仕舞いの章
目が覚めたところで、あきの目が光を映すことは無かった。寝ても覚めても、闇、闇、闇。あの時確かに見えた筈の男の影も、いつの間にか見えなくなっていた。
よたよたと敷地の周囲を彷徨っていたあきは、夜明けとともに起き出した村人に保護され、屋敷の惨状が明らかになった。当然その知らせは、都に住む父親の許に届けられた。
「それからは親切な村人の家で厄介になってた。とと様は……一度も訪ねて来なかった」
悲しかったが、恨みはない。父の立場も理解出来る。父が送って来た沢山の見舞いの品は、礼代わりに村と身を寄せている家にそっくり渡した。
顔の治療は全て断り、例え世話になってる村人にも、布の下は決して見せない様に細心の注意を払った。お陰で傷が癒えるまでには時間が掛かったが、その間に、目以外の感覚で物を見るやり方を身に付けた。音、におい、肌に触れる風。何故今まで気付かなかったのかと不思議に思える程、見えていた頃以上に周囲が見えた。
その頃には、先観蜻蛉で見えるものの意味も解る様になっていた。
近過ぎる物は見えない……自分を中心に、半日ほど距離がある辺りまでは見えない。
遠すぎるものも見えない。都の中心から、南西の外れ辺りから少し先にある山の中までが見える限界だった。
対象を知らなければ見ることは出来ない。
見えているものは、今でも、過ぎた時でもなく、数日先に起きる出来事だということ。
それを誰かに話す程、あきは迂闊ではなかった。母と目を失くして懸命に生きる哀れなただの子供として、村人の手伝いをしながら、静かに暮らしていた。
「とと様は、なんとかあたしを引き取ろうとしたみたい」
だが、あの正妻の許で暮らすことなど出来ようはずがない。自分達を襲った賊もあの女の手の者ではと疑ってもいた。尤もそれは、すぐに考え過ぎだと知る事になった。
「この男はね、とと様のお屋敷どころか、警備の行き届いた都の中心には近付こうとしなかった。都の外れや裕福そうな村の、小金がありそうな家屋敷に押し入るだけの小心者よ。こんな男にも妻子が居るみたいでさ。そいつらを、汚い銭で養ってるつもりになってるのよ」
自分の家族の為に男は盗みを繰り返していた。時には、誰かを手にかけながら。
「こいつは、多分本気で家族の為だって思ってんのよ。ちょろちょろと逃げ回って、結局は自分の勝手で引っ張り回してるくせにさ。お陰で見失う事も多くてね、そうそう先回りも出来なかった」
あきは櫛を握る手に力を込めた。
「許せないの。こいつも。夫を止めない女も。かか様の櫛を、自分の子にくれようとしてたことも!」
先観蜻蛉では見たいものの周囲まではっきりと分かる訳では無い。それでもあきは農作業の合間などをぬい、男を見つめ続けていた。
男の仕草を。行いを。そこから伺える暮らしを。少しずつ見えてくる、ささやかで偽りの幸せを。男の全てを知って……いつか壊してやる為に。
数日前のことだ。いつものように男を覗いていると、何やら慌ただしい気配が伺えた。
子を抱え酷く焦る男。狼狽える女をどやしつけ、子を押し付けると、隠れ住んでいた山から急ぎ下る。男は途中で誰かと出くわし、話し込んで大きく頷く。やがて男はどこかの集落に辿り着く。粗末な小屋。小屋に招き入れられた男が目にしたのは――。
「あたしと、もう一人……あたしの目玉から感じるのと似た気配」
ここだ。ここなら、必ず先回り出来る。それを知ったあきは、村を飛び出した。
「……後はりんさんも知っての通りよ。こいつの影を追って、りんさんと出会ったって訳」
口元を歪め、相変わらず身体を揺らす男から顔を背けたあきに、りんが訊ねた。
「これから如何なさるおつもりでございますか?」
「女子の秘密よ……お前、お立ち。薬と銭はお仕舞い」
男は懐に薬と銭を仕舞い、ゆらりと立ち上がった。あきも立ち上がると、りんに頭を下げた。
「お暇いたします。薬は必ず子に飲ませます。子に恨みはありませんから」
男を連れ、立ち去ろうとりんに背を向けたあきは暫し俯き、りんを振り返った。
「……図々しいかもしれないけど、お願いがあるの」
「どういったことでございましょうか?」
「見えたの。これから都で病が流行るわ。多分、こいつの子と同じ病だと思う……とと様もあの女も罹る筈。だから、薬を沢山用意しておいて欲しいの」
「それを都のお父君にお届けしろということでしょうか」
あきは薄く笑い、
「ううん。その薬を、あたしが世話になってた村に分けて欲しいの。皆、何くれと気にかけてくれたのに、何も言わず出てきちゃったから……出来れば、この集落の人にも分けてあげて。悪いけどとと様は後回し。ついでのついででいいわ。代金は、これで足りる?」
そう言って、あきは母の形見の櫛をりんに差し出した。
「承知いたしました。それでは、お代を頂戴いたします」
りんが櫛を取ると、あきはほっとした様に一つ息を吐き、
「良かった。では今度こそ本当にお暇いたします。りんさん、御神体様、ありがとうございました」
優雅に一礼すると、男を伴い小屋を出た。
薄暗い小屋の中。りんは三日月に撓んでいる口を更にきゅうっと持ち上げ、掌に収まった先観蜻蛉を撫でた。
「あき様はお気付きにならなかったようですね。お前に見えるのは、未だ起こらざる先の事だけ……遠くを見遣る力など無いことに」
先観の力では、潰れた目に何も映せない。あきに見えていた幻視の像は、自身に隠された力に因るものであった。人の間には時折、異能を備えた者が生ずると聞くが……目覚めるべくしてのことか、潰れた目の代わりに開いた力なのか、そのどちらもか。
「神を祀るお血筋。実に、不可思議なものでございますね。さて、薬でも拵えましょうか。頂いたお代分のお勤めは致しませんと」
それから暫くの日が過ぎ。
都では流行り病に庶民も地位ある者も等しく蹂躙される中、不思議と軽症者ばかりの村と集落があった。旅の薬売りが薬を振る舞ったという噂に訪れる者も居たようだが、既にどちらにも薬売りの姿は無かった。
集落には、まだ幼い娘の姿があった。山の麓で途方に暮れていた所を保護されたのだが、どうやら病で寝込んでいる隙に父親に捨てられたらしく、娘を憐れんだ若者が集落に連れ帰ったという事だった。
それと時を同じく、山中の洞窟を利用したぼろ小屋に三体の骸があった。男が一体。女が二体。麓に暮らす老人は、薬草を摘みに山に分け入った流れ者にそれを聞かされ、確かめに行くと、果たして流れ者の言葉通りの状況に迷惑そうに顔を顰めた。恐らくは男が女達を殺め、後に自分も首を括ったのだろうと思われたが、本当の所は誰にも分からない。
「まったく、熊でも引き寄せられたらかなわんわ」
老人が人手を募り、骸を野辺送りにする頃には、既に流れ者は姿を消していた。
打ち捨てられた骸の一人、女の顔には古い傷があったとのことだ。