現在㉝ 矛盾
「ただいま帰りました――っと」
クロエは潮吹亭の裏手に戻るなり、木ぞり(というよりはただの木の板)の綱を離し、凝り固まった首を回した。魔力のコントロールに長けた前衛職でも、この重量を運んでくるのはそれなりに大変だったらしい。
「おかげで助かったよ。いつもは俺一人だから、きつくてな」
「オオクズリとか、もっと大きな獣を仕留めた時はどうするんですか」
「分割して運ぶんだよ。たまに、他の獣に横取りされちゃったりするけど」
「それは悲しくなりますね……」
「まあ、そこら辺も含めて、山での生活も集団生活ってことなんだろうよ」
「どういうことです?」
「相手が隣人か、獣かの違いで、結局、みんなでバランスよく生きなきゃダメってこと」
「よく分かりません」
「大丈夫、俺もよく分かってない」
「なんですかそれ……」
クロエが呆れた顔をしたところで、勝手口のドアが開いた。
出て来たのはフェリル。昨日よりも身なりをきちんと整えているのが見て取れて、クロエは少し嬉しくなった。
「二人とも、お帰りなさい。怪我はなかった?」
「このとおりバッチリです。そして、これがお約束の獲物です!!」
目の前に横たわるツノジカは、フェリルの目から見ても素晴らしい体躯であることが分かる。
「うわーー。これ、鹿よね?鹿ってこんな大きいの?」
「立派ですよね~。仕留める時、飛びあがらないと急所まで届きませんでしたから」
「え!?これ、クロエちゃんが仕留めたの!?」
「はい!!」
「それは凄いわね……。腕の太さなんて、私と大して変わらなそうなのに……」
「これでも獣騎士ですから♪ふふふ、ちょっと見直してくれました?」
「っていうか、若干、引いてる。可愛くて、強くて、天はあなたに何個の才能を与えたのかしら」
「それって、褒めてますよね?」
「最高級の賛辞。フェリル・シェラードの名において認めるわ。あなたは、女性として最強よ」
「めちゃめちゃ嬉しい……」
「まあ、私の個人的評価だけどね」
「それがいいんです。今まで言われた言葉の中で、最高級に嬉しい」
「それは光栄ね。そこまで喜んでくれると、私も嬉しいわ」
「抱き付いていいですか?」
「ん!?」
「いいえ、いきますね。いきますよ?いきますからね!!」
「え?ほんとにくるの!?きゃあああ!!」
がばちょと、クロエがフェリルに飛びつく。
さすがにプロテクターを外しているので、痛くはないのだろうけど、ちょっとハグにしては強烈な感じがする。
「ふふふふ、すっごい!!フェリルさん、すっごい!!」
「語彙!!語彙がなくなってるから!!」
「やわらかい!!いいにおい!!あ~、身体洗ってないけど、すりすりしたい!!」
「やめて!!せっかくいろいろ整えたのに!!」
「ふふっふふふふふふふ」
「ぜんぜん聞いてない!?しかも、力がすっごい強いんだけど!!」
「覚悟してくださいね~」
「いやああああああ!!」
クロエに襲われるフェリルだが、まんざらでもないようだ。
なんだかんだ言って楽しそうにしている。
イシュメールは苦笑いを浮かべながら、その様子を見ていたが、なかなか終わらなそうなので、解体の準備に入ることにした。
仕込みもあるので、開店までに間に合わせるためには、そうそうゆっくりもしていられない。「さてと」と、腕まくりをしながらイシュメールが鼻から息を吐いた。
手順1「洗浄」
まずはツノジカを作業場の隅に設置してある洗浄台に持っていく。
この洗浄台は頑丈な金属の格子製で、流した水がそのまま下に落ちる仕組みになっている。ここで毛皮に付着した泥や、ダニなどを洗い流すのだが、使うのはタダの水ではない。洗浄用の水は、数パーセントの触媒を加えて特別な術式を施した、いわゆる魔術加工品で、炎で炙るよりも有効な消毒が可能になる。
ちなみに、使用した水は貯めておいて、解呪の処理をしなければならない。河川にそのまま流すと、生態系に影響を与えてしまうのだ。
手順2「内臓の取り出し」
次は解体台へ移動し、内臓を取り出す。
内臓を取り出す時は、糞尿が零れないようにしなければならない。また、取り出した内臓類は細かく目でチェックするとともに、部位ごとに検査用のトレイに移す。このトレイにも術が施されていて、目では見落としてしまいがちな寄生虫の有無や炎症などの異常を検知してくれる。
