天女様のたたかい 日清戦争異聞~井上馨と武子~
日清戦争の前に、朝鮮をめぐっての対応が必要とされていた。内務大臣の井上馨は朝鮮の親日化や近代化をもくろんで、大臣を辞任し格下の朝鮮公使として赴いていた。
明治27年、井上馨は内務大臣を辞して、朝鮮と日本との関係の強化をもくろんで特命全権公使として派遣されていた。日清戦争の背後からの支援でもある。
日本からの借款を武器に、朝鮮の王朝と官僚を近代化をすすめる勢力と手を結ぶことで、親日化をもくろんでいたがうまくいっていなかった。一つには日本からの資金が足りないというのもあるが、朝鮮の王朝は后の閔妃が取り仕切っていて、そこに踏み込めていないということもあった。
また日本からの圧力を感じると、すぐに外国に頼る勢力もあることが問題だった。そして日清戦争が終わった後、講和条約によって得た遼東半島をめぐって三国干渉がおき手放すことが決定すると、対朝鮮についても影響力が一層低下した。
翌明治28年、情報交換や調整を図るため一時帰国した井上馨は、一つの計画を実行することにした。
「おかえりなさいませ」
武子は屋敷に戻ってきた馨を出迎えた。馨からは疲労の様子が見て取れた。でも、ここには秘書やおつきの役人もきていた。政治家の妻としては、ここでそれを言うわけにはいかない。まるで気が付いていないかのようにふるまった。
「この後はいかがいたしますか。お食事の用意も致しておりますが」
「あぁこれから明日の打ち合わせをする。それから食事を書斎で取る。武さんも食事の時に書斎に来てくれ」
「そうじゃ、外務省にも連絡忘れるんじゃないぞ。大蔵もだ。それから渋沢や益田、銀行関連にもつなぎをつけてくれ」
馨は周りのものにも指示を与えていた。その声を聞いて、武子は下がることにした。
「わかりました。お食事の時にはお呼びください」
武子は食堂で声がかかるのを待つことにした。裁縫道具とほぼ出来ているパジャマを持って来て、作業の準備をする。今回は馨のものも作っている。この家の暮らしでは、寝間着姿を他の家族に見せることは殆ど無いだろうからあまり面白みが無いのだけれど。
明治の10年頃に夫婦と養女の末子で洋行したとき、洋裁を学びミシンを持って帰ったのがこんなに自分の身のためになるとは思わなかった。ドレスのリメイク、パジャマやシャツを作り、面倒なことも忘れられるという効果もあった。針が進んできた頃馨から呼ばれた。
「奥様、旦那様がお呼びです」
「はい。あぁそうでした。お食事は?」
「もうお持ちしてます」
「それでは参ります」
書斎に呼ばれるなど、今までなかったことだ。何事かと緊張する。書斎の前で待っている秘書と目線を合わせると、ドアが開けられた。
「奥様、お見えになりました」
「あぁ武子、そこに座ってくれ」
馨は武子をソファに座らせた。自分は事務用の机に向かったままだった。この部屋には秘書と多分外務省の馨の部下のような人もいて、皆深刻な顔をしていた。
「説明を始めてくれ」
馨が促した。その様子を見て、武子は少し気が苛立っていた。
「旦那さま、これは何が始まりますのでしょうか」
馨は椅子から立ち、窓の方を向いた。武子からは表情が見えなくなっていた。
「これは、決めたことだ。そなたを朝鮮に連れて行く。今の朝鮮はいつぞやに洋行した欧州とは違う。朝鮮と我が日本の関係も良いとは言えず、清との戦争の影響もある。本当の戦場だ。だからこそ、そなたの力を借りたい。これから、朝鮮半島情勢とそなたの役割を説明させる。すぐにはわからんでも良いから聞いてくれ」
ただ、公使夫人としてついていくだけではない、ということはその雰囲気でわかった。基本的にあの人は表情が豊かで、隠し事が苦手だったのだ。
外務省の担当者から、朝鮮の国内状況、王室のことが説明された。新聞で読んで多少の知識はあったとしても、表面的なことでしかなかった。大使夫人として赴任中の未子の手紙を思い出して、王室の方々とくに王妃と懇意になっていることに気がついた。閔妃という王妃が王以上に政治に関わっているらしい朝鮮。つまり、王妃と親交を結んでほしいということだと思いあたった。説明が終わり、馨は武子の方に向き直った。
