先観蜻蛉の章
りんとあきの過ごす小屋を静寂が包む。
日は傾き始め、橙と薄紫に染まった空は、間もなく訪れる闇を孕んでいる。昨夜と変わらぬ静かな一日の終わりだった。
ひたひたひた。
ひそめた足音が、小屋に近付く。やがて足音は入り口の前で止まり、男の低い声で、
「……薬を売ってくれ。銭ならある。子が高熱を出して、中々引かん」
応えが返らぬ内に、狭苦しく薄暗い小屋に身体を滑り込ませた男がひっ、と息を呑んだ。
男のすぐ目の前、仄白い面が浮いていた。三日月に細く彫られた目と口は、薄闇の中で不気味な笑みを浮かべている。そして、どこからともなくただよう樟脳のにおい。
面が喋った。
「少々お待ちくださいませ。今、明かりをお付けいたします」
再び息を呑んだ男の隅で小さな明かりが灯る。面と見えたのは、年齢も性別も知れない人物であった。
灯明皿の頼りない火に、男はまだ動悸の治まらぬ胸を押さえ、
「……あんたが薬屋か」
「左様でございます。『クスノキのりん』と申します。りん、とお呼び下さいませ」
過ぎる程に慇懃な挨拶を構いつけず、男は早口で、
「名なんぞどうでもいい。早く、薬を売ってくれ」
「ですが、どのような症状か伺わない事には薬を選べません」
よろしければ、こちらにお座りくださいませ……と、りんが男に藁座を勧めた。
「頼む、早くしてくれ。とっとと帰りたいんだ」
藁座に腰を下ろし、いらいらと首を巡らせた男の目が小屋の隅で止まった。小柄な影が、身じろぎせもせず膝を抱えている。僅かな明かりに目を凝らせば、影はどうやら女のようだった。
「それで、お子様はどのようなご様子なのでございましょう?」
りんの言葉に、男は小屋の隅から目を逸らせた。
「熱が引かん。息の度、肺腑からゴロゴロとおかしな音を漏らす。それから、手足を引き攣れた様に震わせ……」
男から話を聞き終え、りんは頷いた。
「それでしたら、薬をお出しできるでしょう。少々お待ちくださいませ。すぐに調薬いたします」
「頼む」
安堵の息を吐いた男は、すぐ脇から感じる気配に顔を向けた。さっきまで小屋の隅で蹲っていた女が、水入りの椀を差し出している。何故か顔の上半分を布で覆った、みそぼらしい女だ。
男は女の手から椀を引ったくり、一気に飲み干した。からからだった喉に、水が甘露の如く染みる。人心地着いた男はほくそ笑んだ。
――山で出会った若者に薬売りの話を聞いてから、この集落まで随分と急いだ。薬が手に入る目処はついた。ひょろひょろの男と痩せた女しか居ないと分かれば、銭を払う必要もない。こいつ等から薬を奪い、後は急ぎここを離れるだけ――そこで男の意識は途絶えた。
男の手から椀が落ちる。その掌には、並んだ黒子が二つ。
ゆらゆらと前後に身体を揺らす男に、あきが命令した。
「懐の櫛をお出し」
「…………」
言われるままに、男は懐から高直こうじきそうな櫛を取り出した。あきは差し出されたそれを手に取って丁寧に撫で、ぎゅっと握りしめると、男を睨んだ。
「やっぱり、かか様のだ。お前……よくも、よくも!」
「わたくしにも商いがございます。折角拵えた薬ですので、是非こちらの方にお売りしたいのですが」
するりと吹き抜ける声と樟脳のにおいに、片膝立ちで握った手を振り上げたあきの動きが止まる。
「……りん、さん……そう、そうだった。お前、銭をお出し」
ちゃら、と音を立て、男は懐から銭袋を取り出した。あきは空いた手でそれを引ったくり、りんに差し出した。
「はい、どうぞ」
「随分と多うございます」
「あたしはこいつをよく知ってるわ。どうせまともな銭じゃあない。それに、きっとこいつは払う気は無かった。貰っておきなよ」
「成程。確かにあき様はわたくしをお守り下さった、という事でございますね」
りんは袋から必要な分だけ懐にしまうと、残りの銭は拵えたばかりの薬と共に男の手に返してやった。男はされるがまま、ぼんやりとそれを眺めている。
りんが訊ねた。
「この方に、何を飲ませたのでございますか?」
咎めるでもなく、ただ疑問を口にしただけと分かる声に、
「これよ」
あきは首から下げた守り袋を摘まみ上げて見せる。
「ここに入れてあるのは、あるものを手元に留めておく為の香なんだって。って言っても、匂いなんて感じないけど。飲んだらどうなるかは、見ての通りよ」
