2 ちゃんと見てほしいから
数学の追試を無事終えて、私は自分の教室へと向かっていた。
追試対象者は、なんと私を含めて五人程度しかいなかった。
普通科だけだったとはいえ、さすがに危機感を覚えた。これからはもう少し余裕を持って勉強しよう。
階段を通り過ぎようとしたところで、私はふと歩みを止めた。
そして普通科の教室がない三階へ上り始める。この棟の三階は、特進科のフロアになっている。
頭上のプレートを確認しながら、ゆっくりと廊下を進んでいく。
特進科は各学年二クラスずつで、一年生のどの教室にも、残念ながらお目当ての人物の姿は見当たらなかった。
というか、さすが特進科と言うべきなのか、放課後に教室に居残って自習をしている生徒がなんと多いことか。
見習いたいけど、見習いたくない、というよりも、見習えない。
彼女たちに対する尊敬の念は両腕じゃ抱えきれない。
なんかもやもやする。
このもやもやは……そう、私の目に映る人たちに比べて、自分がとてつもなくくだらない人間に思えてくるせいかもしれない。
勉強はそれほど得意じゃないし、部活にも入っていないし、得意なこともこれといって特になし。
じゃあ何か私がしたいことはないかって考えたら、思いつくことも全然ない。
二階におりて放課後の静かな廊下の先を見遣る。
私のクラスの前で静かに佇んでいる人物が目に入った。
やるせない思いで今にもつきそうになっていたため息が、その人物を視界に捉えた瞬間に引っ込んでしまった。
いや、雲散霧消とでも言い換えるべきか。
すごいね、いなみんパワー。
いつ気づくかなあ、なんて思いつつ、いなみんにゆっくりと歩み寄っていく。
すると、あと一教室分というところまで近づいたとき、いなみんが歩いてくる私に気づき、こっちを見たままぴたりと静止した。
そして例によって、ぐっと目を細めて私の正体を突き止めようとする。
私はすかさず、いなみんに向かって走り出した。
「こんなところで何してるんだあ!」
わざと声を荒らげ、両手をあげていなみんに迫る。
いなみんはビクリと体を震わせ、身を翻して私に背中を向けた。
「ごご、ごめんなさい! 何もしてないです!」
逼迫した声でそう言い捨てて、いなみんはそこから逃げ出そうとした。
だがお生憎さま、私はすぐに追いついて、いなみんの背中に飛びついた。
後ろからお腹に腕を回してがっちりと拘束する。
いなみんは突然の出来事に混乱したようで、両手をバタバタと動かして、よくわからない発音で許しを乞うていた。
まるで絶体絶命の窮地に立たされたかのような必死さだ。
なんだか罪悪感を覚えた私は、「いなみん、私だよ」と、できるだけ穏やかな声音で語り掛けた。
私の声は混乱したいなみんにもすぐに届いたようで、すぐにジタバタすることを止めて、頭だけを動かして後ろに顔を向けた。
いなみんが左腕をあげて、脇の下からこちらを覗いてくる。
背中に張り付いている私を見つけると、いなみんは満面に笑みを浮かべて喜びの感情を放出した。
そんな反応をされるとなんとなく気恥ずかしい。
でも、私の存在がいなみんの喜びになっていて、その事実は私にも喜びをもたらしてくれた。
「お昼休みにも来てたよね、何か用事でもあった?」
私が尋ねると、いなみんはコクコクと首を縦に振った。
「えと……あ、会いたかった、ので……」
え、何それ、いなみん可愛すぎるでしょ。
いなみんが何かやましいことでも隠すように、私から顔を背ける。
私から見える首筋と耳が赤らんでいた。
おお、なんか、なんだ……。
どうしようもなく体がムズムズするような……これは、痒い場所がどこか分からなくて、でも確かにどこか体の一部がむず痒くて、もどかしくてそわそわして落ち着かないあの感じに似ている。
いなみんの言動に、私はどう反応していいのかわからず困ってしまった。
わーい嬉しいよー、とか、私も会いたかったよー、とか、いくつか頭の中でセリフをシミュレーションしてみるが、どれもいまいちピンとこない。
ひとまず、密着していた体を離し、いなみんを解放してあげることにした。
しかしあれだ、いなみんの体はふかふかしていてあったかくていい匂いで、そう、まるで干したてのお布団のようだった。
