は無数のスペースデブリと化し、辺りの静寂に吸い込まれるように散らばった。その中で、男性宇宙飛行士カイルと女性宇宙飛行士エレナは、宇宙服を着たままの宇宙空間を漂い始めた。酸素残量はあと1時間。生還の見込みはほぼゼロだった。
カイルは無線を切り、虚無に広がる星々を見つめた。彼の呼吸音がヘルメット越しに微かに聞こえる。エレナも無言のまま星空を見上げていた。
「まるで我々は……漂流する星の一部になったかのようだな」
カイルがつぶやく。彼の声には、ただの観察者ではなく、自らが星の運命に飲み込まれていく者の響きがあった。エレナは淡々とした声で応じた。
「まるでエントロピー(*1)の一環ね。私たちは宇宙の熱死に向かう、無限に広がる宇宙の中の小さな粒子に過ぎない……秩序は崩壊し、混沌へと向かう運命。私たちも同じ」
二人は笑った。死を間近にして、彼らは今や哲学的なジョークを楽しむ余裕があった。酸素が減少する中で、彼らの会話は次第に抽象的な思索へと向かう。
「だが、カント(*2)は言ったよな。宇宙の星々を見上げるたびに、人はその無限の中で道徳律を発見する、と。もしここで死んだとして、私たちはそれでも意味を持っているのだろうか?」
エレナが微笑む。「意味……。それは結局、我々がどう解釈するか次第でしょ? ニーチェ(*3)は、”意味なんて人間の錯覚だ”と言ったけど、今その錯覚が私たちを救うわけでもない。とはいえ……」
「だからこそ、我々は生きる意義を自ら作らなきゃいけない。宇宙は冷酷で無情だが、僕たちはその中で意識を持ち、笑うことができるんだ」
二人は笑い合った。死の恐怖を少しでも遠ざけるため、彼らは今ここで宇宙を揶揄し、哲学を笑い飛ばしていた。
酸素が残り10分となった頃、エレナは不意に声を落として言った。
「カイル、仮に私たちがこれから消えるとしても、無価値な消滅じゃないわ。私たちはここでこの瞬間、宇宙を生きたのだから。」
「まるでシュレディンガーの猫(*4)みたいだな。我々は生きているかもしれないし、死んでいるかもしれない、観測されない限りは」
「観測者はいないけどね……」
彼らは再び笑った。しかし、残り1分。酸素の警告音が不気味に響き、二人の笑顔は少しずつ消えていく。死が現実のものとなる中、カイルは何かを決意したようにヘルメット越しにエレナを見た。
「エレナ、こんな時に言うべきかどうか迷ったんだが……君とこの無限の宇宙を漂うことが、僕にとって一番意味のあることだと感じている。」
エレナは驚いた表情を浮かべた。
「宇宙のどこであれ……僕は君と一緒ならば、それでいいと思える。結婚しよう。宇宙でも、どこでも……」
エレナは数秒間、言葉を失ったままだったが、やがて微笑んだ。
「まさか……こんな状況でプロポーズされるとは思わなかったわ。でも、ありがとう、カイル。もちろん……」
その時突然カイルが叫んだ。
「これは……予備の酸素タンクじゃないか!」
カイルたちのもとに漂流してきたのは、大量の宇宙服用予備酸素タンクだった。先ほどの爆発で流れ出た者らしいが、この広い宇宙空間で出逢えるとは天文学的な数字だった。
予備タンクを付け替え、二人の酸素計が回復した。エレナが制御パネルを確認する。
「この量だと……あと3日は酸素がもちそうよ」
「本当か?!」
カイルが驚きの声を上げる。
二人はぎりぎりのところで命を繋ぎ止めたのだ。
二人は顔を見合わせて思わず安堵の笑みを浮かべた。
「ほら、結婚生活もこれくらい予想外なことばかりかもな」
「3日だけのハネムーンにならないようにしなくちゃね」
二人はまた笑い合った。命がある限り、彼らはどこまでも共に宇宙を旅し続けるだろう。
(了)
###注釈
(*1) **エントロピー**:熱力学第二法則に関連する概念で、システムの無秩序さを示す指標。閉じたシステムではエントロピーは増大し続け、最終的に熱的死に至る。
(*2) **カント**:イマヌエル・カントは18世紀のドイツの哲学者で、道徳と宇宙の秩序を探求した。彼の「純粋理性批判」は有名。
(*3) **ニーチェ**:フリードリヒ・ニーチェは19世紀の哲学者。道徳と価値観の相対性を唱え、特に「神は死んだ」という概念で知られる。
(*4) **シュレディンガーの猫**:量子力学のパラドックスで、観測されない限り、物体が複数の状態に同時に存在するという理論を表す。