御神体の一つとして伝わっていた粉香は、相手を意のままにする、そういう代物だった。それを口にした男が何時正気に返るのかは、あきにも分からない。が。
(まだよ。まだ持つ)
自分はそれを知っている。
更にりんが問うた。
「あき様が以前仰っていた『面白い物』とは、この香のことでございましょうか」
あきは小さく笑い、首を振った。
「これも面白いかもしれないけど、違うよ……ほら、これ」
そう言いながら、あきは己の後頭部に手を伸ばした。
はらり。
あきの顔を覆っていた布が床に落ち、灯明皿の火が露わになった顔を照らす。
目元から額にかけての引き攣れた傷跡に、被せるように彫られた精妙な蜻蛉の刺青が、揺れる明かりに仄浮かんでいる。大きな眼の付いた頭を下に、鼻筋から額に尾を添わせ、細かな翅脈までも再現された羽があきの両瞼を覆う意匠は、実に見事なものだ。
その羽がぴくりと動いた。
「もう分かってるでしょ――『先観蜻蛉』。祀りそびれてしまった御神体よ」
よく見れば、それは刺青でも、蜻蛉ですらなかった。
雲母よりも薄い、蟲に似たなにか。
あきは首から守り袋を外すと、それを手にしたまま顔を覆い、すぐに離した。白い顔から蟲の姿は消え、傷跡だけが仄明かりに浮かんでいる。
「りんさん、手を出して」
枝を削ったようなりんの手に、あきの手が重なる。
あきが手をどかすと、守り袋に止まった蟲がりんの手の上で羽を震わせていた。
「お返しします。この御神体、いえ、先観蜻蛉は、りんさんのものなんでしょう?」
「正確には、わたくしのものではございません。主のものでございます」
「そう。じゃあ、主様にお返しして下さい。この子には随分と世話になりました」
「お訊ねしてもようございますか」
「何?」
「あき様は、何をご存じなのでしょう?」
どこか冷たく硬質な響きに、あきは小さく笑った。
「何も。あたしが知ってるのは、この男がかか様の仇って事と、その子がりんさんと同じモノって事だけ」
御神体と呼ばれる蟲の羽を透かし、都に迫るかもしれぬ危難に備え先を観る。それがこの土地神に仕える者の役目だと父に教わった。
あきも母もそんな話は信じていなかった。「先観蜻蛉」と書かれた粗末な箱に収められた、死んでるのか作り物なのかも分からない鉱石のような蟲に触れるなど、論外だ。せめて代々伝わる香くらいはと、守り袋を首から下げてはいたものの。
「あの日。この男が、あたしを殺し損ねた日。香の匂いに釣られて、その子があたしの顔に止まったの」
*
あきが無残に庭石に打ち付けられた後。
物色を終えた男はとうに立ち去り、屋敷は静寂に包まれていた。
静まり返った闇の中で、頭を中心とした耐え難い痛みと真っ暗な視界に、あきは身動き一つ出来ずに庭に転がっていた。血の塊がどろりと肌を滑る感覚に、このまま死ぬのだと思った。
突然、一際の痛みの直後、視界の闇が形をなした。全てが真っ黒なのに分かった――屋敷を襲った賊が必死で何処かを駆けている。自分が知らない真っ黒な風景の中を、真っ暗な影がひた走っているのが見えた。
痛みを越える怒りに身が震えた。呻きながら上半身を起こすと、何かが手に触れた。手触りで守り袋だと分かる。それを握りしめ首を廻すと、眩暈に嘔吐した。
(そうだ、かか様はご無事かしら。かか様は何処……何も見えない……痛い……)
目元に手をやり、激痛と違和感に再び嘔吐する。ぐしゃりとした肉の感触。それを覆う、雲母のような手触り。あきは自分の目玉が使い物にならなくなっていることに初めて気づいた。そして、血塗れの瞼を覆う硬質な手触りの正体にも。
箱に収められた御神体。蜻蛉によく似た蟲。
(どうしてここに……? それに、さっきから、何が見えているの……)
賊に荒らされた室内の片隅に、御神体を収めていた箱が蓋のずれた状態で転がっていたが、それをあきが見ることは永久に無かった。手探りで触れた庭木も石も、潰れた目は何一つ映さない。あきの目に映るのは賊の影だけ。
理屈は分からないが、自分が見ているものは顔に止まった蟲が見せているのだろう。御神体を失ってはいけない。誰かに見つかったら、取り上げられてしまうに違いない。
幼いあきの身も心も、既に限界だった。震える手で着物を裂き、御神体ごと顔に巻き付け終えると、意識を失った。