「これで、わかったといえんじゃろが。すまぬ、よろしく頼む」
普段遣いの言葉とは裏腹に、顔は仕事用のあまり見たことのない表情だった。
「わかりました」
武子はにっこり微笑んでみせた。
「お願いがございます。朝鮮の言葉をお教えいただけないでしょうか。簡単な、挨拶ぐらいしか無理でしょうが、覚えておきたいので」
「大丈夫か」
馨が担当者の方に聞いた。
「手配いたします」
外務省担当者が答えた。馨はほっとしていたようだった。緊張が溶けて、満足そうに葉巻をくゆらせていた。
「わしはもう少し話をするから、下がっていい」
「それでは、失礼いたします」
武子は、馨の書斎から出ていき、また食堂に戻った。行く前に作っていたパジャマを手にとったもの、これを続けるべきか迷って、心ここにあらずな状態だった。その不思議な様子に気がついた女中の三江が声をかけた。
「奥方様。どうかなさいましたか」
その声に引き戻されて、体がびくっと反応した。
「えっ、なんでもないの。大丈夫」
「お茶をお持ちしましょうか」
「お願いするわ。ありがとう」
茶を一口のみ、暖かさが体に行き渡るのを感じた。
ようやく力抜けて、頭も体も元通りに動いてくれているようだった。どれだけ緊張していたのかと今更ながらに思った。
「旦那様のお食事の片付けが終わったら、休んでね。そうは言ってもなかなか終わりそうにないみたい。ごめんなさいね、遅くまで」
お茶を入れてくれた三江に話しかけた。
「いえ、大丈夫です」
「もう、休むことにする。旦那様が御用だったら、寝室にいるとお伝えして。お茶、ありがとう」
奥向は和風になっていて、気が休まる。欧化主義の権化と言われている、夫井上馨にしてもプライベートな空間は和なのだ。ここはその中でもシンプルに整えられて、落ち着く仕様になっている。この寝室に来るかわからない夫を待つか、寝てしまうか迷ったが、一応待つことにした。
しばらく本を読んでいると、外に足音がした。襖が開き、人影が揺れた。
「武さん、起きとったか」
「お話してからでないと眠れない気がして」
馨の目が泳いで、顔が少し硬くなった。武子は座った馨の手を取って、上目使いでいたずらっ子のように微笑んでみせた。
「覚えていらっしゃる?。結ばれた頃。沢山の暗殺予告や嫌がらせの文が来ていて、このようにご自分には敵が多くあるとおっしゃった。その後私が申した、旗本の娘、武士の娘であるからには、私も気持ちは常に戦場でございます。共に戦い、お守りします。という言葉」
馨には以前の勝ち気な娘に戻ったかのように見えた。
「あぁ、そのようなことも」
「私は今でも変わっておりません。朝鮮にお連れください」
「武さんは、本当にわしの天女様じゃ」
馨は武子を抱きしめた。武子は腕の力を感じなから、この人はきっと泣いているのだと思った。そして手を夫の背中に回してさすっていた。
船上でも会議はされていて、事態の深刻さが垣間見えた。京城の公使館につき、荷物のチェックを行い、揃ってるのを確認して、やっと落ち着くことが出来た。荷物の中から一着のドレスを出してハンガーを衣紋掛けにかけた。自分にとってこれが戦いの場に赴く服装なのだと思うと、手入れに力が入った。
次の日謁見のため、馨と武子は王宮の中にいた。ローブ・デコルテを着こなして、武子は一層華やかだった。流石にかつて鹿鳴館の女主人と呼ばれていた頃を彷彿とさせた。
「謁見の準備が整いました。お入りください」と通訳が声をかけた。
礼服に身を包んだ馨が先に立ち前に出た。左手を少し開けて振り向いて言った。
「奥様、お手を」
ふざけたような、すました顔をしていた。武子は吹き出しそうになるのをこらえて、馨の左手に自分の右手を添えた。
「旦那様、参りましょう」
二人は歩幅を合わせながら、開けられたドアの向こうに進んでいった。