心地よくて、安心感に包まれる、そんな感覚。
私が離れても、いなみんは依然として私に背中を向けたままだった。
「まあ、ここで話すのもなんだし、教室入ろ」
肩を叩いて手招きをする。
いなみんは、「は、はい」と返事をして、素直に私の後についてきてくれた。
教室には私たち以外誰もいない。
ところどころの机にはまだかばんや荷物が残っているから、おそらく部活か、何か他の用事でどこかに行っているのだろう。
窓際から二列目、前から五番目が私の席だ。
自分の席の椅子を引いて、「どうぞ」と言う。
いなみんは恐る恐る、ギクシャクとした動きで私に勧められるままに椅子に座った。
「で、用事とかじゃなくて私に会いに来ただけだったの?」
前の席に腰をおろしながら訊くと、いなみんは小首をかしげて、何やら躊躇いをみせつつ頷いた。
「そっか、わざわざ来てくれてありがとう」
お礼を言ってみると、いなみんは首を激しく横に振った。
「い、いえ、迷惑かなとも思ったんですけど……」
「迷惑なわけないじゃん、すごく嬉しいよ」
「でも私、みんなに、きっ、嫌われてるから……その、北方さんも変な目で見られちゃうかもって……」
そう言って、いなみんは悩まし気な目をして顔を俯けた。
うーむ、昼に聞いた例のあんな噂とか、周囲のいなみんに対する印象とか、そんなものはこうやっていなみんとしっかり向き合ってコミュニケーションをとれば、途端にひっくり返ってしまうと思うのだけど……。
「私はいなみんのこと好きだよ」
何気なく言うと、いなみんはバッと勢いよく顔を上げた。
また顔を真っ赤にして、目を丸くしている。
「可愛いし、いなみんの動きってなんか面白いよね。あれだ、小動物系ってやつ?」
「わっ、私、普通の女の子より体が大きくて、ぜ、全然可愛くないし、ましてや小動物だなんてそんな……」
「それも良いことだよ! さっきいなみんに抱き着いたとき、とてつもなく莫大な癒しパワーに包み込まれたもん。あれはいなみんの身体の大きさあってこそだね」
「でもでも……えと……ほ、本当ですか?」
不安そうに尋ねてくるいなみんに、私は「もちろん」と言って頷いた。
「えとあの……あ、ありがとうございます……」
いなみんがどこかほっとしたような、安堵のような表情を浮かべる。
昨日出会ったばかりの私にもこんな風に打ち解けてくれるのだから、きっと、やり方次第ではいなみんが周囲に馴染めるようになるのも難しいことではないのだと思う。
「ところで話は変わるんだけど、いなみんの名字ってさ、い・な・み、じゃなくて、い・ん・な・み、だったんだね。私いなみさんだと思ってたよ」
「ご、ごめんなさい、あの時すごく緊張してて……」
「あはは、いいのいいの。いなみんはいなみんだしね」
「あのあの、うっ、嬉しいです!」
突然に意気込んだ調子で、両手で握りこぶしをつくったいなみんが全力で声を絞り出した。
「嬉しいって、何が?」
「えと、あ、あだ名が初めてで、その……う、嬉しかったです、なんか友達みたいで」
「みたいって、友達でしょ?」
いなみんが目をみはり、信じられないというような顔をする。
「違う?」と再度訊きなおす。
いなみんは目をぎゅっと瞑って首を横に振った。
そして、恥じらいの中に喜びの混じった微笑みをこぼした。
「友達だと思ったから、ここに来てくれたんだよね。だからね、私はそれが嬉しかったの。クラスは教えてなかったのに見つけてくれて……あっそうだ、いなみん視力悪いから探すの大変だったでしょ」
「えっ、どうして知ってるんですか?」
「いなみん、いつも目を細めてるもん」
視力を矯正していない時にそうするように目を細めてみせた。
いなみんは少し驚いた顔をした。
「いなみんはメガネとかコンタクト持ってないの? 私はコンタクトだよ」
指でピースサインを作って右目の横にあてがう。
ついでにウインクもしてみる。
いなみんが私に、どこか羨望の眼差しを向けてきた。
「コ、コンタクトは怖くて……つけられるの、すごいです」
「うーん、慣れたら全然平気だけどね。コンタクトがダメだったらメガネは? 持ってないの?」
「いっ、一応……」
持ってるのかよ! だったら無理しないでかけなさいよ!
