私の好きな人は私を嫌ってる。
好きな人がいる。
ずっと、ずっと。それこそ物心ついた頃からずっと。
気づいた時にはもう既に遅かった。
どうしようもなく、惹かれていた。
でも。
私の好きな人は私を嫌っている。
「ヴィクトリア、ここで少し待っていてくれるか。」
最近、社交界ではある噂で持ちきりだった。
それによると、どうやら私は浮気をされているらしい。
旧知の間柄であるわが婚約者は、なんと最近デビューしたばかりのお嬢さんに夢中らしいのだ。
それも貴族になったばかりの、元は平民の娘に。
「すぐ戻るから。」
「はい、分かりました。」
いつもなら婚約者が歯牙にもかけぬような、下らない社交界。
なのに、この日は違った。
婚約者は会場に入るなり、私をおいてそそくさと退散してしまう。私の記憶にある限り、彼はそれほど人との馴れ合いを好むタチでもないのに。
顔を見ずともすぐに分かった。
あぁ、また彼女に会いにいくのかと。
普段は不機嫌そうな顰めっ面だけれど、きっと。それも彼女の前では、弾けるように笑うのだろう。
この世界の主役たる、彼女には。
「追いかけなくていいの?」
「あら、誰かと思えば。あなたでしたか。気配が薄くて気づきませんでした。」
「その言葉、そっくりそのままお返しするよ。ふふ、ざまぁないね。」
後ろを振り返る。
そこには、抜けるように白い美少年。私の友人アインスがニヒルな笑みと共に立っていた。
相変わらず神出鬼没な男だ。しかも、とんでもなく図太い。
ふつう、そこはスルーしてくれる所じゃないのかしらね。
こっちは仮にも婚約者に置いてかれた女だというのに。
「ねぇ。その被害面やめて?殴りたくなる。」
「まだ何も言ってないでしょう。」
「口にしてなくても全身が語ってんだよ。ほんと、君は卑怯な女だね。」
先にうらぎったのは、きみだろ。
アインスの口調は酷く穏やかった。けど、その温度は酷く冷たい。彼は心底私を軽蔑していた。
彼の幼馴染である、あの男を裏切った私を。
どうして。
どうして、人生って思い通りにはいかないのかしらね。
機械みたいに正確に、ゲームみたいに簡単で単純だったら。
私も彼も、みんな幸せだったのに。
「そうね。私が、さきに彼を裏切った。」
「分かってるならさ、いい加減に腹を括ってよ。償ってよ。あいつを解放してやってよ。」
「…いやよ。」
「はぁ?」
「絶対、いや。」
私は、ほんとうに嫌な女だ。卑怯な女だ。自分でも痛いほどよく分かってる。
でも、それでも良い。それで構わなかった。
たとえ、誰も幸せになんかならないと知ってても。誰かに侮蔑されようとも。
私は諦めたくないのだ。
この恋を、絶対に。
そのためなら手段は選ばない。
何だって、なんだってしてやる。
自分の婚約者でさえ犠牲にできる。
「君ってほんと最悪な女だね。愛してるのは彼の兄のくせに。彼を駒にして。相手は既婚者なんだよ?」
「あらあら。仕方ないでしょう。愛してしまったんだから。それとも彼に、家族と縁を切れとでも言えばいいの?」
それもまた、面白そうではあるけれど。
でも、そんなことしたら、それこそ私の好きな人との大切な繋がりが無くなってしまう。今度こそ、二度と姿を見せてはくれないだろう。
「馬鹿なことを言うな。僕はただ、誠実になれと言ってるだけだ。彼を利用するな、彼を受け入れてやってくれ。」
「いやよ、面倒くさい。」
「なっ。君のせいで、あいつが…君の婚約者がどれほど傷ついたと思ってるんだ。」
「さぁ。」
そんなの興味もないし、どうでもいいじゃない。
手の中のワイングラスをゆるゆると回す。赤く濁った中身は、どれほど照明に当てても少しも底が見えなかった。
きっと。
私の恋も、これと似たようなものだ。終着点のない底無し沼。救いも無ければゴールもない。諦めたくても諦めきれない。
諦めることすら、諦めてしまった。彼への恋心。
自分でも、こんな自分がおかしいということは、とっくの昔に知っていた。
「どうでもいいじゃない。」
「きみは…っ!」
「確かに、可哀想だとは思うけれど。でも、恋ってそういうものでしょう。求めて、求めて求めて求めて。いつだって一方通行。両想いなんて、それこそ奇跡みたいなものだわ。」
「だから!君が愛せばそれで済む話だろ!」
「ふふ、やぁよ。ひとりで勝手にさせてればいいのよ。」
それで、いつか勝手に諦めたらいい。
パシッ ——!
