淡く散る
あの日は、朝から雨が降っていた。
『ジュノ、大丈夫? 今日はいつも以上に顔色が悪いような……』
『……うん。ちょっと、色々あって』
『歩けそう? 早く横になった方がいいよ』
『マリア。俺はもう、ここには来ない』
『え? どういう事? 異動命令が出た、とか?』
『……違う』
『だったら、どう……あっ、私何かいけない事しちゃった?』
その後、突然された。
唇に、チュっと。
「それで、すぐに出て行って。その後本当に医務室に来なくなっちゃったんです」
沈黙したままの、クオンさん。
「私の思い違いでなければ……あの時ジュノ、泣いてたんですよね。だから、よっぽどショックな事があって、つい、私で気晴らしをしたくなっちゃったのかなぁなんて」
まだまだ、何も言ってくれないクオンさん。
「それ以降、総務に行く時に顔を合わせる事はあったんですけど、なんか避けられてて。それで、私の甘酸っぱい初恋は淡く散ったという感じで。次にちゃんと話したのは、数年後、中央に異動になったって挨拶をしに来てくれた時だったんですよ」
いつまで無言でいるつもりなのかな。
ちょっと不安になって来た時、ようやくクオンさんが口を開いた。
「そうか……やっとわかった」
「やっと喋ってくれた」
かと思えば、深いため息を吐いて。
「気の毒にな」
「大丈夫です、慰めてくれなくても。今となっては良い想い出ですから」
「違う。あいつがだ」
「え?」
ジュノが気の毒? 今の話のどの部分で、そう思ったのだろう?
持病の件? 涙が出る程辛い事があった件?
分かりかねて首を傾げていると、クオンさんがそっと私を抱き寄せた。
「ど、どうしましたか?」
「悪かった。あいつの分まで……俺が守ってやらなきゃいけなかったのに。……基地司令にされてた事、気付けなくて」
心臓が、大きく脈打つ。
あの暗黒の三年間。
そして……全てをクオンさんのせいにして、真実を追求しようとしなかった自分の愚かさ。
泥のように心にこびりついたままの記憶と感情が蘇って。
「いえ……私の方こそ。クオンさん、何も悪くなかったのに。きちんとクオンさんに話せば……もっと早くわかり合えたのに」
「……それはそうだな。こっちはあれだけ好意を示したんだから、少しくらい信じてくれても良かったよな」
「だから、言ったじゃないですか。こんなに素敵な人が自分を……なんて、普通思えませんから」
「…………お前、そういう控え目風な事を言う割に、実は面食いだよな。ソン・ジュノが初恋って時点で、かなり」
「あ。ホントですね。分不相応とか言いながらも、クオンさんを好きになってる時点で、明らかに面食いですね」
こんな軽口を聞いて、笑い合える日が来るなんて。
男の人が去った後の医務室で、一人泣いていた頃には、思いもしなかった。
「クオンさん。私、これからはちゃんとクオンさんを信じます。信じて、頼ります」
「ああ」
「だから、クオンさんも一人で踏ん張り過ぎず、私に寄りかかって下さいね。それでも倒れちゃわない位、私、強くなったんですよ?」
「そうだな。サワディーでの危機も、お前のお陰で乗り切れたんだもんな」
「あれは……アルマンやコマチちゃんや……ジル君、ルーク君あっての、ですが」
「でも、無茶はするなよ」
「ふふ、婚約者に心配をかけない女になってくれ……ですか? あれも、何を企んでるんだって思ってましたけど。フツーにそのままの意味だったんですね」
「やっと、伝わったか」
あの日貰った紅いリボン。
それで括られた私の髪を撫でてから、クオンさんは自分の唇をそっと私の唇に寄せた。
この温もりを、もう離さない。離したくない。絶対に。
『一番大切なものを守る為には、自分がこれからどうするべきか、考えて欲しい』
ジュノの言葉が心の奥で、じんわり広がって行く。
私は、もっともっと強くなる。
クオンさんと同じ場所から、物事を考えられるように。未来を選んで行けるように。
「あ。これ、ジュノと間接キスですね」
「……お前、俺が嫉妬してるの、楽しんでるだろ」
私のおでこをデコピンではじくクオンさん。
その不機嫌そうな顔ですら、宝物のように愛おしく感じた。




