過去㉑ 湖を挟んで
どれぐらい崖を下ったのだろうか。イシュメールが降りてきた場所を仰ぎ見ても、尾根筋が見えない。辺りは鬱蒼とした森になっていて、山歩きに慣れていない人間であれば、南北も分からなくなっていただろう。
イシュメールは、その視界の悪い森の中でも一筋の足跡を捉えている。それは馬のもので、隣には「何か」を引きずった跡が続いている。
この奇妙な痕跡の正体は、一緒に滑り落ちてきた一人と一頭のうち、馬だけが立ち上がれた結果なのだろう。人は立ち上がることができず、しかし、手綱か何かに体の一部が引っかかったままだったので、そのまま引きずられたのだと想像ができた。つまり、少なくとも人の方には、かなり深刻なダメージが入っているということだ。大量出血の痕跡が見られない事が、唯一の救いである。
ただ、一つだけ奇妙な点があった。それは、商人が積んでいたはずの荷物の行方である。イシュメールがどんなに周囲を見回しても、馬にどっさりと乗せられていたはずの荷物が落ちていないのだ。これだけの距離を滑り落ちてくれば、荷物の一つや二つ、こぼれ落ちていてもおかしくない。よっぽど頑丈に荷物を鞍に縛り付けたとしても、それは不自然に思えた。
――まあ、いずれにしても進むしかないか……。
疑問は残るが、重篤な怪我人がいるとすれば、のんびりと謎解きをするわけにはいかないだろう。イシュメールは足跡をたどりながら先を急いだ。
沢筋は、比較的歩きやすかった。
この沢は、雨が降る時だけちょろちょろと出現するものらしく、上流からの漂流物が溜まっていない。適度に堆積した落ち葉がクッションになり、気持ちよく進める。これなら、引きずられたとしても我慢できるかもしれない。いや、むしろ、引きずっても大丈夫なところをあえて進んでいるようにも見えた。
――いくら馬が賢いとはいえ、そんなことあるのか?
あまり馬とは相性のよくないイシュメール。意識を失った主人が傷つかないように、馬が進む道を選ぶ姿を想像するのは難しかった。
――むしろ、歩くのに邪魔な主人を振り落としそうなもんだけどな……。
かつての恥ずかしい思い出を振り返りながら、イシュメールはつのる疑問の方向性を見いだせずに、歩を進めた。
そして、沢筋はこじんまりとした湖へと至る。
そこは、おそろしく静かで、どこか厳かな雰囲気のする場所だった。
やたらと透明度の高い水をたたえる湖の周囲には、背の高い針葉樹が立ち並び、その青さを水面へ投影させている。朽ちて白くなった木々が半身を水に突っ込んでいる姿すら美しく、時折、湖に降りてくる野鳥ですら、少し遠慮がちに見える。
イシュメールは思わず息をのんだ。
仕事柄、美しい景色には多く出会ってきた。切り立った崖から望む緑の平原や、雄大な滝、花々が彩る湿地などなど、記憶に残るものだけでも数え始めたらきりがないくらいだ。
しかし、この場所には、今まで感じた事のない、立ち入り難い気配が漂っている。宗教的なバックボーンを持たないイシュメールでも「神聖さ」という、きわめて理不尽な力を感じてしまうほどだ。
――先に進ませないためには、これ以上の装置はないな……。
事実、この湖を超えて、先に行こうという意欲は湧いてこなかった。足跡がそちらに続いていれば仕方が無く進むのだろうが、それでも「おじゃまします感」は、絶対にぬぐい切れないだろう。
イシュメールは湖畔に沿って進んだ。
足跡は柔らかな下草にハッキリと残っていて、辿るのは難しくない。少しの蛇行もせずに、馬は真南を指して進んでいる。
ふと、足幅が小さくなった。
速度を落としたらしい。
イシュメールが顔を上げると、かなり向こうの方――湖がちょうどこじんまりとした湾になっているところあたり――に、一頭の馬が見えた。
背の低い木の傍で、佇む馬の足元には、何やら白い布で覆われた塊りも見える。おそらくは、それが滑落した商人その人なのだろう。ピクリとも動いていないのは気になるところだが、馬が離れていないことを考えると、最悪な事態は免れたかのように見える。
すぐさま駆け寄ってみると、そこにはのんびりと草を食む利口そうな馬と、適切な処置が成されて、安静に置かれている一人の男がいた。
「大丈夫か!!」
男の肩を叩くが返事はない。しかし、胸がしっかりと上下していて、呼吸系には問題がなさそうだ。まつ毛にそっと触れてみると、微妙な反応をしているので、意識がないというよりも寝ているような状態なのだろう。
