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机の上に置かれていたメモ帳

作者: lucent

よく、この世の全ての人に好かれることは出来ないと言う。人は人より劣っていれば蔑まれ、人並みであれば無個性と言われ、人より優れれば嫉妬を被る。努力をすればそれを否定され、努力が不足すれば呵責される。理不尽──理を尽さず。つまりは、認識──自己の観念を超えた力を人は人に与え、また、被る。理不尽な成功者は言うだろう──努力不足、認識の違いと。そして理不尽な絶望の渦中に居るものは言う──世の中は糞だ──。しかし、もし理不尽が認識を超えるのならば、また認識も理不尽を超えるのである。それは単純なことである。理不尽を認識するのである。と、いうよりは、理不尽であることを認識するのだ。理不尽の渦巻く世界を、人は蠢く。あるものは理不尽を見つめ、絶望し、あるいは観念して理不尽の波に体を任せる。あるものは──そもそもこの巨大な理不尽にすら気づかないまま、小さい世界を生きる。

人間は理不尽を持ち、生きる。往々にしてそれは巨大なのである。巨大だから、気づかないのである。


それは、例えば──


夜空を悠々と支配した花火を、心の海に泳がせてみる。僕の心を泳ごうとした花火はカナヅチらしい。上手くイメージは固まらず、まるで角砂糖が溶ける時、その溶けた部分とまだ辛うじて形を維持しようとする悲しい最期の息、あるいは虚しい努力を感じさせるあの境界線のように、散り散りになった。

河川敷の浅い草の生えた坂の傾斜は厳しい。三十度は下らない。座っているだけなのに夏の気温は応える。日はもう傾いて、その顔はもう見えない。

花火大会に来ていた。本当は大会が始まる直前に来ようと思っていた。しかし、今朝は早く起きてしまった。やることもなかった僕は、大会のある河川敷の最寄りの駅まで来ていた。しかし、その駅にも特段、僕のやりたいことはなかった。そのどこにも、僕が求めるものはないのだ。手持ち無沙汰になった僕は、一先ず花火大会のある河川敷まで来ていた。周囲には人々が数多くいる。いかにも祭り、というような雑踏の中、ただ一人で来ている人は、僕と、地元に住んでいるのだろうか、涼しそうな格好をした老人と──一体どうしてこうなったのか、僕のすぐ隣に座っている、僕のほんの少し遠い昔、高校時代のクラスメイトの女の子だ。彼女は浴衣を着るでもない、都会の駅にならよくいる、流行りの格好。彼女の格好を僕はなんと言うのか知らないが、あえて説明しよう。ズボンは黒いブカブカなサイズで、脛の部分と太ももの部分が分離していて、間に小さな円形の金具がそれを繋いでいるため、その部分に空いた隙間から足が少し見える。上半身には白のやや体に密着した服を着ていて、乳房の輪郭がはっきりと見える。英字が書かれているが、僕にはなんと書かれているか分からない。そしてつばまでついた黒い帽子を被っている。

こう思うと、知らないことが多すぎる。それは一般的なことであれ、特殊なことであれ同じだ。CMに出てくる女優やアイドルの名前も分からないし、東京の地下鉄の路線なんか、スマホがなければ全く分からない。彼女に関して言えば、彼女のファッションがどういうコンセプトなのか、そんなことはおろか、彼女の高校時代の部活や、彼女と仲の良かった友人すら覚えていない。僕が知っているのは、彼女が高校で僕と同じクラスだったこと、彼女の名前、彼女と僕は別に特段中が良かった訳では無いということだけだ。

「こうして二人で話すのは初めてじゃないかな」

僕は彼女に話しかける。

「あら、覚えてない?文化祭のとき、一度だけ話したのだけれど」

「そうだったっけ」

「確かね」

正直に言って、僕は彼女のことがあまり好きではなかった。しかし、その理由もまた全く覚えていない。一般に、記憶も感情も曖昧なことはある。これまで曖昧なことがあっただろうか?

「僕はね」

「うん」

「正直に言って、君のことはあまり好きでなかったんだ」

「知ってるよ」

「そうなんだ」

「そうだよ」

思うのと、先だったか後だったか、僕の口からは彼女に対する感情が吐き出されていた。こんなことまでも、僕の記憶は曖昧だ。そういえば、どうして僕は彼女と話しているのだっけ?

「どうして私が好きじゃなかったの?」

どうして彼女が好きじゃなかったんだろう。

「それが、よく覚えていないんだ」

本当に、よく覚えていないんだ。

「そうなんだ」

「...」

そうなんだ、とは言わなかった。僕には、その理由を覚えていなかったのか、それとも、どこかに言葉が引っかかってそれを言えなかっただけなのか、分からなかったからだ。

「私も正直に言うとね」

「うん」

「私もあなたの事が好きじゃなかったの」

「そうだったのか」

「そうだったの」

「なぜ?」

「嫌いでもなかったからかもしれない」

「そうなのか」

「そうなのよ」

曖昧な記憶を持っているのは僕だけではなかったのかもしれない。どうして僕は彼女と話しているのか?もしかしたら、僕たち二人だけが持っている「曖昧」という、特別な脳のつくりがあるのかもしれない。

それからしばらく僕たちの間には沈黙があった。いや、あえて言うならば、無音だったのではなく、沈黙という音があったのだ。沈黙の中に、不思議な何かがあった。沈黙の中眺める空は、不思議と空虚な感じはしなかった。空──「から」とも読めれば、「そら」とも読める。あるいは僕は、彼女が好きだったのかもしれない。好きな人のことでも、僕は忘れてしまうのかもしれない。

「今日は途中まで一緒に帰ろう」

そう言って隣を見たときには、そこには河川敷の傾斜の草だけが、さっきよりも暗く風に踊って、揺れていた。

ふと河川敷を包むように、大きなアナウンスが流れた。もうじき花火が始まるらしい。

花火が始まる前に僕は帰った。あの空を花火が支配する瞬間を僕は見たいとは思わなかった。河川敷から駅に帰る途中、花火の音が聞こえた。僕の視界にはない、花火の音。帰る頃の外はもう少しくらい。駅の付近まで行って、電気がやたらと付き始めた街を歩く。あまり大きくはない書店に僕は入った。花火の音はもう遠くに消えてしまったが、僕は記憶に残りそうな程厚い、鮮明な赤が背表紙の本を買った。もっとも、その書店のあった場所は忘れてしまったが。


さて、僕がこの文を書こうと思ったとき、書き出しには凄い迷った。花火の導入をしたかっただけなのだが、どうしても書き出しと僕の書きたいことが合わず、長いこと悩んだ。どこにも書く場所がなく、ただただメモ帳に書いてみただけなので、誰かに見せるというつもりはない。

後書きみたいになってしまうが、僕は今でもこの赤い本を持っている。どこかに行ってしまった彼女の連絡先を知ってはいる。知ってはいるのだが、未だに連絡をとってはいない。会話はもう済んだように思うからだ。

思えば、高校の時、僕は彼女のことを見ていなかったのかもしれない。日常の中に彼女は溶けていたのだ。

そして今でも僕は彼女のことが好きではない。

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