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ジビエ料理「潮吹亭」  作者: 白くじら
クロエ・ノーム
17/114

現在⑪ 襲来

 イシュメールは、手に持っていた本が床に滑り落ちる音で目が覚めた。

 壁の時計を見ると、もう閉店時間はとっくに過ぎている。といっても、客の来ない店に閉店時間もクソもなにのだが、そこら辺はケジメであるらしい。膝にかけていた外套を羽織って外に出ると、周囲の雪が月に照らされていて、ぼうっと穏やかな光を発していた。


 この時期、この時間にほっつき歩いている動物など、人間を除いているわけがない。完全に静まり返った空気が辺りを支配している。

 イシュメールは「営業中」という看板をひっくり返し、入口の灯りを落した。そうなると、いよいよ周囲は森の中だ。月明かりのみが物の輪郭を表現している。


 遠くに、馬のいななく声がした。

 駅馬車だろう。


 なんの義理があるのか、この時期に、この時間でも、なぜか駅馬車は走っている。流石に最終便なのは間違いないのだが、ご苦労なことである。

 イシュメールは店の中に入ると、一杯の椀と酒を用意した。気まぐれにやっているわけではなくて、気が付けば毎回やっていることだ。両者とも客もいないのに自分の仕事をまっとうしている――ようするに、シンパシーを感じているのだ。


 

 イシュメールが再び外に出てから5分もたたずして、駅馬車はその姿を月明かりに姿を現した。4頭の巨大なブルトン種である。戦車のような巨大な馬車をものともせず、リズミカルな鼻息とともにゴロゴロと進んでいく姿はちょっと異様だ。

 

 駅馬車は潮吹き亭の前で止まった。

 高い位置から、いつもの御者の声が聞こえる。


「おおイシュメールの旦那が出てる。今日はラッキーだな」

「おつかれさま。代り映えしないけど、いつもの煮込みとホットワインです」

「ありがたい。この時期の最終便は、これが何よりの楽しみなんだよ」


 御者はこわばった躰を何とか動かして、地面に降りた。


「馬に水は?」

「ああ、もらおうかな。バケツはいつもの所かい?」

「そっちはやっとくんで、温かいうちに食べててくださいよ」

「わるいじゃねえかよ。お代を置いておこうか?」

「大丈夫ですよ。その代り、春になったら『いい店がある』って、乗客に宣伝してください。特に、若い女性にはサービスするって」

「ははは、よし、そっちは任せとけ。仲間内にも頼んでおくよ」


 イシュメールは、店の裏に回って水を用意する。ブルトン種4頭に水を飲ませようとすると、けっこうな重労働なのだが、そこら辺は元軍人で現役魔獣撃ちである。御者が食べ終わる前には、四頭すべてに水桶が用意されていた。


「ありがとうな。これで、残りの行程も頑張れるよ」

「それはよかった。馬の水は――」

「ああ、もうこれぐらいでいいな。飲ませすぎちまうと、走らなくなっちまうからって――いけねえ!!頼まれていたのがあったんだ」


 御者は自分の鞄をゴソゴソと探ると、一枚の手紙を取り出した。

 明らかに上質な紙を使っており、微かに香水が振りかけてある。


「これは?」

「今日、あんさんに渡すように頼まれたんだよ。なんでも、郵便は足が付く可能性があるとかでな」


 手紙の宛先にはシンプルに「潮吹亭へ」とある。

 裏を見ると、差出人は「出汁のような女」とあった。


「なんだ、旦那の想い人か?」

「そうだといいんですがね、残念ながら違うんです。この方は、自分の運命に流されながらも、懸命に対岸に泳ごうとしてもがいている人です。さながら、私は応援団の一人ってとこですかね」

「はははは、ようわからんが、そらぁ難儀だな。でもまあ、何にせよ人には分相応の役目ってのがあるってことかね。俺は駅馬車で、あんさんは鉄砲撃ちってな具合によ。ああ、料理人の方がよかったかな」

「どちらでも。皆、役目は一つじゃあないでしょう?」

「違いないな。さあ、じゃあ俺は駅馬車の役目をまっとうしようとするかね」

「お疲れ様です。気を付けて」

「ありがとうな。また寄らせてもらうよ」


 御者は、よっこいしょと馬車によじ登ると、馬達に手綱で指示を出した。

 月明かりに照らされた夜道を、またゴロゴロと駅馬車が進んでいく。イシュメールは、その姿が見えなくなるまで見送ると、ようやく店の中に入った。


 寒い場所から、温かい場所に入ると、末梢血管が開いていくの実感する。人々が生み出してきた文明の知己に感謝したくなる瞬間の一つだ。


 しかし、今日のイシュメールに、その瞬間はやってこなかった。

 扉の向こう側――つまり、店内に一人の影があったからだ。



「………隊長……」



 聞き覚えのある声である。

 ただ、その響きは、オガの時の様な再会の喜びを含むというよりは、妙な緊張感を含んでいる。


「クロエ……」

 

 イシュメールは「おお久しぶりだな~」と言おうとしたが、なんとなく明るい調子で話しかけたら、首を飛ばされそうだったので、無理やり神妙な顔をしてみせた。


 長い夜の始まりである。



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