ひとまずは安心である。
ホッと一息をつく。
「このやろう、のんびり草なんて頬張りやがって……」
安心したところで、緩み切っている馬に文句を垂れる。そもそもコイツがビビッて滑落しなければ、こんな面倒なところまで進入することはなかったのだ。それなのにコイツときたら「なにかありました?」的な顔でこちらをながめてる。
まあ、それも生きていればこそだ。あの高さを滑りおりて、こうして無傷で草を食えるなんて、そうそうあることではない。普通であれば、落下ダメージが少なくとも擦り傷だらけになるはずだ……。
「おい、お前……ちょっと体を見せてみろ……」
さすがにおかしいと思ったイシュメールは、馬の体を隅々までチェックする。しかし、傷らしい傷はなく、あえていうのであれば背中付近に治りかけている擦過傷の痕があるくらいか。
「お前……何かされた?」
もちろん、答えはない。
いや、そもそもがおかしいのだ。
何しろ、馬の手綱は木に結ばれているし、背負っていたはずの荷物は脇にキチンと並べられている。肩を叩いても起きないこの男がやったわけでもあるまいし、周囲に足跡もない。
なにか、ぞくっとしてものが背筋を通った。
よく見れば、男は地面にそのまま寝かされているわけではない。薄い布の上に寝かされていてる。包帯の様に巻き付けられている布も、自分ひとりでは結べないだろう。
「誰か……いたのか……」
視線は思わず、湖の対岸へと向かう。
しかし、美しい針葉樹の森の中は暗く、こちらから伺うことができない。
せめてもと思い、イシュメールは地面の痕跡をもう一度探したが、何もない。これだけ柔らかい地面であれば、どんな靴を履いていたって足跡は残るだろうに、そんなものは一つもない。あるとすれば、このアホ馬の足跡と、何かを引きずって来たかのようた痕跡だけ……。
そこで、イシュメールはある違和感に気付く。
それは、イシュメール自身の推測――つまり、足跡と何かを引きずるような痕跡が、歩ける馬と、手綱に引きずられた商人のものだとしたこと――が、あまりにも短絡的に決めつけていなかったかということだ。
本来、後を追う猟師というのは疑り深いものである。それなのに、疑問を持ちながら、その事だけには考え直すことはしなかった。疑っていたのは、馬が賢すぎるということと、荷物が散乱していないのが変だってことだけ。それも、すぐさま「まあ、いいか」と考えを封じてしまった。
やりようはいくらでもあるのだ。
傷付いた商人を馬にのせ、荷物はソリにのせて馬にひかせる。自分達がソリの前を歩けば、足跡は勝手に消えてくれるだろう。
あとは、認識障害の術式を周囲に施すだけ。
認識障害の術式は、珍しくもない技術だ。興奮状態の人間にはかかりにくい上に、術式が複雑なため戦闘では使われないが、工事現場や商業施設などで一般人に入って欲しくない場所なんかに施されている。
ただ、セオリーとして、屋外で認識障害の術を使うことは殆どない。その理由は、術の特性として、屋外に設定しようとすると、効果範囲をやたらと広げる必要が出て来るので非効率だからである。そんな面倒くさい事をするなら、人を雇って侵入者を追い払った方がよっぽど経済的だと、誰もが言うだろう。
しかし、イシュメールは間違いなく周囲に魔力の残渣を感じている。少し特徴的で、直接的だが、この感じは認識障害の術で間違いないだろう。
おそらくは、自分達の存在を知らせたくないためだけに展開した術式。湖の向こうから「喧嘩をするつもりはないけど、俺達のことは放っておいてくれ」という強い意志を感じる。
もちろん、そのことにイシュメールも異論はない。仲良くするだけが人間関係ではないことぐらい、もうとっくに知っているし、経験している。
イシュメールは荷物と人を馬にくくりつけると、手綱を取って、のんびりと歩き出した。湖はやがて小さな沢へと流れ込んでいく。木々はまた鬱蒼と空を覆い始め、それに伴い、さきほどまで支配していた荘厳な空気も和らいでいった。
振り返ると、もう湖の姿は木やら岩やらに遮られて、一部しか見えない。もちろん人影もないのだが、イシュメールは頭を下げてお辞儀をする。それは「ありがとうございました」という感謝の意を示すとともに「よい関係のままでいましょうね」という気持ちのを込めて行った。
――たぶんだが、伝わっているだろう。
そういう、根拠のない手応えが、イシュメールには残った。