なんて心の中で叫びつつ、いなみんを脅かさないように努めて平静を保った。
「いなみんさ、目の細め方からしてかなり視力低いでしょ、かけないの?」
「は、はい、今は両目で〇・一くらいで……でもメガネは……」
おっ、なんだなんだ。
「あの、かっ、かわいくない、ので……」
それを聞いて、私は思わず重力に任せて頭を落とし、額を机にぶつけていた。
ゴンッという鈍い音と共に、頭に重い衝撃が走る。
私の視界には机の表面しか映っていないが、頭上でいなみんがあわあわと動揺して、両手をバタバタと揺らしているのがわかる。
いなみん、君って子は……。
「だだだ大丈夫ですか、あのあの、きっ、北方さん……?」
そういえばいなみんは昨日、クレープを食べたかった理由が、かわいいからと言っていた。
そしてついさっきは、自分の身長が一般的な女の子よりも高いことを可愛くないと言っていた。
これはまた、いなみんについて少し分かってきたかもしれない。
「えと、あの……だ、大丈夫、ですか?」
いなみんが求めているもの、それは、昨日のいなみんの言葉を借りるとすれば、まさに“女の子のキラキラ”なのだろう。
いなみんの言動を考慮すれば、そのキラキラの中にはたぶん、“友達がいること”も含まれていたはずで、だからこんなにも臆病で内気ないなみんが、私という存在を求めてここまで来てくれたのだと思う。
もしかしたらそれは私の思い過ごしかもしれないけど、もしもその通りだったとしたら死ぬほど嬉しい。
なんだろうこの気持ちは、いなみんと会ってから何度か感じた覚えがある。
この掴みどころのない、ぼんやりとした、胸の奥に沈んでいるこれは一体何なのだろう。
「き、北方さん、どうしたんですか……?」
それはそうとして、いなみんは理想の女の子像を追い求めるあまりに、今ある自分を見失っている気がする。
理想に突き動かされることが悪いことだとは言わないけど、それでいなみん自身の良さが殺されてしまうのは、あまりに勿体ない。
結果的に、それが対人関係の過度な緊張にもつながっているのだろうか。
「いなみんは不器用なんだからさ」
「えっ、えええ、あのあの……」
重たい動きで頭をあげると、そこには困惑したいなみんの顔があった。
そりゃそうだ、放置してごめんよ、いなみん。
「今、メガネ持ってる?」
「はい、持ってます」
いなみんが制服の内ポケットをまさぐり、革のメガネ入れを取り出した。
「メガネを出す」
いなみんは、「は、はい」と返事をして、若干もたつきながら中から赤のメタルフレームのメガネを出した。
「それをかける」
メガネを指差して言う。いなみんが素直に従って、プルプルと震えながらメガネを装着した。
かわいいじゃん!
「かわいいじゃん!」
「えっ、あ、あの、そんな……ことないです」
いなみんが顔を俯けてもじもじとする。
私はいなみんの顔を両手で持って、強制的に正面を向かせた。
上気するいなみんの頬はすごくあったかい。
「そんなことある。いなみんすごくかわいいよ、メガネも似合ってる」
上下の唇をぴったりと閉じたいなみんは、もはや声も発せないようで、ただ顔をどんどんと赤く染め上げていくだけだった。
「いなみん、私の顔見える?」
いなみんがコクコクと首を縦に振る。
「ぼやけずにしっかり見えたの、初めてなんじゃない?」
瞳を潤ませて、いなみんが頷く。
「ねえ、いなみんには、もっとしっかり私を見てもらいたいな。それに、メガネかけてくれないと色々と心配だもん。ね、いなみん、これからはちゃんとメガネをかけてほしい。私のことをちゃんと見るためだと思ってさ」
いなみんが目をしばたたいて、僅かに唇を動かした。
「はい……き、北方さんがそう言うなら……」
「うん。大丈夫だよ。いなみんはメガネをかけてもすごくかわいい。私が保証するよ、私なんかの保証じゃ頼りないかもだけど」
両手をいなみんの顔から離しても、いなみんはレンズの奥から、目を細めることなく私の目を見つめてくれた。
やっぱり、いなみんの目はキラキラしていて綺麗だ。
これを隠してしまうなんて、すごく勿体ない。
この瞳を、私はもっと見ていたい。
「き、北方さんって、すごいです」
「えっ、どこが?」
「私、メガネもメガネをかけた自分も嫌いだったんですけど、今はもう、北方さんのおかげで、き、嫌いじゃない……かも」
「そっか、それは良かった」
私がふふっと笑いをこぼすと、いなみんも微笑を浮かべた。
私はまた、自分の胸の奥にひっそりと転がるぼやけた感情の存在を感じた。
なんだろう、少しもやもやする。
「そうだ、昨日すっかり忘れてたからさ、今のうちに連絡先交換しとこうよ」
私の提案に、いなみんがあたふたとして立ち上がった。
「きょっ、教室にケータイがあるので、かばん取ってきます!」
「うん、わかった。待ってるね」
いなみんに手を振ると、いなみんは私に手を振り返す代わりに、小刻みに何度も首を縦に振った。
いなみんの首振りは昨日今日で何度も見てきたが、いくら見ても可愛くてほっこりする。
教室を出ていくいなみんの背中を見送ってから、私は少し考えに耽った。
誤魔化したいけど、誤魔化せない、この胸のもやもやは一体何だろう、って。
私はいなみんの力になりたくて、いなみんにとって私が、いわば一点の光明のような存在でありたいと思った。
それは今まさに確信していることだ。
いなみんが私という存在を求めてくれて嬉しい。私はいなみんの手を引っ張ってあげたい。
だけど、それっていうのはたぶん、私自身が安心したいからなんだと思う。
誰かに必要とされて、求められて、私は自分自身の在り処をそれによって証明したいのだと思う。
だって、今の私には何もなくて、からっぽで、どこに向かって歩けばいいのかさっぱりわからないから。
何を頑張ればいいのかもわからない、何をしたいのかもわからない。
だから、いなみんという存在が私を私としてくれるための道標なのかもしれない。
どこかに導いてほしいのは私の方で、私を導いてくれるのがいなみんなのかもしれない。
今、いなみんは私を必要としてくれていて、それと同じように、私もいなみんを必要としているのだ。
だったらその道標を通り過ぎてしまったら?
