現在④:復路
日没から時間が経つにつれ、周囲に漂う気配が濃厚になっていくのをフェリルは感じていた。姿こそ見えないが、蠢く息づかいが聞こえてくるようだ。
――凄い……昼間の森とはぜんぜん違う……。
主人の脇を歩く2頭の馬もソレを感じているようで、先ほどから落ち着きがない。フェリルが、注意深く誘導してあげなければ、首を振って逃げ出していたかもしれない。
一方で、フェリルの数メートル後方を歩くイシュメールは、さすがに落ち着いている。行軍する歩兵さながら銃口を上に向け、のんびりと周囲を見回していた。
「ねえ、ちゃんと警戒してる?」
「失礼な。銃弾もセットしましたし、大丈夫ですよ」
「でも、相手は群れで襲ってくるんでしょう?数発撃っても、ダメなんじゃない?」
「アナネズミによく効く銃弾を2発、セットしました。あとの2発は散弾にしていますから、よっぽどの事が無い限り、再充填する事はありません。安心してください」
「ならいいけど。でも、そんな後ろにいて、前から襲われたらどうするのよ」
「アナネズミの特性を考えると、わざわざ回り込んで襲うってのは考えにくいんです。奴らは熊みたいに有効な武器が無いから、群れから遅れた個体をちょっとづつ傷付けて、最後に皆でガッと襲い掛かるのが常套手段なんです。この状態を見たら、私が弱っている個体に見えるはずです」
「あ、囮役をやってくれてたんだ………ごめん……」
「でも、警戒はしておいてください。横から飛び出してくる事が無いわけじゃあありませんから」
「えええ!?」
「相手は野生動物なんですよ?セオリーどおりに動くとは限りません」
「そ、それはそうなんだろうけど……」
フェリルはもう一度、周囲を見回した。
雪と共に森を抜けていく風が、生物の動きに見える。
都では強気で知られるフェリル嬢も、初めて感じる生々しい脅威を前にして、ついつい弱気になってしまう。しかし、聡明な彼女は、今はイシュメールの言うとおりに前へ進むしかないと自分に言い聞かせられる事ができた。
彼女は自分の恐怖心を馬に伝えないように気を付けながら、しっかりと歩いた。
そして、しばらくして……。
「――フェリルさん、来ましたよ」
「え、どこ!!」
イシュメールの声に、フェリルが振り返る。
しかし、姿はどこにも見えない。
「いないけど………」
「まだ見えませんね」
「からかったのだとしたら、右ストレートの刑。場合によっては、左フックのフォローも付ける」
「ちょっと、その拳を下げてください。間違いありませんから」
確かに、馬達の様子がさっきよりも落ち着かなくなっている。何かを感じているのだろうか。
「なんで分かるの?」
「臭いですよ。ほら、スえた野生動物の臭いがするでしょう?」
「………そういえば………」
「野生動物を見つける時、最も信頼できるのが嗅覚です。視覚は誤認しやすいし、聴覚は意味の無い音で振り回されがちになる」
「そうなんだ……」
「もう少し、このまま進みましょう。この先で道がまっすぐになるところがありますから、そこで迎撃します」
真剣な顔でうなずくフェリル。
恐怖を感じているのだろうが、話を誠実に聞き、最善を尽くそうとしている気持ちが全身から出ている。イシュメールは思わず口角が緩んだ。
――この人は綺麗なだけじゃない。こりゃあ、まちがっても傷付けられないな。
アナネズミなど、普段なら鉈(森に入る時は必須の装備)を振り回して追い払うだけの相手だが、今日は慎重に対応しようと決めた。
道が直線になった。
幸い、雪が積もり始めているので、月が出ていなくてもボンヤリと先が見える。イシュメールはポンプアクションで弾丸を装填すると、下り傾斜の先に目をこらす。フェリルは少し離れた場所で馬の手綱を取っていた。
風は少し弱まり、雪は舞うことなくはらはらと落ちて来る。音らしい音もなく、ただ、張りつめたような空気がどっしりと周囲に乗っかていた。