フタバ爺に言わせれば「こんなものは、怠慢の象徴」らしいのだが、客に出す以上、安全対策にはお金をかけるべきだと、イシュメールは導入した(安くない)。
手順3「皮を剥ぐ」
ツノジカの皮は、なめすと柔らかくなり、民芸品として好まれる。なので、丁寧に専用ナイフで処理をしてくのだが、イシュメールはこの作業が上手くない。なので、当然、作業速度が遅くなる。そうなると、肉の鮮度が悪くなってしまうので、イシュメールは作業台の下に潮吹亭の冷たい水を流せるように加工している。そうすることで、こぼれた血脂も流すことができ、一石二鳥なのだ。
手順「部位ごとに分解」
肉の部位に名前を付けたのは人間である。つまり、リブロースと、肩ロースの間に、境界線があるわけがなく、個体差もあるので、解体する人間の主観によるところが大きい。
なので、料理人自身が解体をすると、部位の名称に左右されることなく、質感や脂の加減で肉を分けることができる。特に、この個体は首周りの筋肉が発達しており、綺麗な赤身になっているため、熟成させてからステーキにすれば、高級牛に負けないレベルの一品が出来上がるだろう(ただし、赤身の火加減はかなり難しい……)。
「ふう……」
一通り作業を終えたイシュメールが、文字通り一息をついた。
獣の解体は、なかなか忌み嫌われる作業なのだが、装備と方法を適切に行えば、これだけ清潔に行えるという良い見本だろう。
いつの間にやら、隣で作業を見ていた二人も、目を見開くだけで、悪い感情は持っていないようだ。
「解体って、なんだかすごいわね……」
「フェリルさんも見たことなかったんですか?」
「そういうクロエちゃんこそ、前からここに来てたんじゃないの?」
「来てましたけど、狩りはシーズンじゃないからって、行かなかったんですよ。やっていたのは、山の歩き方を教えてもらうことだけです」
「私もこれだけ大きい獣の解体は初めて。小さい鳥なんかは見たんだけど……」
「やっぱり、違います?」
「同じとはいえないわね。なんか、大きい動物だと、生々しさがすごい」
「怖くはなかったですか?」
「そうね。怖いとか、気持ち悪いとかはないと思う。でも、可哀想って気持ちにはなった」
「それ、分かります」
「うん。でも、今は、美味しそうって思ってる自分もいる」
「それも、分かります……」
美しくて――もったいなくて――可哀想で――気持ち悪いけど――美味しそう……。
「私達、すっごく、自分勝手よね……」
「とっても……。でも、たぶんですけど、私、それでいいんだと思います。そう思えたからこそ、昨日よりも、ちょっとだけまともな人間になった気がします」
「まともに?」
「はい。きっと、良くなりました」
「そっか……」
「フェリルさんも、ですよね?」
「私はどうかな。なんか、矛盾だらけで、混乱しているだけかも」
「でも、それを楽しんでいそうな気がしますよ?」
「そうなのかな……」
「どっかの誰かさんが『悩んでなければ人じゃない』って、言ってました」
「その誰かさんの所為で悩んでいるのに……ぶっ飛ばそうかしら」
「手伝います」
「それも矛盾ね」
「そのまま受け入れましょう。矛盾があるってことを知るって、すっごく大事なことだと思います」
クロエはフェリルの手を握った。
温かい。そして、愛おしくて――悲しい。
感情が矛盾している。しかし、それがあたりまえなのだと理解すると、とたんに気持ちが軽くなる。
「……賛成。なんか、こういうの、悪くないわ」
「今日は帰りますけど、またすぐ来ます。今度は、隊長に合うのが半分で、もう半分はフェリルさんに会いに!」
「停戦条約なんて結ばないわよ」
「好きにしてください。むしろ、二人をひっくるめて欲しいぐらいですから」
「ちょっと、ふざけないでよ!これ以上、あなたに女の度量を見せられたら、フェリル・シェラードの名折れだわ。二人をひっくるめてもらうのは私なの。それまでは、私は裏方でいいわ……………………いや、やっぱり、嫌かも……」
「ふふふふふふ、フェリルさんは、やっぱり綺麗でかわいいですね」
「やめてって。『かわいい』はクロエちゃんにあずけておくの。私は、あくまで『カッコよく』いくんだから――」
二人がわちゃわちゃしている隣で、イシュメールは難しい顔をしている。
もちろん、二人に文句があるわけじゃない。イシュメールの頭の中では、今、シカステーキとシカバーグが戦いを繰り広げているのだ。
彼が朴念仁と言われる所以である。
第8章「思惑」了




