現在㉘ 何のために?
「グス……ズズ……隊長………ひどい……」
イシュメールが頭を抱えている横で、久しぶりの泣きべそを披露しているのがクロエである。
「気にしないでいいわよ。アレはもう病気なの。女心を踏みにじらなければいられないという不治の病におかされているから、正面から向き合うだけ無駄なのよ」
そして、なぜか、そのクロエをフェリルが慰めているという構図……。当然ながら、イシュメールはこの状況を理解できず、ただただ混乱しているだけだ。
「グス………ひ、久しぶりに会ったって言うのに……わ、私の事を、お化けだって……」
クロエが顔を上げると、塗りたくったファンデーションやらアイシャドウやらが涙で滲んで、それはもうとんでもない事になっている。
「うお!!」
イシュメールがその顔に驚いて声を上げると、フェリルがキッと鋭い視線を投げる。
「ほっっっっとに、デリカシーが無い!!」
「うううううう………隊長…………ひどいぃぃぃ」
「いやいやいや、俺が悪いのか?」
「あたりまえでしょ!婦女子に向かってその態度は、刑罰ものよ!」
「いや、しかし……」
「しかしも、なにもない!こんなに頑張って可愛くなろうとしたのに、あなたって人は!!」
「そんなこといってもなあ……」
本気で怒っているフェリルだが、イシュメールとしては文句の一つでも言ってやりたい。
なにせ、真っ黒な闇の中に、突然、無表情の白い顔が現れたのだ。精神的負担はどっこいどっこいだろう。
しかしながら、女の涙に対抗できる理屈があるわけもなく、イシュメールはただただ嵐が過ぎ去るのを待つしかない。
「クロエちゃん、だっけ?」
「グス…………はい……クロエ・ノームといいます……」
「現役の獣騎士なんだよね?事務員とかじゃなくて……」
「クロエはバリバリの戦闘員だぞ。肉弾戦じゃあ、俺もやられちゃうぐらい強――」
「あなたは黙ってなさい」
イシュメールは小さく「アイアイ、マム」と答えたが、フェリルは聞いていない。
「――もう一度聞くけど、クロエちゃんって、ホントに戦闘員?広報担当とかじゃない?」
「……どういう意味ですか……」
「いや、悪い意味じゃないの。だって、ほら、身体も細いし、女性らしいし、顔立ちも本当に美人だし――」
「そんなことは……」
「いやいや、そんなことあるわよ。ちょっと、このレベルは、そんじょそこらじゃお目にかかれないわ」
「フェリル様にそんなことを言われても……あんまし、説得力がないというか……」
「あら。私の事、知ってるの?」
「そりゃあ……こんなんでも、一応は女ですし……」
「ふふふふ、じゃあ、私の方は自己紹介はいらないわね。でも、あなたが美人なのは本当よ」
「で、でも……フェリル様は別にしても、都の綺麗な人ってキラキラしてて、私はそういうんじゃないから……」
「それは綺麗に着飾る方法を知っているからってだけ。化粧をして、違う方向の服を着たら、あの男もきっと『ぎゃふん』と言うわ」
「うううう……でも、化粧をしたらお化けだって……」
「そ、それはやり方の問題ね。そうだ、私が今からお化粧をしてあげる!」
「え……フェリル様が……」
「いや?」
「そんなことはありません……けど……」
「けど?」
クロエは、ぐっと唇を噛む。
その意味を、フェリルは十二分に理解するのだが、イシュメールは分からない。
「…………お願いしたいです……」
クロエは下を向いて、断腸の思いで言葉をひねり出した。
後々、この二人は切っても切れない信頼関係を築くのだが、そのきっかけになったタイミングというのは、今のこの時だっただろう。
雲の上の人に出会った気でいるクロエはともかく、フェリルにしてみても、この純粋な意志の強さには強烈な印象を受けたのだ。
フェリルはちょっと態度を改めて、真面目な口調でクロエに伝えた。