キイ………
木々が擦りあったような微かな鳴き声。しかし、それは次第に大きくまとまり、ざわつく音の波になった。そして、音の波は黒い影になり、やがて、はっきりとした姿を見せる。
「あれが……ネズミ?」
体長は70センチ~1メートルくらい。ネズミと言うより、ずんぐりむっくりした犬の様に見える。全身が茶色い毛におおわれ、顔は扁平だ。時折見える刃は方形で、雑食である事がうかがえる。
フェリルの位置から確認できる個体は7~8匹程度。ただ、その奥にも仲間がいるだろうから、15匹ぐらいの群れである事が予測できる。
「すごい……怖い………」
フェリルは素直に自身の感情を認めた。
恐怖を感じるのは無理もない。都に住んでいたら、捕食動物とかち合う機会など皆無に等しいのだ。むしろ、恐怖を認めつつもイシュメールを信じて逃げずにいることが、彼女の勇気を物語っていた。
「確かに、怖いですよね。でも、あんなんでもこの森では重要な役割があるんです。病気で死んだ生物も強力な胃酸で分解して無毒化するし、木々の間引きも彼等の仕事。極めつけは繁殖力。すぐに増えるし、脚も遅いから捕食者たちのいいオヤツになっている」
「増えすぎないの?」
「私達が彼等を捕食する生物を乱獲しなければ大丈夫です。だから、今日は追い返すだけで勘弁してやりましょう。狩ったとしても肉の下処理が大変ですしね」
そういって、イシュメールは銃口をやや上に向けて引金を引いた。
激しい炸裂音とともに、銃口の周囲に円形の魔術紋が広がる。その見た目に違わず、衝撃は周囲を震撼させた。
威嚇弾(音)――。
光の筋が暗闇に伸びていくと同時に、笛のような甲高い音色が山々に反射しながら周囲に広がる。とたんに、アナネズミの群れはパニックを起こし、悲鳴やら何やらで大変な事になった。
すかさず、ポンプアクションで次弾を装填。今度は銃口をやや下に向ける。
威嚇弾(火花)――。
地面にぶつかって破裂した弾丸は、くるくると火花をまき散らして周囲を照らした。それも、一瞬ではなく次々と連鎖する。地上にいくつもの花を咲かせ、炸裂音とともに、火の粉の蛇がのたまう。
結果、パニックにパニックを重ねたアナネズミの群れは霧散。あとに残ったのは、雪が解けて少し焦げた地面と、火薬の臭いだった……。
「――これでよし。さあ、もどりましょう、きっと、おのおっきなおばさんが心配してますよ」
声を失ったフェリルを横目に、イシュメールは歩き始める。彼は振り向きもせず先へ進んだので、フェリルが我を取り戻し、追いかけ始めた時には、すでに十メートルほど離れていた。
ひらひらと落ちて来る雪の向こうで、のんびりと歩く男。背中には、なんとなく哀愁が漂っていて、それでいて頼もしかった。
何より、今しがた見せられた武力が、軍人が鼓舞するような装飾された暴力ではなく、必要最小限に済まそうという自己抑止力を持っていることについて、新鮮な驚きがあった。
――こんな男もいるんだ……。
フェリルは、彼女らしくもなく、思考を停止したままイシュメールの姿を追った………。
■動物ファイル№1 アナネズミ
体長は1メートルほど。ネズミと名が付いているが、げっ歯類ではない。いくつもの家族が集まったコロニーを形成している。群れを作って鹿などを襲う事もあるが、基本的には植物食を基本とした雑食で、冬季の食料が少なくなる時期には木の根などを掘り起こして食べる。
ずんぐりむっくりした体型は、消化器系が発達した証拠であり、腐敗した肉も食べる。その所為か、肉が独特の臭みを持ち、食べようとしても下処理に時間がかかる。猟師達もよっぽどの事が無い限り狩ろうとしない(ただし、強力な胃酸を煙玉の起爆剤にすることがあるため、道具屋が狙う事はある)。
生息域は山間部で、比較的寒冷地を好む。食物連鎖の下層に位置し、森の健康を示すバロメーターになっている。