もしくは、その道標が私の視界からなくなってしまったら?
……違う、考えるべきはそうじゃない。
思い出してみればいい、いなみんのキラキラした笑顔を。
通り過ぎようものなら、掴まえて腕に抱えてしまえばいい。
見失わないように、手でも繋いでいればいい。
お互いを必要としているのなら、そうして一緒に歩けばいいじゃないか。
「お、お待たせしました」
「いなみん!」
「はっ、はい!」
教室に入ってきたいなみんが、私の声に動きを止めて硬直した。
私は椅子から立ち上がって、かばんを抱きかかえたいなみんの肩に両手を乗せた。
「お願いがあります」
いなみんが動揺して目を泳がせる。
「な、なんですか……?」
「私に、勉強を教えてください」
いなみんはポカンとして、「えっ、あっ、あの……」と声を漏らすだけで、言葉に詰まっていた。
そして、いくらか逡巡した後、
「は、はい、私でよければ……」
と私のお願いを聞き入れてくれた。
いなみんが目を伏せて、照れくさそうに頬を赤くする。
「ありがとう、いなみん。ところで——」
私はいなみんの肩に置いていた両手で、いなみんの頬をぺちんという音と共に挟んだ。
むにむにとした柔らかい感触と共に、赤みのさした頬が変形した。
「どうして早速メガネを外してるのかな?」
メガネのなくなったいなみんの顔を凝視して訊く。
すると、いなみんはあわあわと狼狽し始めた。
「ごごご、ごめんなさい。あの、メガネがあると人の顔がくっきり見えちゃって、どこを見たらいいのかわからなくなっちゃって……あとあと、やっぱり北方さんがいないとメガネかけてるのが恥ずかしくて……」
なるほど、メガネをかけていなかったのにはそういう意味もあったのか。
いくらなんでも人見知りをこじらせすぎだろう。
しかし無理をさせるのも気が引けるし、要特訓ということで。
「まあ、少しずつ慣れていこうね」
いなみんの頬を親指でそっと撫でる。
くすぐったそうに目を細め、コクリと頷いた。
頬から手を離すと、いなみんは内ポケットからメガネを取り出した。
荷物を私の机に置いて、両手でメガネを装着した。
「でも、き、北方さんの前だったら、もう平気です。ほら……えへへ、北方さんの顔、よく見えます」
そう言って、いなみんがにっこりと微笑んだ。
かっ、かわいい……!
眩しい、愛しい。その笑顔は反則だろう。
鋭利な槍で胸を一刺しにされた気分だ。いや、例えがアレだけど、決して悪い意味でなく。
それから、私といなみんは互いの連絡先を交換して、また少しの間教室に残ってお喋りをした。
お互いの名字が北と南だねえ、なんてしょうもないことや、いなみんが周囲に勘違いされていることについても少し話した。
途中でクラスメイトが教室に入ってくることが何度かあって、その度にいなみんはシュンと縮こまっていてかわいかった。
いなみんについて色々と知れたり、わかったりすることもたくさんあったけど、やはり人のことを知るには時間がかかる。
もっともっといなみんのことを知りたい、近づきたい、そう思うためにすごく有意義で楽しい時間だった。
いなみんもそう思ってくれていたらいいな。心の底からそう願った。