「全部まかせて。あなたの人生のターニングポイントの一つが今日だって思わせてあげる」
「化粧ひとつで、そこまでは――」
「甘い!!」
バン、っと机たが叩かれる。
びくっとしたのは、クロエだけじゃない。
「クロエちゃん。あなた、化粧って何のためにするのか分かってる?」
「……盛るため?」
「盛りますけど、目的ではありません」
「ごまかすため?」
「そうだけど違う」
「?じゃあ……化けるため?」
「化けるんじゃないわ!表現するのよ!!」
大げさな――っとイシュメールは言いたかったが、その一言が物理的な致命傷になることぐらい、この朴念仁でも分かる。
「正しいお化粧っていうのは、なりたい自分の方向性を決める道標みたいなものなのよ」
クロエはポカンとしている。
しかし、フェリルの語尾には力がこもる。
「美しさって言うのはね、決して造形美だけの問題じゃないの。表情とか、所作とか、香りとか、下手すると会話の内容とか、そういうのを全部ひっくるめて美しさって呼ぶのよ。でも、そういう規範が曖昧なものって、人によって好き嫌いがあるでしょう?『凛とした女性』になろうとしたら、フリフリの花柄ドレスは方向性が違うわよね?」
「わ、わかる気がします……」
「なりたい自分、表現したい自分に、ちょっとだけ力を貸す魔法がお化粧なのよ。だから、良いメイクっていうのは、他人がどうこういうものじゃないの。自分に自信さえ与えてくればいいんだから」
フェリルは優しくクロエの頬に触れた。
白いファンデーションがつくが、フェリルは気にしない。
「クロエちゃん、あなたはどんな女性になりたい?優しい人?強い人?それとも、可愛い人かな?」
「私は………ギラギラした、品の無い感じの人になりたいです……」
「おっと!?」
「だって……今まで隊長の傍にいた女が……」
「OK、皆まで言わなくていいわ。ようするに、あのバカのセンスの無さが問題なのね」
「意義あり!!」
「却下。っていうか、あなた、後で説教だかんね」
ギロリとフェリルに睨まれて、イシュメールはもう小さくなるしかない。
「クロエちゃん……あのバカに振り回されるのはやめて、本当になりたい自分になってみようとは思わない?自分とは違う誰か――ではなくて、自分がこうなりたいって自分……」
「………こうなりたい自分……」
「そう。きっとあるでしょう?でも『自分はこういうのが似合わないから』とかいうネガティブな決めつけはナシね。心のままに、本音を教えてみて?」
「わたしは………」
クロエは何かを言おうとして言いよどんだ。
でも、フェリルはそれを無理に訪ねたりしないで待つ。彼女なら、下手なプライドとかを乗り越えて来ると信じているからだ。
「わたしは……母みたいになりたいです……」
「お母さまはどんな人なの?」
「……明るくて……優しくて……。でも、父といる時は、すっごく可愛くて……都の女性達みたいに、変に着飾らなくても、とても女性らしい感じがする人……」
「素敵な人なのね……」
「でも、私、昔っから男の子みたいで……。だから、母みたいにはなれないって、どこかでずっと思ってて……」
「なれるわ」
「でも……」
「なれる!!私がならせてあげる!!」
断言したフェリルの声がクロエの顔を上げさせた。
「私はフェリルよ?だてに美しさだけで家計を支えていた訳じゃないの。それに、こんだけの一流素材があれば、どんなに下手な料理人だってどうとでもなるわ。むしろ、自信がない方にびっくり。遠まわしな嫌味なのかって思うわ」
フェリルはすっと立ち上がると、店内の隅においてあったポーチから化粧道具一式を取り出してきた。
「さあて、覚悟してなさい。明日の太陽は西から上がるわよ!!」
化粧道具を両手に持って、不敵な笑みを浮かべるその様子は、さながらイモ娘を王妃に仕立て上げる魔女のようである。