頰に衝撃が走る。視界がぐらりと揺れた。
「ヴィクトリア!」
「あ。」
「…あーあ。」
走り寄ってくる婚約者と呆然とするアインス。そして、二人を横目に溜息にも似た安堵をもらす私。
たぶん。
この関係に救いなどない。永遠にない。
それでも誰一人脱落しないのだから滑稽だ。結局、何だかんだ言いながらも人っていうものは。
自分が本当に大切だと思うものは、手放せない。
そんな強欲な生き物なのだろう。
「大丈夫か。何があった?頬以外に怪我は?まだ痛むか?」
「足首を、すこし。…捻ってしまったかもしれません。」
今日は、あなたと踊るのを楽しみにしてましたのに。
ざんねんです。
息をするように簡単に、罪悪感もなにもないまま嘘をつく。
足首なんて捻ってない。それどころか、打たれて転んだのはわざとだった。本当は、それほど力を込められてはいなかった。
でも。
私は目に涙を溜めて、男の手首に自身の手を絡める。
「う、うっ。」
「ゔぃ、ヴィクトリア…?」
「どこにも…どこにも行かないで下さい。」
視界の端で、アインスの目が微かに見開くのがみえた。
ねぇ、アインス。あなた「追いかけなくていいの」って聞いたわよね。いいのよ別に。
だってこの男は。
私の側から離れるなんて、できやしないんだもの。
わたしに愛されないことが悔しくて悲しくて腹立たしくて、別の女に気があるふりをするくらいには、私のことが大好きなんだもの。
私しか見ていないもの。
「アインス!お前、覚えておけよ。」
「ま、待って。これは誤解だ、話を聞いて。」
「お前と話すことなど何もない!そこをどけ!」
激昂した婚約者に振り解かれて、アインスの青い目は悲しげに歪む。
あぁ…いい。
とっても、いい。
「アインスさま。」
私の大好きなひと。
ずっと、ずっとずっとずっとずっと。好きだったひと。そして、これからも好きなひと。愛してるひと。
彼の兄を好きだなんて嘘。私はあなたが好きだった。あなたがすべて。あなた以外、なにも要らなかった。
…けど、彼はわたしを見ない。
絶対に、わたしを好きにはならない。
なぜなら。
彼の親友である婚約者が、私のことを好きだから。
「アインスさまが、こんな方だなんて。わたし、わたし…」
「ヴィクトリア。もう帰ろう。…見損なったぞ、アインス。」
大切な親友に失望されて。その綺麗な顔を、絶望と悲しみに歪める彼はそんな表情さえうつくしかった。
あぁ、なんて可哀想なアインス!
あなたは友達を救いたくて、ただ助けようとしていただけなのにね。勘違いされて一方的に詰られて捨てられて。ほんとうに可愛そう。
でも、だいじょうぶ。
言ったでしょう?彼は、私から離れられないって。
私があなたを許すと一言いえば。
すぐに、彼もあなたを許すわ。
私の言葉ひとつ匙加減ひとつで、またあなたと彼は親友に戻れるの。
ふふ、すっごく良い話でしょう?
だから、ねぇ。
はやく、私の所まで堕ちてきて。